ニコライ、策を考える
ボリスが本を読んでいると、店の扉が開く。
入って来たのはニコライだ。しかし、その表情は暗い。帰って来るなり、店の椅子にどっかと腰掛けた。
「いや、これはまいったね」
先ほど来た少女の名はイート。幼い頃に両親を亡くしたが、運よく知り合いの戦士に拾われた。だが先日、死者の仲間入りをする……。
そんなイートには、友だちがいた。常に傍にいてくれて、彼女の話し相手になってくれた者。
「それが、犬の人形らしいんだ」
「人形? 人形が話し相手だったのですか?」
「ああ。しかも、向こうからも話しかけてきたらしいんだよ。少なくとも、本人はそう言ってるし、そう信じきっている」
ニコライは、どうしたもんかな、という表情でボリスを見つめる。
「悪霊の仕業でしょうか?」
「いや。あいつらは、そんなやり方はしないと思う。悪霊は基本的に、生きた人間に取り憑いて悪さをするからな。人形に取り憑くってのは、聞いたことないよ」
その言葉を聞き、ボリスは難しい表情で語り出す。
「これは、幼い子供に有りがちな現象らしいのですが……時として、現実に存在しない、架空の友達を作り出してしまうケースがあるそうです」
「架空の友達? それは、人形遊びとは違うのか?」
「いえ、違います。人形遊びは、当人が現実でないことを理解しつつ遊んでいます。しかし、これの場合は当人が現実だと信じているのです。幻覚のようなものですが、それだけに厄介な問題です」
「そっかぁ」
ニコライは、ため息を吐いた。ややあって、渋い顔つきで口を開く。
「実はさ、イートの最後の願いってのが、その人形ともう一度会うことなんだよ。あっちの世界に行く前に、最後のお別れがしたいんだってさ」
「それは困りましたね」
「ああ。本人は、現実にいたと信じているわけだからな。空想が生み出した喋る人形と彼女を、どうやって会わせればいいのか……これは、難問だよ」
「そうなると、取れる手段はふたつ。彼女に真実を告げるか、彼女を騙すか。どちらにします?」
ボリスの問いに、ニコライは笑いながら首を振った。
「おいおい、騙すなんて言い方が悪いな。子供の夢を壊さないまま、あの世に送ってやるだけさ」
「しかし、結果として騙すことには変わりありません。あなたは、そちらを選ぶのですね?」
ボリスの口調は、いつになく厳しいものだった。ニコライは、思わず首を傾げる。
「おいおい、どうしたんだよ?」
「私は、人を騙すのは好きではありません。人を騙すと、とても悲しいです。自分が最低の存在であるような、そんな嫌な気分になります」
言いながら、ボリスは俯いた。傷だらけの恐ろしい顔に、複雑な表情が浮かんでいる。
「お前、考えすぎだって……嘘も、つき通せば真実に見えるから。そんなことよりも、イートとロッコをどうやって会わせるかが一番やっかいな問題だよ」
「ロッコ?」
「ああ、人形の名前さ。ロッコは、イートのただひとりの親友だった。だからさ、会わせてやりたい」
ニコライは、しんみりとした口調で語った。
「そのロッコという人形は、今どこに?」
「ない」
「はい? ないのですか?」
「ああ。親代わりの人間に無理やり取り上げられ、手足を引きちぎられて、地下道にゴミと一緒に捨てられたんだとさ」
ニコライは、静かな口調で語った。だが、瞳の奥には不気味な光がある。その表情を見たボリスは、いたたまれない気分になった。何と哀れな少女なのだろう。幼くして両親を失い、たったひとりの親友を奪われ、さらに生きることすら許されないとは。
「あなたは、どうするつもりなのです? ロッコという人形がないとなると、どうやってイートを騙すのですか?」
「どうしたもんかなあ」
