サム、ようやく決める
店の扉が開いた。
ニコライが顔を上げると、サムが立っている。昨日と同じ、暗い表情だ。どうやら、まだわだかまりが解消できていないらしい。
「やあサムさん、今日もいい天気だね」
ニコライは、努めて明るい声を出した。しかし、サムの表情は変わらない。
「なあ、俺はどうしたらいいんだろうな」
その言葉はニコライに尋ねるというより、己自身に聞いているかのようだった。
「まだ決められないのか」
ニコライの問いに、サムは頷いた。
「俺は今まで、家族のために生きてきた。子供に残してやりたくて、少しずつ金を貯めてきた。ところが、いざ死んでみると女房は浮気してた。俺が死んでも、誰も悲しんでいない。むしろ、俺の方が泣けてきたよ」
そう言うと、サムは虚ろに笑った。
「サム、あんたは何がしたかったんだ?」
「えっ?」
サムは、困ったような表情を浮かべる。ニコライは、黙ったまま彼の次の言葉を待った。サムには、何か心遺りなことがあったはずだ。そのため、彼は現世に留まっている。ところが、その心遺りなことに取り掛かろうとした矢先、女房の浮気を知ってしまった。
ならば、もう一度それを思い出させるしかない。このまま現世に留まり続ければ、サムは人間に害をなす存在と化すであろう。
それだけは、避けなくてはならない。
「俺は、ラーカスの金をくすねていた。全ては、女房と子供のためだった」
ややあって、サムは呟くように言った。
「なるほどね。あんた、家族思いだったんだな」
ニコライは相槌を打ちながら、サムの次の言葉を待つ。出来ることなら、家族に対する思いを甦らせて欲しい。
「ラーカスの金を少しずつ拝借し、どうにか五十ダレルまで貯められた。いずれ、女房と子供に渡すつもりでな。ところがだ、死んでみれば女房は浮気してた……俺は、どうすりゃあいいんだろうなあ」
クスリと笑うサム。ニコライも、ようやく事情が飲み込めた。
「あんたの心遺りは、貯め込んでた金を奥さんと子供に渡せなかったことだね」
「ああ、そうだよ」
「だったら、渡してやろうよ」
ニコライの言葉に、サムは表情を曇らせる。
「その金は、女房と浮気相手の若造が使うんだよな」
サムの口調は、冷めたものだった。ニコライは口元を歪めながらも、さらに言う。
「でもさ……このままだと、あんたの金は隠されたままだよ。どっかのバカが見つけた挙げ句、ものすごく下らないことに使われちゃうかもしれないぜ。あるいは、隠されたまま朽ち果てていくかもしれない。五十枚の金貨が、誰にも使われずにひっそりと錆びていく……こりゃあ、もったいなさすぎだよ」
「それもそうだな」
「だろ? だったら、渡してやろうよ。それに、金は奥さんだけが使うわけじゃない。子供だって、この先金がいるはずだぜ」
「ああ、いるよな」
サムは、複雑な表情で頷いた。
「酷な言い方だけどさ、あんたはもう死んでるんだ。これから、あんたは死者の世界に旅立たなきゃならない。死者の世界では、金なんかゴミクズ以下さ。だったら、生きている者のために使うのがいいんじゃないかな」
その言葉に、サムはため息を吐きつつ頷いた。
「わかったよ。あんたの言う通りだ」
ニコライは、一軒家の前で立ち止まった。
この近辺は、トライブの縄張りである。そのため、他の地区に比べると治安はいい。何か揉め事があれば、すぐにトライブの兵隊が駆けつけて来る。もっとも、それなりの収入がなければ暮らせないのだが。
「もう一度確認するが、本当にいいんだな? 渡す額は、三十ダレルなんだな?」
ニコライが小声で尋ねると、サムは頷いた。
「ああ。二十ダレルは、あんたの手間賃として取っといてくれ」
「わかった。じゃあ、ありがたくいただいとこう」
そういうと、ニコライは呼び鈴の紐を引いた。
ややあって、扉が開いた。中から、中年女が顔を出す。歳は三十代半ば。やや小太りではあるが、なかなか綺麗な顔立ちである。もっとも、ニコライの訪問を歓迎している素振りは欠片もない。
