悪夢のパレードが来る
「いやっはああああああっ! ナイス、首藤ちゃん! 志賀路ちゃん!」
霧島のスクーターが異界へ侵入する。
聖域めいた静謐な森に、異物が侵入する。
《此処ハ!?》
無論、それを追いかけて女神の化身もやってくる。
「あははははっ、里帰りじゃんっ!」
なんて言いながら、スクーターは真っ直ぐに泉まで突き進み、寸前で凄まじい土煙とともにドリフト。
泉スレスレのところで、化身と霧島は対峙した。
《ソウカ、貴様ノ目的ハ私ヲ此処ニ沈メルコトカ》
「うん。もっと何も考えてないと思ってたけど、意外に賢いね。良かったよ、あの異形じゃなくて君が生き残ってくれて」
《ダガ、バレテシマエバ何ノ意味モ――》
「ないね」
言いながら、霧島はおもむろに“それ”を投げた。
まるで当たり前のように、流れるような動作で、泉に向かって。
異形化した右腕を。
(そこそこの知性がないと、やっぱり罠には嵌められないしね)
《――貴様ッ!》
一瞬、化身の意識がそれに集中する。
手を伸ばし、それを掴もうとする。
(さあ、最後の仕事だよ、ふたりとも)
「《さようなら、そっくりさん!》」
隠れていたミユキたちが、意外なほどに近くの草木から現れる。
ハカリコの首を小脇に抱えて。
そのまま、無防備な背中を片手でぽんと押した。
それで十分。
《――ア》
ぼちゃり、あまりにもあっけなく。
泉の女神の化身は、生まれた場所に戻っていった。
「来るよ、ふたりともっ!」
霧島の言葉とほぼ同時、泉がまばゆいばかりに輝き出す。
ふたりにとって三度目のそれ。
「あなたが落としたのは――」
そうして現れる諸悪の根源、泉の女神。
その両手に掴まれているのは――
「縺薙?驥鷹ォェ遒ァ逵シ縺ョ雜?せ繧ソ繧、繝ォ鄒主ー大・ウ縺ァ縺吶°?溘縺昴l縺ィ繧ゅ∫岼莉倥″縺梧が縺?■繧薙■縺上j繧薙〒縺吶°??」
虚無であった。
泉の女神が虚無を掴んでいる。
モザイク状のそれは、人間の目では正確に認識できない。
ミユキたちが見た異形とはまた別の、この世界の理から外れた何か。
「??????蕭?▼?若????鴻?帥?ゃ????絨?絅潟?с????鐚?????????????????????????<???<???????с????鐚?」
虚無を掲げる泉の女神。
全く解読不能なノイズめいた声を上げて、その存在そのものに古いブラウン管のようなノイズを走らせていた。
そのノイズは更に大きくブレにブレて、もはやその美しい容貌は原型をとどめていない。
「鐃緒申鐃緒申鐃緒申?㍼申?種申?ワ申鐃緒申鐃初柑鐃遵献鐃純??鐃緒申鐃緒申腟?申腟?羹?鐃術?鐃緒申鐃緒申??鐃緒申鐃緒申鐃緒申鐃緒申鐃緒申鐃緒申鐃緒申鐃緒申鐃緒申鐃緒申鐃緒申鐃緒申鐃緒?鐃緒申鐃緒?鐃緒申鐃緒申鐃緒申鐃術?鐃緒申鐃緒申??鐃?」
意味不明なことを叫ぶ、意味不明な物体がそこにはあるだけだ。
「《ああもう、結局、本家本元もこうなるの!?》」
「なにはともあれ、これで長年の謎、金の斧を泉に二度漬けしたらどうなるかの結論が出たね。やっぱりバグる!」
「《いいから逃げましょう! って、ひいいいいっ!》」
「なんじゃこりゃああああああっ!」
なんて言っている間にも、さらなる異常事態が三人を襲った。
透き通って綺麗だったはずの泉が、バグった女神を中心に墨汁めいて真っ黒に染まりはじめ、気がつけば泉全体が暗黒と化している。
この間、わずか一秒。
そして、さらに一秒。
暗黒の泉は、まるで台風でも直撃しているかのごとく、泉の女神さえもたやすく飲み込みながら、凄まじい勢いで嵩を増していた。
「乗りたまえふたりとも!」
このままでは飲み込まれる。
ミユキはハカリコの首をしっかりと抱えて、霧島のスクーターの後ろに飛び乗った。
