16話
〇黒咲遥
「優希さん、私のこと自由にしていいから、なにかスキンシップしてくれないかしら!」
自制心を失った私が衝動的に放った言葉は、優希さんを数秒間停止させるのに十分すぎる威力をもっていたらしい。
相変わらず変化が小さい優希さんの表情から、今彼女が思っていることを読み取るといのは至難の業と言えるが、それでも何となく、意味不明、理解不能、何故そうなった、詳細な説明をお願いします、的なニュアンスがそこはかとなく伝わってきた。
そんな困惑が伝わってくる中、それでもその停止した数秒の間に、優希さんは私の願望を理解してくれたらしい。
「……要するに、スキンシップをして仲を深めるってことで、いいですか」
「そういうことよ」
沈黙が続いた数秒の間に取り戻した僅かな自制心が、私のテンションをマックスから割と高めくらいまで抑えてくれていたため、感嘆符(!)を乱発するような事態に陥ることはなかった。
「……まあ、言い方が少々気になりますが、内容的には別に問題ないので、いいんじゃないでしょうか」
ということで、私と優希さんはスキンシップをすることになったのだった。
恋人同士がするスキンシップとしては、風情も情緒もあったものでなかったが、それを補って余りあるスキンシップが今にも始まろうとしていることなど、この時の私は知る由もなかった。
「それじゃあとりあえず電気消しますね」
と言った優希さんは私が何か言うよりも早く、室内の証明をポチッと押していた。
次の瞬間には、室内は薄暗くなり、明かりは窓から差し込む自然光だけとなっていた。
そんなこの室内を照らす唯一の光も、梅雨の雨模様で随分心もとない。
風情も情緒もなかった室内に、一瞬でそれっぽい雰囲気が生み出されていた。
しかし風情とか情緒とか雰囲気とか、そんなものに一切関心がなかった恋愛ビキナーの私は、水を差すように疑問を呈していた。
「あの、優希さん。どうして電気を……?」
「それは、なんというか、恥ずかしいじゃないですか。顔とか見られたら。それに、こういうのって、明るいよりは暗い方がいいとか聞いたことありますし」
という優希さんの説明を聞いて、なるほどと私は納得した。
気配りという点では、優希さんの方に一日の長があるようだ。
一日どころか百日分くらい差が開いていそうな気もするけれど。
「さて、それじゃあ黒咲さんも立ってください」
何故、とは聞かず、言われるがままに私は立った。
手を床につき、腰を上げ、そして、立ち上がったその時には既に、優希さんが目の前にいた。
目を一瞬離した隙に、近づいていたらしい。部屋が薄暗いのもあって、気がつけなかったのだろう。
などというのは、冷静であれば分かる事だけど、しかしこんな状況で目の前にいきなり好きな人の顔があるというのは、私の心を動揺させるには十分すぎるものだった。
ドギマギである。
ドキドキである。
そして、目の前に顔がある、ということで。
必然的に、目が合った。
至近距離。
今までで一番、近い。
あまりに近すぎて思わず後ろに一歩引いてしまった。
しかしここまで近いと、いつもと同じはずの優希さんの顔が少し違って見える。
違って、と言うか、顔の一部に目が行く。
唇とか、睫毛とか。
見えるだけじゃない。
微かな息遣いも聞こえるし、シャンプーの良い香りもする。
しかし勿論、近づいて、それで終わりではない。
というか、まだ始まってすらいない。
「黒咲さん」
と。
その声もやはり、当然だけど、至近距離で聞こえた。
距離が近い。
ただそれだけの事なのに、ただそれだけの事で、こうも違うなんて。
私の心臓、最後まで持つだろうか。
なんて考えている間に、優希さんは私が一歩引いた分だけ足を前に出し、更に近づいてそのまま────
「失礼します」
────と言いながら、私の脇下に手を伸ばし、体をさらに接近させ、背後に回された優希さんの腕によって、私の体もまた優希さんに引き寄せられ、そして。
私は優希さんに、抱きしめられていた。
所謂、ハグだった。
「……どうですか?」
「ひゃぅっ」
思わず、変な声が出てしまった。
「く、黒咲さん?」
「は、う、うう、ううん。にゃ、な、何でも無いわ。……すっ、すごく、いい、いい感じよっ」
あまりの凄まじさに、噛みまくりだった。
失礼、噛みました。
