ミーナ、逃走する
店の扉が開いた。
ボリスが顔を上げると、黒い服を着た男が入って来るのが見えた。すらりとした体型で、目鼻立ちの整った若者である。腰からは、細身の刀剣をぶら下げていた。
この青年が誰なのか、ボリスは知っている。トライブの幹部、ビリーだ。彼は椅子から立ち上がり、軽く会釈した。もっとも、内心では歓迎していない。ビリーが店に来る時、それはトラブルの前触れである。
「ニコライさんはいますか?」
ビリーは、にこやかな表情で聞いてきた。だが、目は笑っていない。ボリスに対する、恐れと嫌悪の入り混じった感情が目に出ている。ボリスは堅い表情で頷いた。
「奥にいますよ。今、呼んで来ます。少々お待ちください」
しばらくして、店の奥からニコライが現れた。
「ようビリー、何しに来たんだ?」
軽い口調で聞いたが、ビリーはにこりともしない。
「単刀直入に言いますが、このところ我々の縄張りで、首を引きちぎられた死体が見つかりました。それも、立て続けに五人です」
「なるほど、そりゃあ大変ですな」
おどけた口調のニコライに、ビリーは眉をひそめる。
「ええ、本当に大変ですよ。我々にも面子がありますからね。何か、情報はありませんか?」
「いやあ、ないな。だいたい、その話自体が初耳だよ」
「そうですか。では、何か分かったら知らせてください。あと、もうひとつあります。最近、おかしな薬が出回っているんですよ」
「おかしな薬? なんだいそりゃあ?」
首を傾げるニコライを、ビリーは冷たい目で見つめた。
「これなんですが、ちょっと見てもらいたいのです」
そう言うと、ビリーは懐から折りたたまれた小さな紙片を取り出した。ニコライの前で、紙片を開いて見せる。
中には、ひとつまみの白い粉が入っていた。
「これです。キューブと呼ばれているそうですがね、邪眼草とはまた違った効果があるようです。調べておいてください。何か分かったら、僕に教えていただけると助かります」
「いいよ」
ニコライは即答したが、ボリスは渋い表情だ。トライブのために仕事をするのは、気が進まないのだろう。
だが、こちらの事情などお構いなしにビリーは語り続ける。
「最後に、もうひとつだけ。うちにいたアンクルという男が、しばらく前から行方不明になっています。何か、心当たりはありますか?」
ビリーの言葉に、ニコライは肩をすくめた。
「さあ、知らないな。まあ、どうせろくでもない奴なんだろ? 消えたところで、トライブには何の影響もないだろうし」
軽い口調のニコライに、ビリーは眉をひそめる。
「確かに、消えたところで大した影響のない男であることは間違いないです。しかし、アンクルがろくでもない奴だということを、なぜ知っているのです?」
「何となく、そんな気がしてね」
「何となく、ですか」
ビリーは、鋭い視線を向けてきた。だが、ニコライはすました表情で受け止める。ビリーは口元を歪め、言葉を続けた。
「これは、仮の話ですがね……もしも、トライブのメンバーに何かあった場合、我々としても動かざるを得ないのですよ。メンバーが、どんな人間であったとしても。時と場合によっては、相手に僕が制裁を加えることもあります」
言いながら、ビリーは刀の柄を軽く叩いた。
「そうかい、あんたも大変だな。ちなみに、これも仮の話だが……そのメンバーが、年端も行かぬ女の子を犯すクズ野郎だったとしても、やっぱりあんたは動くのか?」
「もちろんです。我々は、トライブなんですよ。トライブのメンバーは皆、血を分けた兄弟であり家族です。あなたは、自分の家族を傷つけられて黙っていられますか?」
静かな口調で語るビリー。その目には、不退転の意思があった。ニコライは目を逸らし、口元を歪める。
「なるほどね。あんたらの事情は分かったよ」
「僕も、アンクルという男の悪評については耳にしていました。個人的には、あんな男のために指一本であろうと動かしたくはありません。しかし、組織の問題となれば話は別です。アンクルの件は、行方不明ということで終わらせます。が、今後また同じようなことが起きたら、僕は……いや、トライブは相手を制裁します。しないといけないのですよ」
言った後、ビリーは軽く会釈した。そして向きを変え、店を出て行った。
ビリーが立ち去った後、ニコライは苦笑しながらボリスの方を向いた。
「やれやれ、もうバレちまったか。まあ、仕方ないけどな。いつかはバレるだろうし」
「やれやれ、なんて言っている場合ですか? このままだと、いずれはトライブとやり合うことになるかもしれませんよ」
「うーん、そうなったら逃げるしかないな。さすがに、奴らを相手にしたくない」
・・・
ジムは怯えていた。
最初のうちは、自らの巨大な力に酔っていた。今まで自分に暴力を振るってきた者たちを、思いのまま蹂躙する……これまで、想像の中だけでしかなしえなかったことを、現実に行っている。ジムは、憎しみのままに相手を叩きのめし、首を引きちぎった。
だが最近になって、おかしな点に気づく。近頃、眠ってもいないのに意識が消えるのだ。
最初は、ほんの数分ほどだった。気がつくと、見覚えのない場所にいる。そこまで、どうやって来たのかわからない。歩いた記憶もない。
いったい、何が起きたのだろう。疑問を感じつつも、さほど気にも留めていなかった。それよりも、手に入れた力を振るうのが先だ。ジムは、あちこちで暴れ回った。
だが、日が経つにつれて、記憶をなくす頻度が増えていく。さらに、時間も長くなっていく。気がつくと日が暮れていたり、とんでもない場所にいたりした。
そして今日、意識が戻った時……目の前で、父と母が倒れていた。
手足が引きちぎれ、首がねじ曲げられた死体となって──
ジムは、ただただ呆然となっていた。彼は今まで、自分をいじめていた少年たちを、片っ端から死体に変えていた。いわば、連続殺人鬼のような存在である。だが、彼の中では違う思いがあった。
これまで殺してきた少年たちは、無抵抗の自分を散々いたぶってきた。だからこそ、その報いを受けた……その思いが、ジムから罪悪感を覆い隠していた。
しかし、両親が死んだとなると話が別だ。両親は、何も悪いことはしていない。それなのに、なぜ死ななくてはならないのか。
いや、それ以前に……。
僕が、やったのか?
