05
マルガリーテ様のテーブルは先ほどまでは私が味わっていたものよりさらに上級の食材と食器で埋め尽くされていて、うっかり触って汚したり壊したりしたら家が取り潰しになるのではないかという恐怖のテーブルだった。
しかし勧められるものを断る無礼を働く勇気もなく、マルガリーテ様のお話にコクコクとうなずいて笑うだけの人形に徹するしか私にはできることがなかった。
「ねえ、エリック様もそう思うでしょ?」
事あるごとにそう言ってエリック様に笑いかけるマルガリーテ様の無邪気な様子は可愛らしくもあり残酷のようにも思えた。
エリック様は貴族とはいえ王家と結婚できるとは思えない。
しかしここまで王女のお気に入りであると公言されれば、結婚はなかなか難しいだろう。
いわば飼い殺し。
聖騎士という特殊な存在でもあるから、王家の庇護から離れることもできないだろうし。
きっと気苦労が絶えないんだろうな、と同情めいた気持ちで何気なくエリック様のを見上げる、ばちりと目が合ってしまった。
思わずビクリと身がすくむ。
今世ではまだ見たことがないが、前世では何度か目にした青い海と同じ輝きを持つ瞳がまっすぐに私を見つめていた。
先ほどまでの表情のない色ではなく、何故か少しだけ穏やかで懐かしささえ感じる視線だ。
慌てて視線を逸らすが、心臓がドキドキとうるさい。
決してトキメキのドキドキではない。
今の一瞬をマルガリーテ様に見られていたらという恐怖からくるドキドキだ。
「・・・」
そっとマルガリーテ様に視線を戻す。
口元は優雅に笑ってはいるが、目が笑ってはいない。
絶対に気が付かれた。エリック様を見つめてしまったことに気が付かれた。
背中に嫌な汗が流れる。もし、エリック様に思いを寄せているなどど勘違いされて、マルガリーテ様の不興をかってしまったら、
結婚どころか家族の危機だ。これはなんとしても誤解を解かねば、と口を開きかけた瞬間。
「ま、魔獣が出たぞー!!!」
誰かの悲鳴じみた叫びが会場に響き渡った。
魔獣、それは魔力を持った人以外の生物。
魔力があり普通の動物よりも知恵や意思を持つものが多く、生活の役に立つからと共存する種族も多いが、人に危害を加えるものもの少なくはない。
高位な存在になれば人語を解したり話したりする存在もいるが、人に仇なすものは殆どが知恵が低く野生の獣のよりも悪質。
「なんで、こんなところに」
バラ園は自然が多い場所とはいえ、あくまでも王都の中。人に害を与えるような魔獣がそう簡単に侵入するとは思えない。警備だって厳重のはずなのに。
誰一人走り出さないのは状況を理解できず混乱しているからだろう。
余興か何かと勘違いしているようで、会話や食事を楽しんでいる者までいて、まるで芝居のワンシーン。
しかし、伝わってくる混乱や緊張感や恐怖の声は間違いなく害のある存在が侵入したことを示している。
奥まったテーブルに座っているため、人々に遮られ魔獣の姿が見えないが、かすかに感ずる禍々しい気配。
本音を言えば走り出して逃げたいところだが、マルガリーテ様を差し置いて一人逃げるわけにもいかない。
混乱しながらマルガリーテ様を見れば、流石王族といった様子で落ち着いた表情を保ってはいるものの、やはり怖いのだろう、その腕はしっかりと隣に立つエリック様に添えられている。
エリック様は腰の剣に手を添え、己がどう動くべきなのかを考えているようだった。
「きゃあぁぁぁぁぁぁ!!」
少女の悲痛な叫び声が響き渡る。
控えていた騎士たちが一斉に駆け出し、周囲の招待客たちが我先にと逃げ始め、ようやく視界が開ける。
そこには大きな犬型の魔獣が唸り声をあげていた。
毛を逆立て目は血走り、獲物を探すように鼻をひくつかせながら、大きな口から涎を垂らしている。
その涎に交じる赤いものに血の気が引く。
魔獣の足元で体を震わせている小柄な令嬢が悲鳴の主だろう。
ドレスの裾は無残に破かれ、覗く細い足首には痛々しい歯型が浮かんでいる。
「ひどい!」
立ち上がり助けに向かわなければと動いた体を誰かの腕が差し止める。
腕の主は、剣を抜いたエリック様だ。
「ご令嬢方は避難を。どうぞ王女様とお逃げください」
落ち着いたその声に自分の出る幕ではないと悟り、駆け付けてきた召使たちに促されるようにマルガリーテ様と共に後方に下がろうとした、その時だった。
ウガァァァッァァァ!!