なんて、迷子の小学五年生の常套句を思い浮かべるくらいには余裕が残っていると思うと、少しだけ落ち着くことが出来た。
しかし実際の所、すごくいい、どころの話ではなかった。
これ以上ない程にに密接している。それはつまり、優希さんの体温や、僅かな体の動き、先ほども感じた息づかいやシャンプーの香りまでもが、手に取るように感じ取れてしまうのだ。
それに、本当に優希さん、自分と同じ女性なのかと疑うほどに、彼女の体からは女らしさが溢れ出ていた。
なんかもう色々柔らかいし、その柔らかさがすごく気持ちいいし、髪の毛サラサラだし、いい香りするし、吐息聞こえるし、その吐息もなんか可愛いし、いや吐息が可愛いってなんだよとか思うけどでも可愛いものは可愛いし、背中からぎゅって抱きしめられるの最高だし、時々身動ぎするの分かるし、体温伝わってきてるし、うわこれが優希さんの体温かなんか気持ちいい、あ、また吐息聞こえた────。
顔が互いの右肩にあって見えないのは、幸いだった。
こんなに近くては、薄暗い部屋の中でも色々はっきり見えてしまうに違いない。
今の自分の顔が、人に見せられるようなものであるとは思えなかった。
「黒咲さん」
「は、はい」
「腕、そのままなんですか……?」
腕。
私の腕。
そういえば、横にぶら下げたままだった。
私も優希さんに習って、そっと彼女の背後に腕を回し、抱きしめてみる。
「っ……」
気の所為か、優希さんが息を飲んだような気配がした。
直後、少しだけ優希さんの抱きしめる力が強くなったのが伝わってくる。
気の所為ではなかったのかもしれない。
…………。
…………。
…………。
まさか、こんな日が来るなんて思ってもみなかった。
なんて、ありきたりなセリフを思わず呟いてしまいたくなるほどに、満たされている。
心も、体も。
もう誰かに心を開くことなんてないと思っていたけれど、今こうしてハグしていると言うことは、少しは前に進めているのかもしれない。
いや、かもしれないどころか、一時期人間不信になりかけていた事を思うと、ずいぶん前進できているのは間違いない。
優希さんに、私のことを知らないから教えてほしいと言われた時、躊躇う気持ちもあったが、少しだけ話すことが出来た。
といっても、雰囲気が好き、だなんて話していないようなものだけれど。
それに優希さんが私のことを知らないのは当然だ。
彼女と話すようになったのは、つい数週間前からのことだし、付き合い始めたのなんてついさっき、数時間前。
そして私は、今まで自分のことを優希さんに話してこなかったのだから。
でも、喫茶店で優希さんが友人たちの話をしてくれたことや、まだ数回しか会っていない私を家に呼んで、その上現在ハグしていることからも分かるように、優希さんは私に心を開いてくれている。気を許している。と思う。
私がそう思いたいだけなのかもしれないけれど……、いや、そう考えるところがいけないのだ。
優希さんは、私に心を開いてくれている。歩み寄ってきてくれている。
ならば私も、彼女に近づき、歩み寄り、少しでも心を開いていけたら。
今こうして、互いの体を寄せ合っているように、心もそうできたら。
そうしないと、今腕の中にいる彼女が、どこかに行ってしまいそうな気がした。
それは嫌だ。
そんなことになったら、今度こそ私は立ち直れないかもしれない。
今みたいに、ただ優希さんが好きで、そんな彼女に好意を伝えるというのも心を開いていると言えばその通りだが、むしろ心の内を暴露しまくっているとも言えるが、でも、今のままじゃダメなのは分かる。
今の私は、間違いなく、優希さんの優しさに甘えている。
自分でも驚くほどに、彼女の傍はとても居心地が良かった。
もしかしたら、このままでも良いんじゃないかと思えるほどに。
もちろん、そんなことはない。
今は良くても、いずれ崩壊する。
たぶん、いや、絶対。
私のことだから。
中途半端に器用で、肝心なところで不器用な、私のことだから。
優希さんのことを好きになればなるほど、不安は募るばかりだった。
優希さん……。
そっと、腕に力を込め、抱きしめる。
すると、ぎゅっと抱きしめ返された。
なにこれ。
すごい。
徐々に体が火照っていくのを感じながら、今は目の前の、腕の中の幸せを噛みしめることにした。