17話
〇湊優希
黒咲さんの微かな息遣いが聞こえる。
私は今、黒咲さんとハグをしていた。
ハグなんて(後ろから抱きしめるのをノーカウントとするなら)妹ともほとんどしたことがない行為だ。にもかかわらず私は、ごくごく自然にその行動をとることが出来てしまった。
部屋の電気を消したのだって、自分でも何でそうしたのかよく分かっていない。
黒咲さんにはそれっぽい説明を適当にしたけれど、実際はよく分からないまま、しかしそれが当たり前であるかのように、私は行動していた。
電気を消し、薄暗くなった部屋の中。
黒咲さんが立ち上がるや否や、すぐさま彼女に接近し、密接し、抱き寄せ、抱きしめた。
とても自然に、さも当然のように。
スキンシップをしようと言われて最初こそ戸惑ったけれど、実際にやってみると案外すんなり出来てしまった。
赤の他人と会話することに比べれば、なんてことは無かった。
それにしても。
ハグ、結構いいかもしれない。
とても気持ちいい。
心が落ち着く感じの、リラックス的な気持ち良さだ。
なんだか懐かしさまで覚える。
黒咲さんから伝わってくる体温が心地良かった。
このまま目を瞑ってしまえば、余裕で寝落ちできそうなくらい。
黒咲さんが言っていた、スキンシップで仲が深まるというのは、本当のことなのかもしれない。
ただでさえ、黒咲さんと一緒にいるとそれだけで落ち着くのに、こんな癒やしを与えられてしまったら、私はどんどんダメになってしまいそうだった。
実際に、目を瞑ってみる。
……温かい。
私の体温と黒咲さんの体温が混ざり合って、どっちの熱だか分からなくなる。
アイスのように、ドロドロに溶けていくような錯覚を覚える。
私の体が溶けて。
黒咲さんの体も溶けて。
二人の体が混ざり合って、いつしか一つになっていく。
そんな錯覚。
例えるなら。
私はピノ、アーモンド味。
黒咲さんはハーゲンダッツ、バニラ味。
今日一日で揺らぎつつある黒咲さんの大人っぽいイメージだが、それでもまだ大人っぽさを感じることがあるので、黒咲さんは高級アイスだった。
最初は抹茶味をイメージしたけど(好きなので)、金髪の黒咲さんには似合わないと思ってバニラ味になった。
私がピノなのは、アイスの中でも溶けやすそうなイメージがあったから(そして好きだから)。
アーモンド味の理由は色。それだけ。
一個のピノとスプーン一杯分のハーゲンダッツを、透明なカップに入れる。
中に入った二つのアイスは溶け合っていき、やがて液体となって混ざり合う。
アーモンドを選んだ甲斐あって、白っぽいバニラと混ざり合っても変な色合いにはならなかった。
何となく混ざり合った液状アイスの味を思い浮かべてみようと思ったけど、そこまではさすがに私の想像力では限界だったらしい。
アーモンドのピノとバニラのハーゲンダッツ。
今度、一緒に食べてみようかな。
意外と合うかもしれない。
そんな感じで、しばらくハグを堪能した私は、少し暑くなってきたなと感じ始めた頃合に、抱き合ったまま話し始めた。
「少し、暑くなってきましたね」
「……ええ、そうね」
「もう少しだけ、このままでいいですか」
「もちろんよ」
「……………………なんだか、以前にもこんなことがあった気がするんです」
「誰かと、ハグをしたってこと?」
「ハグだった気もしますし、別のことだった気もします。既視感があるんです。そんな記憶は全くないんですけど……ね」
「忘れてるだけ、かもしれないわね」
「……こんな、非日常的な経験を忘れるとしたら……私が小さかった頃に、こんなことがあったのかもしれないですね」
「優希さんの、小さい頃……。それ、すごく興味があるわ」
「たぶん、髪の長さ以外は、今とそんなに変わらないと思いますよ」
「髪型……三年前は、とても長かったわよね。よく覚えてるわ。すごく綺麗だったから」
しれっと、そういうこと言ってくるなー、この人。
こうして直接人に褒められるというのは、どうにも慣れない。
………………はぁ。
「長いままの方が、良かったですか……?」
「いいえ、今のこの短い髪型も、とっても似合っているわ」
「……ありがとう、ございます。前から気になっていたんですけど、黒咲さんのその髪は、染めてるんですか?」
「そうよ。……その、優希さんから見て、どうかしら」
「……」
ところで、私は人に褒められるのに慣れていないけど、同様に人を褒めるのも慣れてはいない。
この時、私の中でいくつかの意見が出てきたため、唐突に脳内会議が開かれることになった。
ちなみに私はこういう時、全然似合ってないです、とか言ったらどうなるんだろうなどと、ついついそんなことを考えてしまうのだけれど、しかしそんな下らないことで嘘をつくというのは私の良心が痛むので、ここは正直な感想を────
────似合っていますよ。私の周囲に金髪キャラは黒咲さんだけなので、ぜひそのままでいてください。金髪は天然記念物です。オンリーワンなんです。このところ金髪=黒咲さんという恒等式が、私の中で成立しつつあるんです。最早黒咲さんのアイデンティティです。そのアイデンティティを大事にして欲しいと、私は切に願います。
