25話
〇湊優希
翌朝。
目が覚めると、目の前には黒咲さんの顔があった。目の前も目の前、どれくらい近いかといえば、あと少しで触れそうなほど近くにあったので驚いた。
黒咲さんはまだ眠っているようだ。
どうやら私は、黒咲さんと一つの布団で一夜を共にしたらしい。
「ふあぁ……」
枕元に置いてあったスマホを見ると、まだ六時前だった。
早朝である。私からすれば、すごい早起きと言える時間だ。
「んー……」
二度寝しようかとも思ったけど、全然眠気がない。
「黒咲さん」
布団に寝そべったまま再び黒咲さんの方を見て、なんとはなしに名前を呼んでみる。
しかし、やはりというか熟睡中の黒咲さんが起きる気配はない。
ついでとばかりに、人差し指を黒咲さんの頬を突き刺してみた。
ふにふに。
「ふふ」
「んぅ……?」
おっと、起こしてしまっただろうか。
……うん、起こしてしまったみたい。
さっと手を引く。バレてないバレてない。
「おはようございます」
「うん……おはよう」
挨拶を交わすと、黒咲さんはふふと微笑んだ。
「どうしたんですか?」
「幸せだなーと思って」
確かに幸せそうな笑顔だ。
「それより、体調の方はどうですか?」
「ん、そうね。ええ、もう全然問題ないわ。頭痛もない」
「それは良かったです」
「……約束、覚えてる?」
一瞬、なんのことだか分からなかったが、すぐに思い出した。
昨日の約束だ。
風邪が治ったら、という条件で交わしたのだ。
「はい。覚えてますよ、約束」
「そ、そう。なら、いいのよ」
そう言いながら、黒咲さんは体を起こした。
「黒咲さん。もしかして、照れてます?」
そう言って、私も体を起こした。
「照れてないわ……私は朝食を用意するから、優希さんはゆっくりしてて」
そう言うと、黒咲さんは足早に部屋を出ていってしまった。
朝食に黒咲さんが作ってくれたのはサンドウィッチだった。めっちゃおしゃれなサンドウィッチだった。
すごい。流石本職。
味も文句のつけようが無いほど美味しかったです。
ごちそうさまでした。
そして、食後。ティータイム。
しかし飲み物は紅茶ではなくコーヒーだ。
「黒咲さんは、喫茶店の方でも働いているんですか?」
それは黒咲さんのお家が半分喫茶店だったことを知ってから、気になっていたことだった。
「ええそうね。最近は半々ってところかしら。最初は定食屋の方だけだったんだけど、去年喫茶店を改装してから、喫茶店のお客さんが多くてなってきて少し大変なのよね。嬉しい悲鳴ってやつね」
そう語る黒咲さんは、どこか楽しそうだ。
本当に嬉しくて楽しいのだろう。それは、働いた経験が一度もない私にはまだ分からない感覚だった。
「そうだ!実は喫茶店の方でバイトを募集してるんだけど、優希さん、良かったらやってみない?」
「バイト、ですか?えーと、要するに接客の仕事ってことですよね?」
「ええ、多分そうなるわね」
接客かぁ……。
うん、無理。絶対無理。
「だめ……?」
しかし断ろうと思ったところで、黒咲さんが不意に追い打ちをかけてきた。
ちょっと、なんでそんなに切実そうな顔するんですか。
うわー、断りにくい。
「……考えておきます」
結局、保留ということにした。
やりたくない訳では無いのだ。でも接客となると、私自身に不安要素が多すぎる。もしかしたら、いらっしゃいませの挨拶すらできない可能性がある。
忘れてはいけない。自分がコミュ障であることを。
そんなことを考えていたその時、ブー、とスマホが振動した。
私のだ。黒咲さんに断ってから見てみると、私の友人のポニテ女子大生、矢島莉奈からだった。
莉奈 : 近いうちに海かプールに行きます。その前に皆で水着を買いに行きます。これは決定事項です。優希、欠席しないように。以上
莉奈 : 追伸。優希の新しい友達、できたら紹介してよ。話が合いそうだし、会ってみたい。よろしく。以上
「……」
黒咲さんを紹介か。
確かに趣味は合いそうだけど……でも迷惑かけそうだなー……。
ちょうど目の前に本人がいることだし、聞いてみるのが一番か。
「あの、黒咲さん。私の友達が、黒咲さんに会ってみたいと言ってるんですけど……」
「優希さんのお友達が?……それ、いいわね。私も優希さんの友達に会ってみたいわ!」
意外なことに食いついきた。しかも嬉しそう。目が爛々としている。
そんなに興味を唆られる話だろうか?