「あんた、誰?」
不審そうな顔つきで、女は聞いてきた。それに対し、ニコライは笑顔で答える。
「わたくし、渡し屋ニコライです。あなた、エレンさんですよね?」
「そうだけど、何の用?」
「今日はですね、あなたに渡すものがあるんですよ」
そういうと、ニコライは手にした革袋を開けて見せる。中には、三十枚の金額が入っていた。
「ど、どういうこと?」
エレンの顔には、戸惑いの表情が浮かんでいる。ニコライは、声をひそめて語り出した。
「実はですね、生前サムさんから頼まれていたんですよ。俺にもしものことがあったら、この金を家族に渡してくれ……とね。そして昨日、サムさんが亡くなられたことを聞きまして……仕事を果たすべく、こうして参上しました」
そう言って、ニコライは大げさな身振りでお辞儀をして見せた。すると、エレンはくすりと笑う。
「立ち話もなんだから、入りなよ」
家の中に入ると、ニコライはさりげなくサムの顔を見た。何を考えているのか、その表情からは読み取れない。エレンに椅子を出され、ニコライは申し訳なさそうに座った。
「あんた、若いのにバカ正直だね。ゴーダムの住人とは思えないよ」
不意に、エレンが口を開いた。
「えっ? そ、そうですかね?」
「だってさ、普通はこんな約束守らないんじゃない? 死人に口なしって言葉があるけど、この金を懐に入れても何の問題もないじゃない。誰も文句は言わないだろうしさ」
「本当に死人に口なしだったら、こっちとしても楽なんですけどねえ」
言いながら、ニコライはサムの顔をちらりと見た。彼の顔には、はっきりと悲しみの感情が浮かんでいる。ここまでだ。もう退散するとしよう。これ以上ここにいると、サムの決意が変わるかもしれない。
「さて、お金も渡したことですし、そろそろ引き上げます」
そう言って、ニコライは立ち上がる。だが、エレンは彼の手を掴んだ。
「ねえ、もうちょっと居てくんない?」
「はい?」
ニコライは、思わず顔を歪めた。この女、自分を誘惑しようとしてるのか……今の状況で、それだけは勘弁して欲しい。
だが、エレンは苦笑した。
「いやいや、違うから。あんた可愛い顔してるけど、今はそんな気分じゃない。ただ、ちょっと話を聞いて欲しいだけ」
そう言って、エレンは溜息を吐いた。ニコライは仕方なく、椅子に腰掛ける。
「あの人、すっごく気が弱くてね。そのくせ、酒飲むと性格が変わるんだよ。あんた、サムと飲んだことある?」
不意に、エレンが聞いてきた。ニコライは、無言のまま首を振る。もしかしたら、ここから先はサムの聞きたくない話もあるのかも知れない。さりげなくサムの顔を見たが、彼はやるせない表情を浮かべている。何か思い当たるふしがあるのだろう。
「いえ、サムさんと飲んだことはないです」
「だろうね。あの人は、外では飲まないんだよ……うちの中だけ。挙げ句、酔っ払っては暴れてた。あたしも、何度も殴られたよ。けど翌日になると、泣きながら何度も謝ってた。その繰り返し」
淡々とした口調で、エレンは語った。ニコライは何も言えず、彼女から目を逸らす。サムの顔を見てみたが、彼はじっとエレンを見つめていた。
「あの人が死んだって聞いて、悲しいって気持ちより、ホッとした気持ちの方が大きかった」
エレンは、そこで言葉を止めた。様々な感情のこもった目で、ニコライを見つめる。
「あたしを、ひどい女だと思うかい?」
「さあ、どうでしょうね。それを決めるのは、あなた自身じゃないでしょうか。俺みたいな人間に、決められる問題じゃないですよ。
言いながら、ニコライは立ち上がった。これ以上この家にいたら、確実に良くないことが起きる。
「申し訳ないんですが、仕事が詰まってるんで失礼しますよ」
そう言うと、ニコライはさりげなくサムに触れた。彼に目で合図し、扉へと歩いて行く。