いや、あまり正直すぎるというのも、ダメか。
ちょうどいい塩梅というのを意識して────
────正直言って、黒咲さんは和風美人系だと思うので、黒髪の方がいいと思います。
和風美人という褒め言葉と、遠回しな金髪やめとけ発言。
プラスとマイナス、差し引きゼロ。
ちょうどいい塩梅と言えば確かにその通りだけど、金髪が似合っていないかといえば、それは嘘になる。
嘘をつくと良心が痛むので嘘はつかない、という意見が既に出ているので、この感想は却下だった。
ここは無難に────
────とてもいいと思いますよ。黒咲さんにお似合いの髪型です。
うん。
これだ。
一番私らしい、無難で平凡で素朴な感想だ。
よし。
「美人な黒咲さんの顔に負けず劣らずのすごく綺麗な髪だと思います。金髪というのを私は現実でほとんど見た事がなかったんですけど、金髪と言えば黒咲さんと言えるくらい、黒咲さんに似合っています」
しまった!
色々混ざってしまった!
「……」
ぎゅーーーっ。
「……!?」
あ、痛っ。痛い!
めっちゃ抱きしめられてる!
死ぬ。
圧死する。
いだだだだ。
あ、今、背中からポキッって音鳴った。
骨なの?
骨の悲鳴なの?
と私の体が悲鳴を上げ始めたところで、圧殺攻撃が緩和された。
そして同時に、黒咲さんはボソッと呟いた。
それは普段だったら私の耳に入ることすら無いだろう、微かで掠れた声だったけれど、忘れることなかれ、私たちは現在絶賛ハグ真っ最中である。
耳元で呟かれたその言葉を、私が聞き逃す道理はなかった。
「好き」
たった一言、たった二文字。
そして、私と黒咲さんを繋ぐ全ての言葉。
「知ってます」
それこそ、出会った時から。
お風呂にて。
ザアアァァと水が流れる音を聞きながら、髪を濡らさないように気をつつ、私は体を洗い流していた。
どうせなら髪も一緒に洗ってしまいたいところだけれど、まだ黒咲さんが家にいるためそういうわけにもいかない。
ん?
え?
どうしていきなりシャワーシーンになってるのかって?
書き忘れていないかって?
いえ書き忘れではありませんし、勿論あなたが読み飛ばしたわけでもありません。
だからこうして、話を区切らずに一話に収めているじゃないですか。
大丈夫です。
私がシャワーを浴びているのは必要性があってのことです。
薄壁一枚どころか、半透明の扉一枚隔てた向こうに恋人がいると知った上で、一糸纏わず身を清めているのは正当な理由があってのことです。
そうじゃなければ、こんな自分の身を危険にさらすような真似はしません。
私にも人並みの貞操観念はあります。
それに、黒咲さんを信頼しているというのもあります。
たとえ黒咲さんと話せば話すほど、あれこの人思ったより子供っぽいところあるなとか思ったりしていたとしても、黒咲さんの大人らしさとかお姉さんらしさとか、そういうのが薄れていってるからと言って、黒咲さんの誠実さが失われるわけではないのですから。
むしろ黒咲さんの子供っぽさを認識したことで、そういう面での信頼度は上昇しているといっても良いでしょう。
しかし、こうして落ち着いた様子でシャワーを浴びることができているということは、まだ私が黒咲さんのことをそういう風に意識できていないということの裏付けなのかもしれません。
それはそれで、なんだか申し訳ないというか、そもそも申し訳ないと思うことすら恋人である黒咲さんに失礼なのではと考えてしまいますが……。
この話はすぐにはどうする事も出来ませんし、今はおいておくとしましょう。
さて、どうして私がシャワーを浴びているのかという話でしたが、別に大した話ではありません。
見ていれば分かるので、話を進めるとしましょう。
高校卒業を機にバッサリ切ってしまった私の髪は、春休み頃に比べて少し伸びてきてはいるけれど、それでもまだ十分短い方なので洗うにしてもそこまで時間はかからない。
しかし黒咲さんを必要以上に待たせるのは申し訳ないので、髪はまた後でだ。
まあ、そもそも私がこうしてシャワーを浴びることとなった主な原因がその黒咲さんなのだけれど、あれは事故としか言えないのでそのことで黒咲さんを責めたり咎めたりするつもりはなかった。
時間は少しだけ遡る。
さすがに暑くなりすぎて、これ以上は不快に感じられるレベルに到達していたので、ほどなくして私と黒咲さんの熱い抱擁は終わりを迎えた。
まだ胸やお腹あたりが熱っぽい。
ちょっと長く抱きつき過ぎたみたいだった。
もう少し隙間を開けておけば、ここまで熱がこもることもなかったかもしれないが、私と黒咲さんの密着度と言えばもうお互いの胸がぺったんこになるくらい思いっきりくっ付いていたので、こうなることは理の当然だと、今になって思う。
互いを離した私たちが、目を合わせることはなかった。
素面。
同じタイミングで机の上のコップを手に取った。
飲むと、既にぬるくなっていた。
黒咲さんも同じように思ったらしく、私が他の飲み物を持ってくると言うと、ありがとうと感謝される。
氷?
