ニコライ、仕事する
その奇妙な店は、街の片隅にてひっそりと経営していた。
ゴーダムは、高い城壁に囲まれた都市である。城壁の本来の役割は、外敵を防ぐというものだろう。
しかし、ここの塀には別の役割もある。ゴーダムの住人なら誰しもが分かっていることだが、中にいる危険な者を隔離するという役割をも担っているのだ。
そう、このゴーダムは監獄都市なる異名すら持つ危険な街である。平和な地区では、一応の治安が保たれていた。しかし、そこを一歩外れれば……ひときれのパンのために人を殺すような者がうようよしている。
そんな街の外れに『渡し屋ニコライ』なる看板を掲げた店がある。入り口には、奇怪な石像が置かれていた。背中から翼の生えたゴリラといった感じの、奇妙な怪物の石像である。
石像の隣に設置されたガラスケースには、おかしな物が並べられている。怪物の仮面、明らかに作り物の猿の手、木の杭と木槌などなど……端から見れば、怪しげな品を売る店にしか見えない。
そんな店の中には、常に笑みを絶やさない若者が座っている。年齢は十代後半から二十代前半だろうか。髪は金色で肌は白く、整った顔立ちは浮世離れした雰囲気を醸し出している。細身の体に白いシャツとベストを着て蝶ネクタイを締めた格好は、どこかの貴族の子息のようだ。
そんな彼の名はニコライ。嬉しくて仕方ないとでも言いたげな様子で、にこやかな表情を浮かべて椅子に座っている。
もっとも、ニコライのそばには、とてつもなく恐ろしい者が控えている。単なる好奇心で店に入り込んだ者は、彼の姿を見ると同時に逃げ出してしまうのが普通なのだが。
・・・
ある日、一人の少女が店の前に立っていた。まだ幼く、顔は汚れている。あまり清潔な環境にいないのだろうか……髪には得体の知れない汚れがこびりつき、服もぼろぼろである。もっとも、ゴーダムの下層地区においては珍しくない光景ではあるが。
少女は、思い詰めた表情で店のドアノブを握る。少しの間があったが、少女はドアを開けた。
少女は店の中に入り、恐る恐る中を見回す。中は意外と広い。掃除が行き届いており、床にはゴミ一つ落ちていない。
室内には、何に使うか分からない小道具がガラスケースに入れられ、所狭しと並べられている。古い巻物や、銀製の護符などなど。かと思うと、部屋の片隅には棺桶が立て掛けられている。
そして入口のそばには、異様な者が立っていた。
身長は二メートルほどだろうか。おとぎ話に登場する人食い鬼のように大きな体をしている。腕は丸太のように太く、体の厚みは巨岩を連想させる。そんな巨大な体に、黒いジャケットを着て黒いズボンを履いていた。
体の大きさからして、充分すぎるくらいの威圧感なのであるが……何より異様なのは、その顔である。顔面全体に渡り、縦横斜めにギザギザの傷痕が付いていた。しかも、皮膚の色があちこち異なっているのだ。白、黒、黄色……異なる人種の皮膚を集めてきて無理やり張り合わせ、顔の形にしたようにも見える。
少女は、その大男を見た瞬間に表情を歪め後ずさっていく。だが、大男の方は少女を完全に無視している。少女には目もくれずに、開いた扉をじろりと見た。
その時、店の奥から声がした。
「そこの君、俺に用があって来たんだろ?」
その声に、少女は慌ててそちらを向く。
白いシャツを着た小柄な青年が、にこにこしながら立っていた。小柄といっても、少女よりは大きいが。
「あ、あなたがニコライさん?」
少女の言葉に、ニコライは頷いた。
「うん、そうだよ。あ、この大きいおじさんはボリスていうんだ。顔はおっかないけど、悪い奴じゃないから気にしないで」
ニコライがそう言ったとたん、ボリスと呼ばれた大男は彼の方を向いた。傷だらけの顔に困ったような表情を浮かべ、口を開いた。
「またですか」
低く、しっかりした発音である。顔の醜さや体つきからは想像もつかない、落ち着いた知的な口調だ。
「うん、まただよ」
ニコライが言ったとたん、ボリスはハアとため息を吐いた。