「え、いいんですか?多分、というか絶対迷惑掛けると思うんですけど」
「そんなの気にしないで。それに、優希さんの話を聞く限りだと、そのお友達とは話が合いそうだなって前から思ってたのよ」
まじか。莉奈と同じ事言ってる。
でもこの様子なら不本意という訳では無さそうだし、大丈夫だろう。
「分かりました。じゃあ、そう伝えておきますね」
「ええ。ところで、それはいつになるのかしら?」
「まだ未定ですが、水着を買いに行って、海かプール行くそうです」
「み、水着……優希さんの、水着……」
聞こえてますよ。今更なので指摘はしないけど。
とまあそんな感じで、急遽黒咲さんをあの三人に紹介することが決定したのだった。
コトっと小さく音を立てて、黒咲さんはコップを置いた。
核心に触れるような話題を避け、とりとめの無い話をすることしばらく。莉奈のおかげで多少話が盛り上がったが、その話を延々と続ける訳にもいかず、とうとう互いの口数が少なくなってきた頃。
意を決したように黒咲さんが口を開いた。
「優希さんは、誰かとキスをしたこと、ある?」
「……それは、家族以外でってことですよね?」
「家族だと、あるの?」
「妹にせがまれてした覚えがあります。随分前、子供の頃のことですけど」
「……まあ、家族はノーカウントでいいわよね。家族以外は、あるの?」
「ないですよ」
「そ、そう……」
あ、黒咲さん嬉しそう。
「黒咲さんはどうなんですか?」
「私も、初めてよ」
「そうですか」
黒咲さんの様子からして、何となくそんな感じはしていた。
こんな美人なのに初めてというのは、意外といえば意外だったけど───しかしながら、それよりも更に意外なことがあった。意外で、衝撃的な事実が。
「む……もうちょっと嬉しそうにしてくれてもいいんじゃないかしら?」
「感想の長さは黒咲さんより二文字も多かったですよ」
「屁理屈じゃない」
「ふふ、冗談です。私も嬉しいですよ」
平然を装って、こともなげに私はそう答えた。
と言うと私が誤魔化したり嘘をついているように聞こえるかもしれないが、しかし実際のところ、僅かな誤魔化しはあったとしても、嘘は一つとして無かったと断言出来る。
嘘ではない。
そう。私の言葉に、嘘は無かった。
嬉しいという言葉に、嘘は無かった。
意外なことに、驚くべきことに、私は黒咲さんとのキスを心のどこかで心待ちにしていたのだ。
「でも欲を言えば、せっかくお互いに初めてなのですから、もう少しくらいロマンチックなシチュエーションが良かったですね」
例えば、デートの最後に、とか。
昨日デートを断ったばかりの私がそんなことを言ったら、黒咲さんは怒るだろうけれども。
「でも、約束は約束よ」
「分かってます」
そう言って、アイスコーヒーを飲もうとコップを手に取ったところで、中身がなくなっていることに気づいた。
これで何杯目だっただろうか。二回は追加で注いで貰った気がする。
随分話し込んでいたらしい。
緊張のせいか、時間の感覚が少し狂っているみたいだ。
「その……そろそろ、どう?……する?」
声には出さず、一度首を縦に振ることによって、私は肯定の意を示した。
手を引かれ、私は昨日のソファーに座らされた。
黒咲さんはここですることにしたらしい。
見上げると、頬を赤く染めた黒咲さんがいた。
「……いい?」
「……はい」
私がそう答えると、黒咲さんは顔を近づけてきた。