氷じゃすぐに冷たくならないから却下。
食べるのは論外。
私たちは今すぐにでも冷たい飲み物を飲みたいのだから。
喉の渇きを潤すために。
そして、この体の熱を冷ますために。
ということで冷蔵庫を開けてから、お茶がさっき出した分で最後だったのを思い出した。
仕方ないので黒咲さんに他のでも良いかと聞いたところ、何でも良いよと返ってきたので、コーラを二杯のコップに注ぎ、そしてリビングにたどり着いたところで、事故は起こったのだ。
なんてことはない。
コーラの入ったコップを渡した際、私と黒咲さんの指が触れあったのだ。
それだけだ。
後は言わずとも分かるだろうけど、一応詳細を語っておく。
その結果、黒咲さんが見せてくれた反応はといえば、さっきまで密接にハグしあってたとは思えないほどにウブで可愛らしいものだった。
ひゃっ!
とか言ってたし。
で、どうなったかと言えば、ほぼ受け渡しが完了していたコーラ入りコップは、慌てた黒咲さんが勢いよく上げた手によって宙を舞い、コップの口が私の方を向いていたため、そこから放たれた中身が全て私のみに降り注いだのだった。
降り注いだのが肩より下だったのは、不幸中の幸いだったと言える。髪の毛までコーラまみれというのは、なかなかに不快そうなので。
それだけでわざわざシャワーを浴びるのかと、疑問に思うかもしれないけど、私が浴びたコーラの量は尋常じゃなかった。
喉が渇いていたと言うことで大きめのコップを選んでいたのが災いし、なおかつその中身が余すことなく私に降り注いだものだから、拭き取ってどうにかなるレベルを超えていたのだ。
かくして、私がシャワーを浴びると言う状況に至ったのだった。
そして時間は再び現在へ。
一通り洗い流し終わったのでシャワーを止める。
上手く髪を濡らさずに洗えることが出来た。
後は体を拭くだけ、と言うところで、私はさらなる問題に直面してしまった。
タオル、ない。
下着も、ない。
服すら、ない。
………。
言っておくが、私は別にドジっ子というわけではない。
今回の失態は非常に特殊なケースだ。
コーラまみれになった私は、私が動き回ることによって部屋中にコーラが飛び散るという事態を防ぐために、すぐに風呂場までやってきていたのだ。
タオルや着替えを取りに行く時間など無かったのだ。
………。
よし。
やってしまったものはしょうが無い。
幸か不幸か、今この家にはもう一人、黒咲さんがいる。
よって、びしょ濡れの私がタオルを取りに行って、部屋中を水浸しにするようなことにはならずに済みそうだった。
問題は、その黒咲さんだけど……。
私は、正直、黒咲さんに下着ごと着替えとタオルを持ってきて貰っても、嫌とは思わないし恥ずかしくもないのだが、この場合少しも恥ずかしくないというのは、何度も思っている事だけどやはり恋人失格な気がする。
さすがに裸を見られるのは少し恥ずかしいが、これは別に見せる必要は無いので大丈夫だ。
この半透明の扉越しに、手だけ出してタオルを受け取ればそれでミッションコンプリート。
しかし、そうなると、黒咲さんに私の衣服が入った棚を物色して貰うことになるわけで、黒咲さんが私の下着を手に持ってここまでやって来る間にどう思うかは…………、正直、分からない。
こういう時、黒咲さんを同じ女として見るべきなのか、それとも、恋人として見るべきなのだろうか。
黒咲さんがどんな下着を着けているかは知らないが、同じような女性用下着のはずだし、自分と同じような下着を見てドキドキしたりするのだろうか。
んー。やっぱり分からない。
黒咲さんがそれでドキドキするかは分からないが、しかし頼めば快く引き受けてくれると思う。
ならば、私が今からすべき事は一つしかなかった。
「黒咲さーん、ちょっと良いですかー」
「……!なにかしら」
「タオルとか着替えとか、諸々忘れてしまったので取ってきてもらえませんか?」
「そういうことね。ええ、分かったわ」
「タオルは見えるところにあると思うので、それでいいです。下着がタンスの一番上で、その下に服が入ってるので、お願いします」
「よ、よく分かったわ。今取ってくるわね」
