ボリス、昔を思い出す(1)
店の扉が開いた。本を読んでいたボリスは、顔を上げる。
入って来たのはミーナである。彼女は店内を見回し、チッと舌打ちした。
「ニコライの奴、いないのかい? 人を呼びだしといて留守ってのは、どういうことかねえ?」
「ニコライさんは今、出かけています。あの人も、意外と忙しい身なんですよ」
そう言うと、ボリスは立ち上がり奥の扉を開ける。
「向こうで話しましょうか。どうせ、お客さまは来ないでしょうしね」
部屋に入ると、ミーナはものも言わず椅子に座った。いつもと同じく、不機嫌そうな様子でボリスを睨みつける。
「ねえ、何の用?」
「あなたに渡すものがあります。これです」
言いながら、ボリスはポケットから何かを取りだし、テーブルの上に乗せる。
そこには、六枚の金貨が置かれていた。
「この前、仕事をしてもらった報酬です。どうぞ」
「はあ? あたしが金もらったって、何すればいいんだい?」
呆れた顔のミーナに、ボリスは微笑む。
「あなたの欲しいものを買えばいいのでは? このゴーダムでは、夜通し開いている店も少なくないですし。美しい装飾品や綺麗な服など、買えるものはいくらでもありますよ」
その言葉を聞いたとたん、ミーナの顔に意地の悪い表情が浮かんだ。
「だったら、酒と邪眼草を買えるだけ――」
「駄目です!」
真顔で怒鳴りつけるボリスを、ミーナは鼻で笑った。
「冗談だよ。あんた、本当に堅物だね。もう少し、肩の力を抜きなよ」
その声には、いつになく親しみの感情がある。ボリスは戸惑い、とっさに返事が出来なかった。だが、ミーナの方はマイペースだ。金貨をポケットに入れ、立ち上がる。
「ま、あっても困るもんじゃないからね。ありがたくもらっとくよ。ほんじゃ、またね」
彼女は立ち去りかけたが、扉のところで振り向いた。
「そういえば、前から不思議だったんだけど……あんたとニコライが出会ったきっかけって、何なの?」
「それは……企業秘密です」
そう言って、ボリスはくすりと笑った。途端に、ミーナは憮然とした表情になる。
「何が企業秘密だよ、スカしやがって。んなもん、別に知りたくないから」
荒い口調で言うと、ミーナは去っていく。相変わらず口は悪いが、以前に比べると態度は軟化してきている。いずれ、彼女も自分の生き方を見つけられるかもしれない。その後ろ姿を見ながら、ボリスはひとり呟いた。
「これはね、私の一存ではどうにも出来ないんですよ。ニコライさんの許可がなければ、私の口からは言えません」
その後、ボリスは店に戻った。いつもと同じく、客はいない。本来、この店は古道具屋である。並んでいる商品は、かつてボリスの住んでいた屋敷に残されていた物を運び出してきたのだ。
ボリスはふと、屋敷にいた頃のことを思い出していた。
・・・
その男は、とても恐ろしい姿をしていた。
二メートルの長身、巨岩を擬人化させたような体格。分厚い筋肉に覆われた巨体が生み出す腕力は、人間のそれを遥かに超越していた。成長しきったヒグマでさえ、一撃で倒してしまえるほどの強さを秘めている。
また、彼の容貌はとても醜かった。縫ったような傷痕が、何本も顔に付いている。左右の目の大きさは異なっており、大きな鼻は曲がっていた。怪物としか表現のしようのない顔が、逞しい体の上に付いている。
そんな容貌とは裏腹に、彼は高い知能を持っていた。屋敷にある多数の書物を読み、それらをちゃんと理解していた。おそらく、国でもトップクラスの知識の持ち主であっただろう。
にもかかわらず、彼には名前がなかった。
一年ほど前まで、この地方にはフランチェンという名の魔法使いが住んでいた。かつては宮廷お抱えの大魔道師として名を馳せていたが、引退後は田舎町に引っ込んでいた。
そのフランチェンは晩年、ある研究に没頭する。それは、魔法により生きた人間を造り出す……というものである。
今までにも、動く石像のゴーレムや骨で出来たスケルトンなどを造り出すことには成功していたが、彼は満足していなかった。
フランチェンが望んだのは、人間と同じ知能と心を持った生物を、魔法で造り出すことである。彼は古今東西の書物を読み漁り、研究に研究を重ねる。
数十年の月日が流れ、フランチェンはようやく完成させた。巨大な体と恐ろしい顔をもつ生物……だが、人間と同じ心も持っていた。
フランチェンは狂喜乱舞し、自ら作り上げた者に抱きつく。ことあるごとに彼に話しかけ、様々なことを教えていった。
だが残念なことに、フランチェンは彼に名前を付けることを忘れていた。
一年後、さらに残念なことが起きる。フランチェンは心臓麻痺を起こし、帰らぬ人となってしまったのだ――
フランチェンが亡くなった後、男はひとりで生きていた。屋敷の中にあるたくさんの本を読み、そこに書かれている様々な知識を学んでいく。男は外見が醜いが、知能は高い。学んだことを、どんどん吸収していった。
やがて、男は外に出る。フランチェンの屋敷は森の奥にあるため、人が訪れることはない。代わりに、野生動物がうろうろしていた。中には、熊や狼のような猛獣もいる。
