19話
○湊優希
翌日。
私はもう一度、優香ちゃんに電話をかけた。
向こうの答えは拒絶。
多分無理だろうなと予想していたし、実際その通りだったわけだ。
『話すことなんてない。帰ってこないで』
まさか、昨日と真逆のことを言われるとは露程も思っていなかったけど。
それから金曜日に至るまで優香ちゃんとは連絡が取れなかった。
ということで、実家に帰ることが決定したのだった。
「ただいまー」
「ゆーちゃん……!?」
実家のリビングには、一人優香ちゃんだけがいた。
玄関の靴を見て分かっていたけど、両親は外出中らしい。
「なんで……」
「分かってるでしょ?」
「……っ、知らないっ!」
たったったっ。
「あ、ちょっと」
バタンッ。
待って、と言った時には既に、優香ちゃんは自室に閉じこもってしまっていた。
すごい避けられようである。
そこまで嫌われるようなことをしただろうか。
帰宅早々にして、心が折れそうだった。
おかえり、くらい言ってくれてもいいじゃない。
そのご挨拶な対応に、正直このまま放置しておいても、そのうち、いつの間にか元通りになっていると思うし、それでもいいんじゃないかという思いが湧き上がってくる。
本来ならわざわざ実家に帰ってくるほどのことでもないのだ。
それでも今回こうして帰ってきた理由としては、一週間以上に及ぶ喧嘩というのが滅多にないのと、例の電話ではっきりと言葉にして寂しいと口にしていた優香ちゃんが気がかりだった言うのがある。
気がかりであり、心配だった。
とんとんとん。
優香ちゃんの部屋の前まで行き、三回ノックの音を鳴らす。
「開けてくれない?」
「開けない」
「じゃあ、このままでもいいから、聞いてて」
「……」
「ゴールデンウィークは、帰らなくてごめんね。そのかわり、私明日まではいるから」
「……」
「後で、久しぶりに、一緒にお風呂に入らない……?」
「……うん」
あ、やっと反応してくれた。
そこまで怒ってはいないのかな……?
その声色には刺々しさがなく、どちらかと言えば弱々しくか細い感じだった。
「約束よ。また後で、話があるから。私は部屋に行ってるわね」
どうやらお風呂には一緒に入ってくれるらしいので、ここでの会話はここまでにしておいた。
なんだか元気がなさそうなので。
「じゃあ、あとでね」
ちゃぽん。
と湯船につかる。
すると、先に入っていた優香ちゃんは私の両足の間に滑り込むように入ってきて、私の体に背を向け、頭を胸の上辺りに置くようにしてもたれかかってくる。
私もまた、腕を前に回し、優香ちゃんの体を固定するように抱きしめる。
習慣となっている慣れ親しんだ姿勢は、久しぶりであっても自然にとることが出来た。
「こうするの、久しぶりだね」
「うん」
お風呂に入る時には、優香ちゃんの表情に多少の明るさが戻っていたけれど、相変わらず言葉数は少ないままだった。
ここまで元気がないと、一層心配になってくる。
「学校で、なにかあったの?」
「……あった。けど、あのことは別にいいの。ゆーちゃんには言わない」
「そう」
「……何があったか、聞かないの?」
「聞きたいけど、でも、言いたくないんでしょ?」
「……うん」
「じゃあ、無理には聞かない」
「…………」
「優香ちゃん?」
「何でもない」
「そう。それより、他に聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「彼氏、出来たの?」
「え、なな、なんで知ってるの!!」
「いや、なんでって、優香ちゃんが言ってたじゃん」
「私?いつ?」
「ほら、ゴールデンウィーク最終日の、あの電話の時に、友達とも彼氏とも遊ばなかったとか何とかって」
「あ……」
「ね、いつから付き合ってるの?」
「…………春休みの前くらいから」
「もしかして、春休みにショッピングモールとか遊びに行ってたのって、その彼氏と?」
「ま、まあ。うん」
「そっかー。もうデートしたのかー。デート以外は、どうなの?何かあった?」
「な、なんでそんなに聞いてくるの?」
「だって、気になるから。ねえ、どうなの?」
「うぅ………この話もう禁止!」
バシャっと水面を叩いて、優香ちゃんが抵抗をする。
「ええー、なんでよ」
「禁止ったら禁止。もうダメ!」
バシャバシャ。
仕方ない。
優香ちゃんの恋愛事情が気になって仕方ないけれど、後でまた聞くとしよう。
でもその前に。
「優香ちゃんがそう言うなら、こっちにも考えがあるからね」
「……え?」
私は優香ちゃんの横腹をそっと撫でた。
すー。さわさわ。
「うひゃっ!ひ、やめて!ちょ、ゆーちゃん、ふ、ふひゃ、ひやっ!!」
「やめない」
「は、話さないからね!絶対、絶対に!ひ、くふっ、ふふ、ひゃははっ、や、やめて、もう無理!」
ざばっ、と水音を立てて優香ちゃんは立ち上がった。
「はぁ、はぁ……ゆーちゃん、やりすぎ!」
「ごちそうさまでした」
「何がっ!?」
「妹成分的なアレ」