黒咲さんの足音が離れていく。
しばらく待つと、再び足音が聞こえてきた。
「優希さん、持ってきたわ」
「ありがとございます。タオル以外は、洗濯機の上に置いといてください。タオルは今もらいますので」
扉を少し開き、そこから手だけを出す。
するとすぐに、タオルが手渡された。
「もうすぐ出るので、もう少しだけ待ってもらえますか」
「いえ、急がなくても大丈夫よ。そもそも、私が悪いのだから」
「いえいえ、私も気にしてないので、大丈夫ですよ」
いえいえいえ。
いえいえいえいえ。
家言え癒えYEAH。
こういうのって、いつ止めればいいのか分からなくなりますよね。
と私が言ったことによって、いえいえ合戦は終息した。
なるほど、こうやって止めるといいのか。
そんなことを言ってる間にだいたい体を拭き終えていたので、黒咲さんが脱衣所を離れたのを確認してから、風呂を出る。
はぁ、涼しい。
気分さっぱり、と言えるかは微妙なところ。髪だけ洗っていないので少し変な感じだった。
黒咲さんが持ってきてくれた服は、部屋着用として使っているTシャツと、下は現在は使っていないが本物のパジャマだった。膝上までしかない短いやつ。
何故これにしたのかと聞いてみたいところだけど、普通にショートパンツに見えなくもないので、多分パジャマだと思わなかっただけだと思う。
さて、問題の下着だけれど、よく思えば私の下着はどれも似たような色や見た目なので、選ぶのに苦労しなかったのだろう。
よく使ってるやつが置いてあった。
それらを身につけ、リビングに戻ると、そこには黒咲さんが落ち着かない様子で待っていた。
そわそわ。
そわそわ。
そんな擬音が聞こえた気がした。
私が黒咲さんを見るのと同時に、黒咲さんもまた私の方へ目線を移していた。
自然と、目が合────わなかった。
ん?
「お待たせしました」
「ええ、あいや、別に、全然全然、全くま待てないわ。大丈夫、私は大丈夫よ」
「全然大丈夫じゃないですね」
「すぅー、はぁー…………大丈夫よ」
「……はい」
それにしても……目が合わない。
黒咲さんの視線は若干下向きだった。
下……なるほど。
そういえば、私の現在の格好は、かなりラフな感じだった。
黒咲さん的には、この格好が結構新鮮なのだろう。
鈍感系主人公みたく、いつまでも自分が他人にどう見られているかに無頓着な私ではない。
そういうことも、(黒咲さん限定で)何となく分かるようになってきた。
ともすれば、この格好の私を見たいがためにこの服を選んだとも考えられるのでは……?
黒咲さん、意外と策士…………いや、ないな。
決して黒咲さんとの付き合いが深いとは言えない私でも、それは断言できた。
しかしここまでじっくり見られると、どう思われているのか知りたくなるのが人情というものである。
「これ、変ですかね……?」
「いや、そうじゃなくて……その、新鮮でいいと思うわ」
「そうですね。その意見には同意します。私としても、この組み合わせは新鮮です」
私は基本、下がパジャマだったら上もパジャマだ。
故にパジャマとTシャツは初めてだった。
「それにしても、思ったより時間が経ってしまいましたね」
時計の針は四時半を少し過ぎたくらいを指していた。
いつもなら黒咲さんとは既に別れている時間帯だ。
いつの間にか、こんな時間になっていた。
「そう、ね。そろそろ、お暇する時間かしらね」
そう言って、帰り支度を始める黒咲さん。
……着替えたばかりだけど、もう一度着替えようかな。
あまり今の格好で出歩きたくはない。
下パジャマだし。
「黒咲さん、せっかくの新鮮な服装ですが、あまりこの格好で外に出たくは無いので、ちょっと着替えてきますね」
「え、あ、優希さん。その必要は無いわ」
「……?」
「今日は、ここの玄関までで大丈夫よ。何回も着替えてもらうって言うのは、申し訳ないし、ね」
「そういうことでしたら」
お言葉に甘えて。
ということで、今日のお見送りは玄関まで。
徒歩数秒である。
「それじゃあ、また連絡するわね」
「はい、私も」
そんな感じで、長い長い一日の終わりを迎えたのだった。