ある程度近づいたところで一度躊躇うように動きを止め、再び、次はゆっくりと近づいてくる。
ふわりと、黒咲さんから良い香りが漂ってきた。それから、微かな息づかいも聞こえてくる。
それと同時に、黒咲さんの手が伸びてきた。
私の視界の左端、すなわち左の頬に黒咲さんの右手が添えられ、私の右肩には黒咲さんの左手が置かれる。
───ああ、もうすぐ、黒咲さんとキスするのか。
ここにきてようやく、私は目の前のそれが現実なのだと理解した。
あるいは、どこか夢を見ているような感覚だった私を、黒咲さんの手が現実に引き戻してくれたようだった。
それにしても心臓がうるさい。私の中で、どくん、どくんとリズムを刻んで、我が物顔でその音を響かせている。
静かにしてほしい。
そうは思っても、自分の体のくせに言うことを聞かないのはいつも通りのことで、それが返って少しだけ私を落ち着かせてくれた。
「っ……」
黒咲さんの吐息を感じた。
肌でだ。
それくらいにまで、すでに黒咲さんは接近していた。
朝起きた時よりもさらに近い。
手入れの行き届いた金の髪や綺麗な肌が目に映る。
なめらかなピンクの唇に目が移る。
そして最後に、黒咲さんと目が合う。
────黒咲さん。
ほんの僅かに見つめ合ったのち、心の中でその名前を呼びながら、私はそっと目を閉じた。
そして────
────そっと、柔らかい感触が離れていくのを感じて、私は目を開いた。
「はっ、はぁ……はぁ……」
「んっ……はぁ……」
息を止めていたのは、私だけではなかったらしい。
荒く呼吸を繰り返しながら、私と黒咲さんは互いに見つめ合った。
黒咲さんの両手はまだ私に触れたままで、したがって私たちの顔もまだ近い距離にある。そのために、黒咲さんの表情がよく見えた。
あらゆる感情がないまぜになったその顔が、ただ私だけに向けられていたということも、私には良く見えていた。
満足そうな、物足りないような。愛おしくてたまらないとでも言いたげなその表情に、その熱い視線に晒されて、私の顔も少し熱を帯びたのが分かった。
「はぁ……」
「ふぅ……」
触れるだけのキスだった。
始める前は、上手にできるだろうかとか、失敗しないようにしようとか、そんなことを考えたりもしたが、しかしそんなことを考える余裕はなかった。
唇が重ねられた瞬間、そんな余裕は消し飛んだ。
柔らかくて、気持ちよかった。
感想はそれくらいで十分だろう。目の前にいる黒咲さんの様子を見れば、言うまでもないことかもしれない。私も多分、似たようなものだった。
「良かった……?」
「……はい」
「もう一回、いい……?」
「……はい」
そんなやり取りからキスをした後、黒咲さんは更にもう一回と、押し倒しそうな勢いで私にキスをせがんだ。
昨日押し倒されたことが若干トラウマみたいになっていた私は、黒咲さんの歯止めが効かなくなりつつあることを察して、三回目のキスで終わりにすることにした。
今日はもうダメです、の一声が私の口から出ていなかったら今頃どうなっていたことやら。
黒咲さんはもう少し自制心を身につけるべきだと、私は強く思った。
帰り際。
「あ。そういえば、朝起きた時のことなんだけどね」
「はい……?」
「私の頬っぺの触り心地はどうだったかしら?」
バレてた。ふつーにバレてた。
「ふにふにでした」
「ふにふに……?」
ふにふにでした。