「そ、そんな。そういえば、なんか私の中の妹力が減ってる気がする!」
「あはは。妹力が減るって、なにそれ」
「む、妹成分の方がおかしいし」
「確かに」
「…………………ふふ」
「……?」
「くふっ、ふふふ、あははっ、あははははははっ!」
「……優香ちゃん、ついに壊れちゃった?」
「壊れてない!……ふふっ」
「じゃあ、元気になった?」
「……!……うん!」
「それは何よりね」
一段と明るく笑う妹を見て、少し安心する。
こうしてふざけて遊んでいれば、嫌な気分も少しは紛らわすことが出来るのだ。
それを昔私に教えてくれたのは、他ならぬ優香ちゃんなのだけど、その本人はそんなこと微塵も知らないのだろう。
優香ちゃんが再び私の前に座る。
しかし今度はこちらを向いたまま、私の肩の下辺りに頭を預けてきた。
「今日の優香ちゃんは甘えん坊ね」
そう言いながら、優しく妹の髪を撫でる。
すると、優香ちゃんは気持ちよさそうに目を細める。
いつもここまで素直なら、可愛げがあっていいのだけれど。
「ゆーちゃんが甘やかしてくるからだよ」
「優香ちゃんが寂しがってたからね」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「あれ?それって結局仲直り出来ちゃってない?それじゃあ、今ゆっきーが優香ちゃんに無視されている説明がつかないじゃない」
と私の話を遮ったのは、数少ない私の話し相手の一人、橙木夏美ことなっちゃんだった。
三日間妹に無視され続けるという常軌を逸した被害を受け続けた私は、あまりの居心地の悪さにいよいよ家を飛び出し、最寄りの友人宅へ逃げ込んでいたのだった。
逃げ込み歓迎された上、こうして相談に乗ってもらっているのだった。
ここ三日間無縁だった優しさをこれでもかと施された時は、思わず目の前の友人に惚れそうになった。
危うく恋人より先に友人に惚れるところだった。
そんな優しさに溢れた親友ことなっちゃんの疑問に、私はお答えする。
「仲直りはできても、根本的な原因解決はできてなかったってこと。心配しなくても、この後すぐまた拗れるから」
「心配しなくてもって、そんな心配はしてないし、私がしている心配は拗れた後のことなんだけど」
「だからこうして相談に乗ってくれてることには感謝してる。じゃあ、続きを話すね」
優香ちゃんとの関係が再び険悪になり始めたのは、それから僅か一週間後のことだった。
「ねえ、今日も元気なさそうだけど……何があったの?悩みがあるならいくらでも聞くよ?」
前回の失敗を省みて、少なくとも週二回以上の頻度で連絡を取ることに決めた私は、すぐに優香ちゃんの様子の変化に気付くことが出来た。
実家に帰ったあの日から数日ほどは機嫌が良かったものの、優香ちゃんの抱えている問題が解決したと言うことはなく、再び不機嫌になるのにそう時間はかからなかった。
こんなことなら一緒にお風呂に入ったときに、その問題について、無理にでも聞いておいたほうが良かっただろうかとも思ったけれど、あの時の優香ちゃんの反応を思い出して、あの時はあれで良かったのだと思い直す。
しかし今この時は、あの時とはまた事情が違う。
こんなにも思い悩んでいるとは思っていなかった。
だから、微に入り細を穿って説明しろとまでは言わなくとも、簡単にまとめた話をするだけでも良いので、優香ちゃんに話してほしかった。
話すことで、それで私に何が出来るというわけでもないけれど、少しは肩の荷が下りるかもしれない。
『大丈夫だから。心配しないで』
しかし、優香ちゃんから返ってくるのは「問題ない」などの一辺倒な返事ばかりで、そんな返事を聞く度に、私はもどかしさを感じずにはいられなかった。
もどかしくて、やるせない。
姉として、不甲斐なかった。
可愛い妹が困っていたら、手を差し伸べたくなるのが姉の性というものであり、そんな妹を前にして何も出来ないというのは、私の存在意義が失われるようなもの────いや、それは流石に言い過ぎか。
確かに私は優香ちゃんのことが好きだけれど、それを公言しているわけではないし、まして本人に直接言ったことなどあるわけが無い。
誰ができるか、そんな恥ずかしいこと。
それはさておき。
優香ちゃんの問題において、私の存在意義が失われるか否かはさしたる問題ではないので、さておき。
実際に私が出来るのは、優香ちゃんの話を聞くことくらいだった。
そしてそれは既に私がやっている事であり、それ以上の話はしないと言われている以上、私にできることはもうなかった。
出来ることがないのなら、身を引くしかない。
身を引くしかないなら、身を引くべきだった。
この時の私はそうするべきだったのではないかと、三ヶ月後の未来の私は思うのだ。
それ以上踏み込むのは逆効果だったのでは、と。
「大丈夫というのなら、それでいいけど。でも心配なものは心配よ。それに、話すだけでも気が楽になるっていうじゃない」
『……』
「優香ちゃん?」
『なんかさ、ゆーちゃん変わったよね』