「分かりました。では、行ってらっしゃいませ」
「ああ、店番よろしく。どうせ、客なんか来やしないだろうけどさ」
少女の手を握り、店を出たニコライ。彼は立ち止まると、少女ににっこり微笑んだ。
「ねえ、君は何て名前?」
「ダ、ダイアン」
おずおずとした態度で少女は答える。
「ダイアン、か。ねえ、君は何がしたいの?」
笑顔で尋ねるニコライに、ダイアンは困ったような表情になった。
その様子を見たニコライは、腰に手を当て胸を張り、勇ましい表情をして見せる。
「こらこら、遠慮なんかしなくていいんだよ。さあ、お兄さんに何でも言ってごらん」
胸を張るニコライを、ダイアンはじっと見つめる。ややあって、口を開いた。
「あの……友だちに、最後のお別れが言いたいの。どうすれば、友だちと話せるようになるの?」
「えっ……」
ニコライの表情が歪んだ。しかし、ダイアンはなおも訴える。
「ねえ、お願い。友だちと話せるようにして」
「ごめん、それは無理なんだよ。いくら俺でも、それだけは出来ない」
ニコライはそう言うと、哀れみのこもった目でダイアンを見つめる。
「君は、もう死んでいるんだ。普通の人では、君の姿を見ることも話をすることも出来ないんだからね」
ニコライの言葉を聞いたダイアンは、下を向き黙りこんだ。表情が一気に暗くなる。
「そ、そうだよね。あたしは、もう死んでるんだよね。誰とも、話せないんだよね……あんた以外の人とは……」
言いながら、うつむくダイアン。ニコライはやるせない表情を浮かべ、じっと彼を見つめた。
ニコライの元には、こういった者が訪れることがある。何らかの事情で命を失い、肉体と魂が切り離され、それでも冥界に旅立てず迷う者たちが彼を訪ねて来るのだ。
そんな時、ニコライは彼らに付き合うことにしている。ニコライには、彼らの姿が見える。それだけではなく、彼らと会話し、彼らと触れ合うことも出来るのだ。
ニコライは生と死の狭間にいる彼らが、心おきなくこの世界を去ることが出来るように、様々な形での手助けしている。もっとも、そのことを知っている生者はごく僅かだが。
「あたし、友だちのアルと遊ぶ約束をしてたんだ。でも、急にこんなことになっちゃって……だから、アルに謝りたかった。そして、お別れも言いたいの。今まで、ありがとうって……でも、無理なんだよね」
そう言って、ダイアンは微笑んだ。もっとも、その瞳は悲しみを隠せていないが。
ニコライは複雑な表情で、彼女を見つめた。
「だったら、こういうのはどうかな……君が言いたかったことを、俺がアルに伝える。それでどうだい?」
「わ、分かった。それでいいよ」
二人は、住宅が立ち並ぶ一角に到着した。
ニコライは、ポケットから懐中時計を取り出し見てみた。そろそろ三時になる。もう、学校から帰ってくる頃だろう。
その時、ダイアンが彼をつついた。
「あ、あそこにいる」
ニコライが顔を上げると、一人の少年が向こうから歩いて来た。赤い髪と大きな目の、いかにも活発そうな男の子だ。
ニコライは、片手を挙げた。
「やあ、君はアルだろ?」
にこやかな表情で尋ねたが、アルは不審そうな様子だ。もっとも、この街では仕方ない話だが。ニコライは苦笑した。
「あのね、俺の名はニコライ。実はね、ダイアンから君に伝言を頼まれたんだ」
「えっ、ダイアンから!」
アルの表情が一変した。不審の色は消え、まじまじとニコライを見つめる。
「うん。実はね……ダイアンは、お金持ちのドドメコフ男爵に養女としてもらわれて行ったんだよ」
「ほ、本当に?」
アルの顔に、複雑な表情が浮かんでいる。恐らく、様々な想いが去来しているのであろう。
「あいつ、幸せになったんだよね。こんな汚い街から出ていけたんだから。金持ちの養女になれるなんて、いいことだよ」
アルはぽつりと、呟くように言った。
「でも、もう会えないんだろうね。金持ちは、この街の人を嫌ってるから……あいつは、違う世界の人になっちゃったんだな」
