24話
〇湊優希
「体調が悪かったのなら、無理しないでください」
ベッドで横になっている黒咲さんの看病が一段落ついたところで、つい不満を漏らしてしまった。
「ごめんなさい……ついさっきまで、忘れてて……」
忘れてた、とはつまり、自分の体調が悪かったことを忘れてた、ということだ。
信じられない事にこの人は、自分が風邪を引いていたことを倒れるまで忘れていたと言うのだ。
昨日も体調が悪く仕事を休んでいたらしい。
翌日の今日も体調は回復せず、寝ていたところに私から電話がかかってきたのだとか。黒咲さんが電話で開口一番おはようと言い間違えたのは、そういう事情があったかららしい。
先程の突然寝てしまったあれについては、お昼に少し寝て一時的に良くなっていた体調が、ちょうどあのタイミングで再び悪くなったのだろう。アルコールは関係なかったのかと思ったけど、黒咲さんはお酒に弱いらしいので、そのふたつの理原因が重なって気絶するように寝てしまったのかもしれない。
「優希さん」
「はい」
「さっきのこと、怒ってる?」
「さっきの、と言うと?」
「その……ソファーの、あれ」
「ああ、あれですか。怒ると言うよりは……ちょっと怖かったので、いきなりああいうことするのはやめてほしいです」
「う」
「ですが、私にも非があります。突然黒咲さんの家を訪ねたり、それに、黒咲さんの体調が悪かったことにも気づけませんでした。気づいていれば、ここまで悪化しなかったかもしれませんし……。ですから私のことは気にせず、今は風邪を治すことを第一に考えてください」
「……うん」
「それより、聞きたいことがあるんですけど」
「何かしら?」
「黒咲さんのご家族が一向に帰ってこないんですけど、いつ頃帰ってくるんですか?」
ちなみに現在時刻は午後7時18分。親には帰りが遅くなると既に連絡済みだ。
「それなら、二日後に一度帰ってくるはずよ」
え?二日後?
「今日は帰ってこないんですか?」
「ええ」
「でも黒咲さん、帰ってくるって言ってませんでした……?」
ほら、私をお泊まりに誘った時に。そのうち帰ってるとかなんとか。
「そうだったかしら……?うちは今日から家族旅行なのよ。本当は私も行く予定だったのだけど、こんな感じで体調が悪かったから。もし私の体調が回復したら、二日後に合流して私も出かける予定になっているのよ」
初耳ですね。
全然帰ってこないじゃないですか。
そのうち、が二日後だなんて普通思いませんよ。実質騙してるようなものじゃないですか。危ない危ない。
「そしたら、二日後までこの家には黒咲さん一人ということですか」
「そうね」
なるほど。
うん…………仕方ない、泊まるか。
この状態の黒咲さんを一人にしておけるほど、私の肝は据わってなかった。はっきり言って心配だ。
「そうですか、分かりました。私、今日はここに泊まります」
「え、ど、どうしたの急に!?」
「黒咲さんの体調が良くなるまでお世話すると言ったんです」
「そ、それは……嬉しいけど、でも迷惑じゃないかしら。私なら、一人でも何とかなるわよ」
「歩くこともままならないのにですか?」
「う。そ、そうだけど……」
「気にしないでください。それに、最初は黒咲さんの方から誘ってきたことですよ?」
「でも、色々と迷惑だし……」
「ご飯はどうするんですか?薬を飲むための水は?取りに行く途中で倒れたらどうするんですか?」
「うぅ……」
「それに、私は迷惑だとか思っていませんよ。さっきも言いましたけど、私が今日来なかったら、黒咲さんの体調が悪化することもなかったんです。だから、私に面倒を見させてください」
「……ありがとう。優希さん」
「はい。では早速ですけど、夜ご飯作ってきます。食べやすいものがいいと思うんですけど、何がいいですか?」
「それなら……うどんとか?」
「うどんですね。すぐに作ってくるので、何かあったら電話してください」
幸いなことに、黒咲家には家庭用キッチンもあったため、あの大きな厨房を使わずにうどんを作ることが出来た。
それから改めて分かったことだけど、この家、すごく大きい。キッチンを探すために歩いていたら、その広さに気づいたのだ。
元々定食屋と喫茶店は別の建物だったらしく、それが一つになったため居住区域である二階がとても広くなったとか。
飲食店を営む一家の娘である黒咲さんに、料理歴数ヶ月の私のうどんが口に合うかと心配だったけど、黒咲さんは美味しいと言いながら完食してくれた。
お粗末さまです。
さて、夕食を終えた黒咲さんが他にやるべきことと言えば、後はお風呂に入って寝るだけである。
なのだが……
「ううぅ……あたまいたい……」
涙目でそう呟いているのは、ベッドの上で横になっている黒咲さんだ。
頭痛がかなり酷くなってきたらしい。
「ゆーきさん……」
仰向けだった体を私の方に向けた黒咲さんが、顔にかかった金色の髪をかきあげながら頭を抑えるという器用なことをしながら私の名前を呼んできた。
「どうしました?」
「あたまいたい……」
「知ってますよ。だからもう寝ましょうって言ってるじゃないですか」
「うぅ……ゆーきさん、つめたい……せっかくのお泊まりなのに……」
……ちょっと、可愛いかも。
むっすー、と頬を膨らませてむくれる黒咲さんを見て、不覚にもそう思ってしまった。
言葉遣いもなんだか幼くなってるし。
「お泊まりならまたいつかできますから、今日は諦めてもう寝てください」
「じゃあ……代わりに、なにかしたい」
「なにかって、なんですか?」
「デート……明日、デートしたい」
「明日ですか?ダメですよ。例え風邪が治ったとしても、明日は念のため家で大人しくしているべきです。明後日の家族旅行で、また体調を崩したらどうするんですか」
「む……ゆーきさんのいじわる……何でもするって言ったのに……」
「言ってません」
「じゃあ…………スしたい」
「え?」
「キスしたい……!もう付き合って一ヶ月以上経ってる。そろそろキスしてもいいと思う」
じぃーーー。
そんな効果音が聞こえてきそうなジト目で、黒咲さんが見つめてきた。
キス、か。
うん……いやちょっと待て。
こんな流れで決めちゃていいのか……?