唐突に、優香ちゃんはそう言った。
何故このタイミングでそんな話を始めたのか、この時は皆目見当がつかなかったけど、少なくとも、露骨な話題転換というわけではなさそうだった。
転換ではなく、展開。
あまりに唐突で、それでいて一見、今までの会話の流れにそぐわない内容だったため、理解するのが遅れてしまったが、どうやら私の妹は、私が言ったとおりに話してくれているようだった。
問題を。
抱えている悩みを、打ち明けてくれているようだった。
「変わった?」
『この前こっちに帰ってきたのも、今電話してるのも……』
「そう……?」
『うん、変わった。前はもっと静かなお姉ちゃんって感じだったけど、今は大人なお姉ちゃんって感じ。前のゆーちゃんだったら、私と喧嘩したからって帰ってこなかったし、こんなにも頻繁に電話で私と話すようなこともしなかった。…………私が我が儘を言ったってことは分かっているけど、だからゆーちゃんが私に優しくしてくれているっていうのも分かっているけど…………でも、やっぱり、全然違う。変わったよ、ゆーちゃん』
お世辞にも理路整然とした話し方とは言えない、思っていることをそのまま言葉にしたような的を射ない話を聞いて、私が理解できたことは一つだけだった。
曰く、私は変わった。
らしい。
私自身は、昔も今も、何も変わっていないと思っていたけど、約十四年間、最も私の近くで私を見続けてきた妹が言うのだから、私は変わったのだろう。
それはつまり。
髪を切って慣れない色の服を着て、それでも結局変わったのは容姿だけで、典型的な失敗談よろしく、私の大学生デビューも同様の結果に帰着したと思っていたのだけれど、失敗ばかりではなかったということだろうか。
あるいは、そういう外見の話ではなく、内面の話なのかもしれない。
優香ちゃんは今の私のことを大人なお姉ちゃんと評したが、それは見た目の話ではなく、精神面のことを言っているのかもしれない。
それこそ、未だ碌に他人と話すことが出来ない私が精神的に成長したかどうかなんて、一目瞭然な気もするけれど、高校を卒業しようと大学生になろうと、年齢と体ばかりが大人に近づいていって、精神的に自分が大人になったと言えるほど成熟したとは思えないのだけれど…………妹の視点からは、全く別の私が見えているとでも言うのだろうか。
一体、私のどこが変わったというのか。
『ゆーちゃんは私の話を聞きたいみたいだけど、私もゆーちゃんの話を聞きたい。ねえ、何かあったの?何があったの?』
「……」
その答えを、私は持ち合わせていなかった。
だって、私自身は自分の変化になんて全く気づいていなかったし、最近なにか特筆すべき事があったわけでもないのだから(黒咲さんと出会うのは、もう少しだけ先の話)。
それとは別に、もう一つ。
これは勘違いかもしれないと思ったけど、どこか優香ちゃんの声に棘があるように気がして、つまりは、その声色に怒気が孕んでいるような気がして、思わず口をつぐんでしまったというのが、私が返事をしなかった(できなかった)理由だった。
『言いたくないってこと?言っておくけど、私はゆーちゃんみたいに大人じゃないから、言いたくないならそれでいいなんて言わないからね。何か言うまで聞き続けるから……ねえ、聞いてる?』
そんなメンヘラの恋人みたいな事を実の姉に言ってのけた妹を前にして、またしても私は、すぐに口を開くことが出来なかった。
妹のメンヘラ気質の片鱗を垣間見てしまって、閉口したわけではない。
そうではなく、どうやら本当に優香ちゃんは怒っているらしいと言うのが、その言葉を通して私に伝わってきたから。
勘違いではなかったみたい。
「聞いてるよ。でも、何があったということもないのよ。何もなかった。しいて言うなら、高校を卒業して大学に入学したとか、あとは知っての通り、春休みにちょっとイメチェンしたくらいだけど」
『……私はまだ、ゆーちゃんが勝手に髪を切っちゃったの、許してないからね』
しまった。
別の火種を呼んでしまった。
そう、優香ちゃんは私が勝手に髪をバッサリ切ったことを、その当時これでもかと怒ったのだ。
怒り狂っていたと言ってもいい。
勝手も何も、私の髪なのだから私の勝手だと思うのだけど、優香ちゃんの怒りも分からなくはなかった。
妹の私にくらい事前に話してくれても良いじゃない、みたいな。
その時は訳も分からず怒られて私も腹が立ったけど、後から思い返してみると、私が優香ちゃんに大切に思われていることの裏返しのように思えて、結構嬉しい出来事だった。
「私の髪の話はおいといて………それで、私が変わったって言う話は、結局何を言いたかったの?」
『だからっ…………』
「優香ちゃん?」
『…………疲れたから、もう寝る。あと、しばらく話しかけてこないで』
通話終了。
この時の私は、まさかその「しばらく」が三ヶ月もの長期間に及ぶとは思ってもいなかった。
「と言うわけなんだけど、どう?何か分かった?」
「ごめん、全然分かんないわ」