10話
○橙木夏美
混乱。
興奮。
紅潮。
まともに頭が働いてない。
落ち着いて。深呼吸しよう。
……。
状況を再確認する。
好きな人と混浴…もとい入浴中。
というのが現在のシチュエーションだ。
しかし、本来はその程度のことで慌てふためくような私ではない。
せいぜい心拍数が少し上がるくらいだ。
何故なら、このような状況が初めてというわけではないのだから。
好きな人との裸の付き合いは、以前にも経験しているのだ。
だから私は平常心を保って、この幸せなイベントを乗り越えられるはずだった。
はず、だった。
しかし現状は、過去最高レベルの緊急事態。
その現状を、詳細に、具体的に、委曲を尽くして解説するとこうなる。
私は浴槽の中で、好きな人に後ろから抱きつかれている。
私の背中には柔らかい感触があり、
私の耳元では好きな人の声と微かな呼吸音が聞こえていて、
私のお腹には好きな人の両手が回されていて、
私の腰は好きな人の太ももで挟まれていて、
私の足と好きな人の足はどちらかが動くたびに触れあい、
私の体の至る所から好きな人の体温が伝わってくる。
温かくて、柔らかくて、気持ちいい。
多幸感のあまり私は平常心を失っていた。
幸せいっぱい。
現状はそんな感じだった。
……。
それはさておき。
私の好きな人は私の親友でもある。私は女で、好きな人も女だ。
そう。私は所謂レズなのだ。百合なのだ。
そしてそして、さらにもう一つ。
私はすでに一度、告白に失敗していた。
「別に、嫌ではないんだけど、むしろ…」
「むしろ?」
「いや、何でもない」
答える代わりに、私は少しだけゆっきーにもたれかかった。
そしたらゆっきーも少しだけ私のお腹に回した手をぎゅっと締めてくる。
えへへ、幸せ。
「それで、優香ちゃんは元気にしてる?」
「うん、元気だよ。元気が有り余って、反抗期に突入したくらいだからね」
「へー、反抗期かー。どんな感じ?お父さんきらいーみたいな?」
「それもあるけど……実は少し前に私も喧嘩しちゃった」
「は?え、あの優香ちゃんとゆっきーが?」
「うん。喧嘩って言うか、一方的に怒られたり色々言われただけなんだけどね。なんで怒っていたのか分かんなくて、正直困ってて」
「それは……。大丈夫だった?」
優香ちゃんと言えば、ゆっきーのことが大好きな妹というのが、姉であるゆっきーを含めた私たち四人の共通認識だ。
正直驚いた。
それに色々言われたというのが気になる。
「優香ちゃんはたぶん大丈夫じゃないかな」
「優香ちゃんもだけど、ゆっきーも」
「私?」
「色々言われたっていうの、大丈夫だった?」
「ああ、そのことか。まあ、気にしてはいるけど、大したことじゃないよ」
(嘘だな)
というのは何となく分かった。でも、答えたくないならそれでいい。
そう思った直後のことだった。
右の耳元でのことだった。
「はぁ」
(うわっ、ちかいっ!息近い!)
不意打ちを食らった。
ゆっきーの吐息を右耳に食らった。
ヤバい。
顔が熱い。
「すぅーはぁー」
一度、小さく深呼吸をして乱れた呼吸と鼓動を整える。
その時だった。なんと、ゆっきーが私の肩に顎を乗せてきた。
第二段階だ。ゆっきーの攻めはまだ終わっていなかったのだ。
私は身構えた。
「なっちゃんってー、あったかいねー。優香といい勝負だよー」
(うあああああ!むりむりむり!!)
右耳が、右耳が幸せすぎて死ぬ!
というか、なんか喋り方可愛いし!
「お風呂入ってるとさー、眠くなってきちゃうよねー……」
「しょ、しょうじゃにぇ……」
ゆっきーと三年ぶりにお風呂に入ったら、右耳が死んだ。
それからのことは良く覚えていない……。
……。
(……とでも言うと思ったか!)
と誰にとも無く、私は心の中で叫んだ。
そんなわけがない。
そんなわけがないのだ。
断じて言おう。
声を大にして言おう。
こんな状況で記憶を失うなど、それは愚か者のすることだと。
目の前に想い人のあられもない姿があって、それを見る機会があって、大いなるチャンスがあって、それを逃すようなやつは総じて愚か者だと。
紳士だとか淑女だとか、そんなこと言っている場合があったら目を見開いて、脳裏に眼前の光景を焼き付けるべきだと!
……そういうわけで。
私は行動に移す。
紳士でも淑女でも、勿論愚か者でもない私は実行する。
有言実行だ。
いや、この場合は不言実行の方が正しいか。
まあどっちでもいい。
どちらだとしても、私がするべき事に変わりはない。
……。
それからのこと。
右耳がお亡くなりになったその後も、私はゆっきーの声を一言一句逃さず聞き取り、ゆっきーの綺麗な素肌を脳裏に焼き付けた。ゆっきーがパジャマを着るその時まで。
そして私は中学三年生の修学旅行のとき同様、いやその時以上の幸せに包まれて、当時と同じことを思ったのだった。
女に生まれて良かった、と。
○白石真雪
私は、スマホの画面とイヤホンから流れる音楽に集中しながら、隣で同じ音ゲーをしている莉奈に気になっていたことを尋ねてみた。
「ねぇ莉奈。あの二人本当に大丈夫かな?」
「……」
「ねぇ莉奈。あの二人本当に大丈夫かな?」
「……」
「ねぇ莉」
「うるさい、今集中してる」
「私も集中はしてるよー、あミスった」
画面右上の500を超えるcomboの数が消えて、1comboから再び数字が増えていく。
仕方ない。曲が終わるまでおとなしくゲームをプレイしていよう。
数十秒後。
「それで?」
「だからね、なっちゃんと優希が一緒にお風呂に入っていることについて、いろいろ心配なんだけど」
「なっちゃんが優希に何かすることはない」
「今まではそうだったけどさー」
「なっちゃんは以前、私の裸を見て興奮していたけど何もしてこなかった。物理的に間違いが起きることはないと思う」
「何その体験談…」
「冗談はさておき、なっちゃんはまだ中学の頃のことを気にしている。いい加減、そろそろ進展があってもいい」
「進展か。というか、そもそもの話。優希の方はどうなの?そっちの気はあるの?」
「ある。すでに確認済み」
「え。どうやって確認したの?気になるんだけど」
「以前二人きりになったときに、ベッドに押し倒したことがある。いい感じの雰囲気になった」
「え、えっ?莉奈、なにやっちゃってるの!?」
「嘘。ただの冗談。」
「はぁ……なんだ、冗談か」
「それより真雪、次の曲いくよ」
「うん、いいよー」
そういう流れで、私は話題の二人がお風呂から帰ってくるまで、莉奈とゲームを続けるのだった。
○橙木夏美
深夜一時。
例によってりなちーの策略のおかげで、私はゆっきーと寝ていた。
ゆっきーのベッドの上で。
「ゆっきー、起きてる?」
「んー……起きてるー」
「…………――だよ」
「んー?…声が小さいよー、なっちゃん。なんて言ったの?」
「なんでもなーい」
誤魔化し、はぐらかし、嘘をつく。
私はいまだに、ゆっきーに自分の気持ちを伝えることができないでいた。
それだけは、できなかった。
怖くて、できなかった。