そのままスクーターは発進しようとするが、
「って、エンスト!?」
先程の無理な駆動が祟ったのか、煙とともに沈黙した。
いいやあるいは、スクーターが壊れていなくても。
背後から迫る津波のごとき暗黒が、あっという間にミユキたちを飲み込んでいった。
《「「―――!?」」》
悲鳴なんてあげる間もなく。
何も見えない。
何も聞こえない。
ゾッとするような冷たさが、重油のごとくまとわりつくそれが、全身を侵すだけ。
冷たさを感じながら、ただ流されるしかない。
当たり前だ、志賀路ハカリコには首しかないのだから。
首しかないデュラハンに出来ることなど、なにもない。
あのときと同じだ。
坂の上を転がるしかなかった、あのときと。
どうして自分には翼がないのだろうか。
あの子みたいに空を自由に飛べたら。
そうすればきっと、どうでもいい柵から外れられるのに。
ラブレターを破り捨てられるのに。
友達の悪口に素直に怒れるのに。
この冷たい闇の中から抜け出せるのに。
《……志賀路さんっ!》
あの子の声がした。
幻聴だろうか。
頭の中に響くようなそれ。
痛いほどの無音の中で、ただそれだけが聞こえた。
《志賀路さんっ、志賀路さんっ!》
しかしそれは、何度も何度も響く。
自分よりも遥かに苦しそうな声で、ハカリコを呼ぶ声が響いた。
何も見えない。
何も聞こえない。
ゾッとするような冷たさが、重油のごとくまとわりつくそれが、全身を侵すだけ。
冷たさを感じながら、ただ流されるしかない。
それは何も、生首だけの問題ではなかった。
胴体だけの首藤ミユキもなお、流れには逆らえない。
しかしそれでも、ミユキはもがく。
重油のごとくまとわりつく暗黒を振り払い、手を伸ばして叫んだ。
《志賀路さんっ!》
叫ぶ。
手を伸ばす。
あのときと同じだ。
トラックに轢かれそうになっているハカリコを助けようとした、あのときと。
《志賀路さんっ、志賀路さんっ!》
けれども翼と違い、あまりにもこの体は鈍重で。
それでもなお、ミユキは重い体で懸命に暗黒を掻く。
《首藤さんっ!》
そしてミユキの魂の耳は、その声を聞いた。
魂の声。
それに反応して、ミユキは暗黒を掻き分けて、手を伸ばした。
何も見えないが、しかしそれでも感じる。
この先にハカリコがいると。
《志賀路さんっ!》《首藤さんっ!》
あと少し、あと少しで届く。
《――ッ!》
しかし次の瞬間、突然の激流がミユキをさらった。
見えなくとも感じる。
彼我の距離が離れていくのを。
届かない。
この鈍重な体では、ハカリコには届かなかった。
ああ、こんなところまであのときと同じだ。
けれども、今のミユキには足りないものがある。
《……返しなさい》
あれが必要だ。
あれがあれば、ハカリコのもとへ行ける。
あれがなければ、何も出来ない。
可愛いとか可愛くないとかじゃない。
あれを寄越せ。
《私の落とした、私の首を返せ!》
ミユキの言葉に呼応するように、それは泉の奥底から飛んできた。
それは、生首だった。
それは、飛頭蛮だった。
飛頭蛮が、重たい暗黒を掻き分けて突き進んでいる。
ミユキの鈍重な四肢とは比べ物にならない速度。
まるで空を飛ぶかのごとく。
「――志賀路さんっ」
飛頭蛮は容易くハカリコを掴んだ。
「……ここは」
目が覚めたら、ミユキは地面に横になっていた。
かなり時間が経ったようで、あたりに闇が立ち込め、山の端に真っ赤な日没が見える。
周囲には見覚えのある暗黒が点々と水たまりを作っているが、あの激流と比べてしまえばその量はあまりにも少ない。それどころか、視界の隅で徐々に蒸発していくのが見える。
上体を起こしてみると、そこには見覚えのある建物。
「……学校だ」