顔に似合わぬ大人びた言葉を口にしたアルに、ニコライは優しく微笑んだ。少年の言葉は間違いではない。ダイアンは今から、違う世界へと旅立とうとしているのだ。
二人は、この世では二度と会えない。
「あのね、ダイアンはこう言ってたよ……約束を破ってごめんなさい、って。あと、こうも言ってたよ。今までありがとう、君のことは絶対に忘れない……ってね」
そう言うと、ニコライはダイアンの方をちらりと見た。ダイアンは、じっとアルを見つめている。その目には、涙が溢れていた。
もっとも、アルの目には見えていないのだが……。
「俺、やっはりダイアンと会いたいな。あいつに、ずっと言えなかったこともあるし……」
ためらいがちな様子で呟いたアル。ニコライは一瞬、言葉につまった。しかし、すぐに笑顔で答える。
「うん。いつかは、また会える日が来るさ」
「わかった……おじさん、ありがとね!」
そう言うと、アルは嬉しそうに駆けて行く。ニコライは苦笑した。
「おいおい、おじさんはやめてくれよ。俺、まだ二十歳だよ」
呟くように言いながら、ニコライはちらりとダイアンを見た。
ダイアンは、駆けて行くアルの後ろ姿をじっと見つめている。流れる涙を、拭おうともせずに。
「あれで良かったのかい? 最後に、君の気持ちを伝えなくて良かったの?」
ニコライの問いに、ダイアンは無言のまま首を振った。
胸が潰れそうな思いを感じ、ニコライはうつむく。この仕事の何よりもきつい所は、自身が無力であることを思い知らされる時だ。
ちょうど、今のように。
二人は黙ったまま、じっとその場に立っていた。ややあって、ダイアンが意を決したような表情で、ニコライの顔を見上げる。
「ニコライ……あたし、もう行くよ。色々ありがとう。最期にあんたに会えて、本当によかった。もっと早く、あんたに会いたかったな……出来れば、生きているうちに」
そう言って、ダイアンは寂しげな笑みを浮かべた。ニコライは、優しい表情で頷く。
「うん、そろそろ旅立った方がいいかもしれないね。その状態で長く居ると、ろくなことにならないから。しまいには自分が誰かも忘れ、この世とあの世の狭間をさ迷い続けることになるかもしれないよ。そんな奴を、俺はたくさん見てきたからね」
そう言うと、ニコライは右手を差し出した。
ダイアンは、その手を見つめる。
「ニコライ、この後、あたしはどうなるのかな。どんな所に行くのかな……」
ダイアンの声は、か細く震えている。そんな彼に向かい、ニコライは微笑んで見せた。
「それは、俺にもわからない。ただ、どんな人間も必ず死ぬ。これに関する限り、一人の例外もないはずだよ。俺もいつかは死ぬ。それにね、死んだ後、どうなるかなんて誰にもわからないんだよ。だからさ、いっそのこと、何が待っているんだろう? ぐらいの気持ちで行くといいんじゃないかな」
その言葉を聞いたダイアンは、くすりと笑う。
「あんた、やっぱり適当な人だね。でも、気分が楽になったよ。ありがとう」
そう言うと、ダイアンはニコライの手を強く握った。いつの間にか、彼女の体の震えが止まっている。
そして、手を離した。
「ニコライ……本当に、ありがとう」
「ちょっと待って」
言いながら、ニコライはダイアンの肩を掴んだ。その顔には、先ほどまでとは違う表情が浮かんでいる。
「本当に、それだけでいいの? 他に、して欲しいことはないのかい?」
「えっ……」
ダイアンは、じっとニコライの顔を見上げた。
「もう一度聞くよ。君は、他にして欲しいことはないのかい? もう、思い残すことはないのかい? 俺に出来ることは、これだけなの?」
その問いに、ダイアンは下を向く。小さな体を震わせながら、必死の形相で口を開いた。
「あたしは、誰のことも恨んでないよ……」
「終わりましたか?」
ニコライが店に戻ると、ボリスが尋ねてきた。だが、ニコライは首を横に振る。
「あの子は渡ったよ。けど、この件はまだ終わっていない。どうしても確かめなきゃならないことがある。ボリス、店を閉めたら、ちょっと付き合ってくれ」
「……分かりました」