男は、そうした猛獣に襲われることもあった。だが、彼は持ち前の腕力で難なく撃退する。やがて森の動物たちも、彼には手を出さなくなった。
時に、彼は遠出をした。心のおもむくままに歩き、人里に近づいて行く。屋敷から半日かけて歩くと(もっとも、彼が走れば数分で到着するが)、多くの人が住んでいる村にたどり着ける。
少し離れた小高い丘の上から、人々の姿を眺めるのが大好きだった。
彼は、自分の姿が醜いことを知っていた。彼と出会った人間は、例外なくこんな言葉を放つ。
「化け物!」
化け物がどういった存在であるか、彼は知っている。また屋敷の鏡を見れば、自身がどんな顔をしているかも理解できる。
人間と全く同じ心を持ちながらも、姿は化け物……それゆえ、彼は孤独であった。森の奥の大きな屋敷の中で、書物だけを友として暮らしていた。
だが、そんな彼の生活を一変させる出来事が起こった。
ある日、彼は村から程近い森の中を散策していた。すると、前から小柄な少年が歩いて来るのが見えた。
男は、慌てて身を隠す。彼が他の人間と出会えば、必ずトラブルになるからだ。
普段なら、さっさとその場を離れていたはずだったが……その日は、巨体を縮こませて大木の陰に隠れ、様子を見守った。少年の歩き方に、違和感を覚えたからである。
やがて、少年が近づいて来た。美しい容貌であり、年齢は十代の半ばだろうか。汚れた服を着ていて、杖を突きながら慎重に歩いている。
なぜか、両目をつぶりながら。
彼は知っていた。この世界には、目の見えない人がいる。生まれつきか、あるいは病ゆえか。様々な理由により、視力を失うケースがある。これもまた、フランチェンの残してくれた本に書かれていた知識である。
この少年も、目が見えないのか。ならば、今のうちに立ち去るとしよう。
彼は、静かにその場を離れようとした。だが、彼の体はとても大きい。動いた拍子に草に触れ、ガサリと音を立てる。
そのとたんに、少年の表情が変わる。
「だ、誰かいるのか!」
叫びながら、少年は杖を振り回した。とたんにバランスを崩し、地面に転倒する。
その時、彼は反射的に動いていた。巨体に似合わぬ速い動きで少年に近づくと、逞しい腕で助け起こした。
「あ、ありがとう……ございます」
少年は、呆気に取られた表情で礼を言った。しかし、彼は何も言えなかった。こういう時、なんと答えればいいのか知識としては知ってはいる。ところが、彼は他人と会話をするのは久しぶりだった。しかも、創造主であり育ての親であるフランチェン以外の人間と話すのは初めてだ。上手く言葉が出て来ない。
彼の胸はドキドキし、舌がもつれる。こんな時、なんと言えばいいのだろう。
その時、少年が近づいて来た。彼のゴツゴツした手に触れる。
「大きい手ですね。凄く強そうだなあ」
少年は感嘆の声を上げる。だが彼はビクリと反応し、手を引っ込めた。
すると、少年は慌てて頭を下げる。
「あっ、ご、ごめんなさい……」
すまなさそうな顔で、ペコペコ頭を下げる少年。そんな姿を見て、彼はおずおずと声をかける。
「い、いえ、大丈夫ですよ。私の方こそ、すみません。あまり人と接したことがないもので……」
丁寧な言葉と気弱そうな声に、少年はくすりと笑った。その笑顔を見たら、彼もなぜか笑っていた。
くすくす笑い合う二人。やがて、少年が手を差し出してきた。
「僕の名は、ニコライです。あなたの名前は?」
「えっ……」
彼は言葉に詰まる。名前など無いのだ。創造主であるフランチェンには、「おい」「お前」という風に呼ばれていた。
しかもひとりで暮らすようになってからは、名前の必要性など感じたこともない。
「あっ、あの……お名前は何ですか?」
ためらいがちに、尋ねてきたニコライ。どうやら、質問が聞こえなかったと勘違いしたらしい。
「な、名前はありません」
そう答えるより他なかった。すると、ニコライは首を傾げる。
「名前がないんですか?」
「はい。私の創造……いえ、父親は、名前を付ける前に亡くなりました」
その言葉を聞き、ニコライは下を向いた。眉間を皺を寄せ、何やら考え込むような仕草をする。
ややあって、ニコライは明るい表情になった。
「では、ボリスという名前はどうでしょうか?」
「ボリス?」
「はい、あなたの名前ですよ。僕の目がまだ見えていた時、村に旅芸人の一座が来たんですよ。中に、凄く力持ちの人がいまして……あなたみたいに、大きくて強そうでした。その人の名がボリスだったんです」
そう言って、ニコライは微笑んだ。その笑顔はあまりにも眩しく、彼は思わず下を向いた。
「ボ、ボリス……ボリス……」
男は、呪文のように何度も繰り返していた。とても不思議な気持ちだ。嬉しいような、恥ずかしいような……こんな気持ちは初めてである。
「い、嫌ですか?」
恐る恐る、ニコライは聞いてきた。彼は慌てて首を振る。
「と、とんでもない! 私は嬉しいです! 名前を付けてもらえるなんて、本当に嬉しい!」
言いながら、ニコライの手を握る。ニコライも、ホッとしたように笑った。
「喜んでもらえたなら、僕も嬉しいです」