それも黄金ではなく、元のコンクリートの平々凡々なそれであった。
それだけじゃない、グランドも何もかももとに戻っている。
ミユキたちは学校まで流されたのだ。
「そうだ、志賀路さん!」
「……うぐぅ」
思わず体をこわばらせると、懐からくぐもった声がした。
視線をやると、そこには他ならぬハカリコの首。
ミユキはそれを無意識にむぎゅりと抱きしめていたようだ。
「ごっ、ごめん」
「いや、いいんだけどさ。……さっき助けてくれたし」
言われてみれば、ミユキには首がついている。
(……ああよかった。やるじゃん、私)
「そういえば、霧島先生は」
「私なら元気だよ」
すっかりうっかり完全に忘れていた彼女が、こちらに向かって歩いてくる。
手を振ってにっこりと、やたら元気そうに。
「しかし、すごかったね。ふたりとも怪我はないかい?」
「首藤さんが助けてくれたので」
なぜかやたら得意げにハカリコはいった。
「……おや、そういえば首が戻ってるね」
「色々ありまして」
なんて言いながら首を触ってみると、なんだか妙に懐かしい感じがした。
「ふむ、それは重畳だね。だけど、志賀路ちゃんは?」
言われてみれば、ハカリコの胴体は行方不明であった。
あの惨状だ、おそらく泉そのものが消滅してる可能性は高い。となれば、
「私が責任持ってお世話します」
それしかないだろう。
「ちょっ、何いってんの!?」
「だって私のせいみたいなところあるし」
「ないから、自分が悪いから!」
「でもでも、私が余計なことをしなければ嫉妬に駆られることも――」
「待って、その話はやめて! ふたりだけの秘密!」
「……秘密」
「なにそのうれしそうな顔」
「だって、ふたりだけの秘密だよ?」
「重たいっ」
「そうだよ、私重たいよ。どうせバレてるんだからどんどん重たくするよ。本当の私は友達がいないしバカみたいに重たいよ」
「ちょっ、顔が近いからっ」
「だからさ、そんな重たい私に全部任せてよ。私は重たいから志賀路さんのお世話くらい嬉々としてやるよ。重たいからね」
「……なんて、顔が真っ赤だぜ首藤ちゃん。そうやってふざけて場を和ませるのも悪くないが、滑ってるよ」
「……バレてましたか」
「うん、正直バレバレ。無理してる感ひしひし」
「安心したまえ。首が健在ということは体も――」
それは、あまりにも唐突だった。
三人とも空を見上げて、絶句する。
「……何、あれ」
それは、幾つもの白い光点だった。
夜空を埋め尽くす、無秩序な流れ星、あるいは蛍の群れ。
四方八方、あちこちに向かって駆けていく。
そしてその光は全て、坂道の途中――泉の異界から現れていた。
すなわちそれは――
「えっ、ちょっ」
空飛ぶ光のうちふたつが、こちらに向かって落ちてきた。
まるで羽根のようにふわふわと、重さを感じさせずに。
近づいてくると、それが光に包まれた物体である事がわかる。
制服に包まれた、華奢な少女の胴体。
見覚えのあるスクーター。
そのまま全く質量と危険を感じさせず、ふたつは着地した。
「えっとこれ、ふたりの落とし物?」
《みたい》
胴体がひとりでに立ち上がり、ハカリコの首を回収、接続する。
「ふむ、こっちも私のだね。ご丁寧に壊れたままだ」
「ってことはもしかしてこの光って全部」
「泉に落とされたものだろうね」
そう、それは泉の底に捨てられたものたち。
泉が干上がったことで露わになったそれが、持ち主の元へ戻っていく。
捨てられて、顧みられなくなったものたち。
誰にも必要とされていないものたちの、無秩序な行進。
近くで見てしまえば、それは醜悪極まりないのかも知れない。
それでも見上げる光たちは、
夜空に飛翔する煌めきたちは、
「「……綺麗」」
あまりにも美しかった。