私まだしたことないんだけど。
じぃーーー。
……まあ、いいか。黒咲さんなら。
「わっ、分かりました。……じゃあ明日、もし風邪が治っていたら、いいですよ」
「ほ、ほんとっ!?」
「ほんとです」
「約束よ?」
「約束します」
「っっーーー!!…………ふふ、へへ。えへへへへ」
うわ、すっごいだらしない笑顔。
その顔はちょっと不味いですよ。
「えへへへ……。うっ……あ、いたっ、いたた……あたまがぁ……」
「まったく、調子に乗るからですよ。さっさと寝てしまいましょう。お風呂はどうしますか?シャワーだけでも浴びれそうですか?」
「むり……もう、動きたくない……。でも、汗がべたついて気持ち悪い……」
「じゃあ、寝る前に汗だけでも拭いておきますか?」
「えっ……そ、それは、優希さんが、やってくれるの?」
何ですかその目は。
何を期待しているんですか。
「自分で出来るのでしたら、自分でやってください」
「無理ね。体がだるすぎて腕を上げるのも億劫よ」
急に言葉が流暢になったよこの人。
「はぁ……。分かりました。私がタオルと着替えを取ってくるので、置いてある場所教えてください」
黒咲さんから聞きだしたタンスには、衣服が綺麗に収納されていた。
黒咲さんの黒のショーツを手に取ったとき、少し前に似たような状況があったことを思い出した。黒咲さんと付き合うことになった、記念すべきあの日のことだ。
あの時は立場が逆で、黒咲さんが私の服を取りに行ってくれたのだ。
「黒咲さん、着替えはこれで良かったですか?」
「ありがとう、優希さん。これで大丈夫よ……あ、下着も、……うん、問題ないわ」
「……黒咲さん」
どうして私が持ってきた下着を見つめて嬉しそうにしているんですか、とは言わなかった。
「あ、い、いや、何でも無いのよ、別に」
「まだ何も言ってませんが。まあ、いいです。それより、さっさと体を拭いて寝ましょう」
「え、ええ。それじゃあ、その…………よろしく、お願いします」
「承りました」
ベッドの上で後ろを向いた黒咲さんは、緩慢な動きで(本当に体を動かすのが辛いのだろう)上の服を脱いでブラも外し、その素肌を露わにした。
その後ろに、私も座る。
「痛かったりしたら、遠慮無く言ってくださいね」
「ぇぇ……」
蚊の鳴くような声で、黒咲さんは答えた。おそらく今頃この背の向こうでは、顔を真っ赤にしているに違いない。
黒咲さんが再び変な気を起こして押し倒されたりするのは嫌なので、素早く、そして丁寧に、私は黒咲さんの体を拭いていった。
「はい、終わりました。前は自分でやってくださいね」
「え?」
え?
え?って何ですか。まさか前まで私にやれと?やりませんよ?
そういうのを意識してほしいって言ったのは黒咲さんの方じゃないですか。
体を動かすのが辛いと言うから背中とか腕は私がやりましたけど、前はアウトです。それで黒咲さんが変な気を起こしたらどうするんですか。昼間のキス未遂を忘れたとは言わせませんよ。
物欲しそうにこちらを振り返る黒咲さんに対し、私は以上のような意味を込めてにっこりと微笑みを返しておいた。
はい、こちらが体を拭くタオルです。どうぞ。
黒咲さんの体を拭き終わった後、変な空気になったというか、ちょっと危機感を覚えたりもしたが、しかしベッドに押し倒されるなどと言うこともなく、私は事なきを得たのだった。
私も黒咲さんにパジャマを貸して貰い(色違いのおそろいだった。私が薄い黄色に白のラインが入ったもので、黒咲さんのは白に薄いピンクのライン)、意図せず黒咲さんとパジャマパーティーをすることになって、しばらく歓談していたのだが、またも黒咲さんが頭痛に襲われたため大人しく就寝することとなった。
「電気、消しますね」
「うん」
黒咲さんが普段どうしているのかは知らないが、私は豆電球をつけて寝る派なので、オレンジの明かりを残して私も布団に入る。
「今日は本当にありがとう、優希さん。おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
「……約束、忘れないでね」
「風邪が治ったら、ですよ」