彼には、そんなことをした覚えはない。だが、ここ最近は記憶が無くなることが多いのだ。見たこともない場所で、ハッと我に返る……そんなことも、頻繁に起きている。
記憶が失われている空白の時間帯に、両親を殺してしまったのだろうか?
そんな……。
ジムは頭を抱え、その場にしゃがみ込む。
しばらくして、彼は立ち上がった。ふらふらと外に出る。
既に辺りは暗くなっていた。このゴーダムでは、暗くなってから外を出歩いていたら、どのような目に遭わされても文句は言えない。はめている指輪を奪うため、手首を切断するような輩が徘徊しているくらいだ。ジムのような少年がうろうろしていたら、たちどころに殺されて身ぐるみ剥がれてしまう。あるいは、殺されてから食われるか。
それでも、あんな家にはいたくなかった。両親の無惨な死体が転がっているような家には。
夢遊病患者のように、ふらふらとジムは歩き続けた。
いつの間に現れたのか、ジムの背後から二人の男が後を付いていく。どちらも若く、顔は蒼白い。瞳は紅く光っており、口に長く鋭い犬歯が生えていた。
「おい、そこのガキ」
片方の男が、声をかけてきた。だが、ジムは無視して歩き続ける。今や、ジムの体にまではっきりした変化が訪れていた。手のひらに、奇妙な亀裂が生じている。さらに、手の皮膚がぼろぼろ剥がれ落ちていた。
その下からは、黒い地肌が表れている。爬虫類のような皮膚だ。
男たちも、さすがにおかしいと気づいたらしい。顔を見合わせた。
「あいつ、ちょっとおかしくねえか?」
ひとりが囁いた。その直後、ジムは立ち止まる。彼の体に、はっきりとした異変が生じていた。
二人のバンパイア……その目の前で、少年の体は変貌を遂げた──
・・・
「な、なんだよこいつ……」
ミーナは、思わず呟いていた。
先ほどまでは、確かにバンパイアの気を感じていた。だから、その気を辿ってここまで来たのだ。
しかし今、目の前にいるのはバンパイアではない。
身長は、二メートルを軽く超えている。渡し屋のボリスよりも、遥かに大きい。肌は黒く、爬虫類のそれのような見た目だ。手足は異常に長く筋肉質であり、指には鋭い鉤爪が生えている。頭には毛が一本も無く、後頭部が長い異様な形だ。瞳は黒く、大きく裂けた口には鮫のように鋭い牙がびっしり生えている。
その足元には、大量の灰が散らばっていた。どうやら、この怪物がバンパイアを仕留めたらしい
「チッ、面倒そうな奴だね」
ミーナは、短剣を抜いて後ずさっていく。こいつは、かなり手ごわい……彼女のバンパイアの勘が、そう告げている。まともに殺り合ったら、ミーナといえど苦戦するのは間違いないだろう。
それ以前に、バンパイアでもない者との戦いに命を懸ける気はないのだが。
ミーナは、ちらりと横道を見た。奴は、図体はでかい。だが、その図体ゆえに入れる場所は限られている。だからこそ、路地裏に入り込めば逃げられるだろう……確信は持てないが。
突然、不気味な音が響く。目の前にいる怪物が鳴いたのだ。威嚇しているのか、あるいは何かを訴えているのか。どこか悲しげな雰囲気の声だ……。
もっとも、怪物の事情などミーナの知ったことではない。彼女は、怪物めがけ短剣を投げつけた。だが、怪物は簡単に払いのける──
直後、ミーナは横に飛んだ。地面を転がり、横道に入り込み、建物の隙間に身を隠す。姿勢を低くし息を潜め、じっと外の様子を窺う。
しばらくして、ミーナは立ち上がった。どうやら、怪物は去ったらしい。あれは、いったい何だったのだろう。
「全く、なんて日だろうね……」
ミーナは周囲に気を配りながら、慎重にその場を離れた。