去り際、エレンをちらりと見た。だが彼女は下を向き、床を見つめていた。その瞳には、涙が浮かんでいる。ニコライは、静かに外に出た。
「エレンは浮気してたかも知れないけどさ、あんたも褒められた亭主じゃなかったみたいだね」
ニコライは軽い口調で言ったが、サムは何も言わなかった。虚ろな表情で、かつて自分の家だったはずの建物を見つめていた。彼の胸には、様々な思いが去来しているはずだ。死んだ今になって、ようやく理解できたこともあっただろう。
ややあって、サムはこちらを向いた。
「ニコライ、俺はもう行くよ」
その言葉に、ニコライはうんうんと頷いた。
「それがいいよ。今のまま、この世をふらふらしてても、何もいいことはないからね。ここは生者の世界だ。今のあんたは死者だ。死者は、死者の世界に行かななきゃね」
「そうだよな」
サムは、右手を差し出してきた。ニコライは、その手を握る。いつもながら、不思議な感触だ。死者の手は冷たく、血や生気は感じられない。
そんな手で、彼らはニコライと握手する。みな例外なく、しっかりと握ってくる。握手という習慣のない子供ですら、彼の手を握っていくのだ。
ニコライには、その理由が分かっている。死者たちにとって、最後に触れ合うことの出来る生者は彼だけだ。いわば、生者の世界との最後の接点である。それを大切にしたいのだろう。
「出来ることなら、生きてるうちにあんたと会いたかったよ。いっそ、あんたの下で働きたかったな。そうすれば、俺もまだ生きていられたのにさ」
寂しげな表情で、サムはそんなことを言った。冗談とも、本気とも取れる言葉だ。ニコライは苦笑した。
「悪いけど、うちはあんたを雇えるほど儲かってないから。うちにいたら、あんた五十ダレルも貯められなかったよ」
「そうか」
サムも笑みを浮かべると、ニコライに深々と頭を下げる。
「本当に、お世話になりました」
店に戻ったニコライを、ボリスが出迎える。
「終わりましたか?」
「ああ、サムは旅立ったよ。あいつは、はっきり言ってロクデナシだった。でも、あいつはあいつなりに家族を愛してたんだな」
ニコライは、しんみりとした表情で椅子に座る。すると目の前のカウンターに、お茶の入ったマグカップが置かれた。
「ありがとう。さて、次の仕事だが――」
「ラーカスたちを始末するんですね。私が、三人とも仕留めます」
ボリスはそう言ったが、ニコライは首を振った。
「いや、今回は俺も殺るよ。ついでに、ミーナにも手伝わせよう」
「ミーナにですか!? それは危険ですよ!」
「危険は危険だけどさ、あいつにも何かさせないとマズイだろ。今のミーナは、何もやることがない。人間て奴は、暇になるとロクなことしないからな……あ、あいつはバンパイアだったっけ」
冗談めいた口調でニコライは言ったが、ボリスはにこりともしない。
「もし、人間の血を見てしまったら、彼女はバンパイアの本能を押さえられなくなるかも知れません」
その言葉に、ニコライはため息を吐いた。
「あのな、ミーナだって子供じゃないんだ。俺たちが、つきっきりで見守るわけにもいかないだろ。生きていれば、人間の血を見ることだってある。それで自分を押さえられなくなるようだったら、しょせんはそこまでだ。だいたい、バンパイアの本能を薬で押さえこんでるだけでも奇跡なんだよ。お前がいなかったら、あいつは今ごろ闇の種族として生きていたはずさ」
「……あなたの言う通りかも知れませんね」
口ではそう言いながらも、ボリスはやや不満そうである。この男は、巨体に似合わず心配症なのだ。ニコライの知る限り、ボリス以上に強い者はいない。また、ボリス以上に知識のある者もいない。
だが、知識が豊富なだけに、様々な可能性を考えてしまう。結果、不安の方を強く感じてしまう……もともとの性格もあるのかもしれないが。
「ボリス、人生なんて博打みたいなもんさ。しょせん、なるようにしかならないよ。俺たちはただ、ちょっとした手助けをするだけさ」