この世のものとは思えない雄叫びを上げた魔獣が一直線にこちらに向かってくる。
何故!と考える暇もなく距離が詰まる。
護衛のほとんどは当然のことながらマルガリーテ様を中心に配置されていて、下級貴族の私の傍にいるのは年若い召使くらいのものだ。
いったい何が魔獣を引き付けたのかはわからないが、目的はこちらとしか思えない動きをしている。
逃げ出したいが恐怖で足がすくんでうまく動かない。
「ヒッ!」
ほんの数センチの距離まで駆け寄った魔獣が勢いをそのままに私めがけて牙をむく。
先程の令嬢のように食らいつかれてしまうのかと思わず目を閉じて身構えるが、予想に反して魔獣の気配がそれ以上近づいてくることなかった。
「何・・・?」
恐る恐る目を開ければ、目前に立つ魔獣はまるで何かを迷うように恐れるように私の前で苛立たし気に唸り声をあげ足踏みをしていた。
まるで、私を襲うのをためらっているようだった。
理解しがたいその光景に私を含め周囲が身動きをとれずにいると、魔獣は鼻をひくつかせて標的を変更したように身体の向きを改めた。
マルガリーテ様の方へ。
「い、いやぁ!!」
マルガリーテ様の傍に控える召使が短い悲鳴を上げたのを合図に魔獣が走り出す。
しかし、魔獣がマルガリーテ様たちの周囲に近寄るよりも早く魔獣の背中に大きな剣が付きたてられた。
ギャウン!!!
蹴り飛ばされた子犬のような悲鳴を上げ、魔獣がのけぞる。
魔獣の毛は金属のように固く、容易には傷つけられないはずなのに、その剣はやすやすと魔獣の身体を貫き、その身体からは黒い血がしたたり落ちて美しい芝生を汚していく。
「とどめを!」
叫んだのは剣を突き立てたエリック様だ。
合図と共に他の騎士たちが集まり、次々に魔獣の身体に剣を突き立てる。
エリック様の一撃でほとんどの動きを封じられていた魔獣はなすすべもなく騎士たちの剣に串刺しにされ、悲鳴を上げる間もなくその動きを止めた。
あたりに生臭い匂いが広がる。
恐怖のあまり、誰も悲鳴を上げることができなかった、私を含めて。
沈黙を破ったのは、誰でもないマルガリーテ様の乾いた声だ。
「・・・なぜ、ユーディリアは襲われなかったの?」
その言葉にハッとしたように周囲の視線が私に集まる。
確かに、魔獣は私に向かってきていた。
それなのに何故直前になって動きを止めたのか。
異質なものを見るような、疑問と懸念の視線にさらされ居心地が悪い。
襲われそうだった生命の恐怖が、違う種類の恐怖に差し代わっていく。
止めて、そんな目で見ないで。私は平凡で穏やかな人生を送りたいだけなのに。
「ユーディリア、貴女まさか、魔女なの・・・?」
マルガリーテ様の残酷な言葉に、私は目の前が真っ白になっていくのを感じながら意識を手放した。