翌日、イートが店に現れた。不安そうな表情で、おずおずと店に入って来る。ニコライは少女の姿を見て、笑みを浮かべる。
「やあ、イート。君のロッコだけどね、見つかったよ」
「ほ、本当に?」
イートの表情が一変した。ニコライは、優しい表情で頷く。
「ああ、本当だよ。俺に付いてきな」
そういうと、ニコライは外に出ていった。イートは、その後を付いて行く。
「えっ、これが……」
イートは、呆然とした表情で呟く。だが、それも当然だった。
少女の前には、奇妙な生き物がいる。全身を灰色の毛で覆われた、二足歩行の犬……いや、狼だ。顔は狼そのものであり、手足の形状は人間に近いが、鋭い鉤のような爪が生えていた。体はさほど大きくはないが、その爪や牙から醸し出される野性は、見る者に脅威として伝わってくる。普通の人間ならば、会っただけで腰を抜かしてしまうだろう。
そんな恐ろしい生物が、ひとけのない路地裏でのほほんとした様子で突っ立っている……。
「イート、君のロッコは死んだんだ。だけどね、強い狼男として生まれ変わったんだよ。もう、誰も彼を傷つけたりなんか出来ない」
ニコライはイートに、重苦しい口調で語った。さらに、狼男の方を向く。
「そうだろ、ロッコ?」
すると、ロッコことジェイクはウンウンと頷く。その仕草は、どこか滑稽であった。ジェイクのとぼけた雰囲気が、この姿でも出てしまっている。果たして、これでごまかせるだろうか……ニコライは、引き攣った表情でイートを見た。
しかし、イートは違う印象を持ったらしい。そんなジェイクを見つめたまま、静かに語り出す。
「あたしね、ロッコがいてくれて、本当によかった。つらいことも悲しいことも、ロッコのおかげで我慢できたんだよ。だけど、あの時……」
そこで、イートは下を向いた。その口から、嗚咽が洩れる。
見ているニコライは、胸が潰れるような思いを感じていた。この仕事で、一番つらいこと……それは、己が無力であることを知らされる時だ。こればかりは、何度体験しようと慣れることが出来ない。だが、彼は冷静な表情を保ち、ジェイクに彼女の言葉を伝える。
「あたし、ロッコを守れなかった。ロッコを、助けられなかった。いつも、ロッコに助けてもらってたのに、怖くて何も出来なかった……ごめんね、ロッコ」
イートは、その場に泣き崩れていた。ニコライは自身の感情を必死で押さえ込み、少女の言葉をジェイクに伝える。だが、その顔が歪む。
いつのまにか、ジェイクの目からも涙がこぼれていたのだ。無論、ジェイクはイートの姿を見ることは出来ないし、声も聞こえない。だが、場に漂う空気から、少女の気持ちを察したのだろう。普段は空気を読まないくせに、こういう時に限り妙に敏感なのだ。
ニコライは、思わず唇を噛んだ。ジェイクにはあらかじめ事情を説明し、一言も口をきくなと言ってある。もし、この場でジェイクがベラベラ喋り出したら、ボロが出る恐れがある。いや……それどころか、感極まったジェイクは本当のことを喋りかねない。ニコライは内心焦りながも、平静な表情を作り成り行きを見守る。
その時、イートが立ち上がった。涙に濡れた目で、ジェイクを見上げる。
「ロッコ、あたし、もう行くよ。ロッコが生まれ変われたんだから、あたしも生まれ変わる。生まれ変わっても、ロッコのこと絶対に忘れないから……今まで、本当にありがとう」
そう言うと、少女は涙を拭いた。ジェイクに背中を向け、ゆっくりと歩き出した。
ニコライは、少女の後を付いて行こうとした。が、その動きが止まる。ジェイクが突然、上を向いたのだ。
次の瞬間、狼の遠吠えが周囲に響き渡る。その咆哮は恐ろしいものであったが、奥底にあるものは悲しみであった。ニコライが、これまで聞いたことのないものだ……ジェイクの鎮魂歌は、その辺り一帯に住む人々の心に、深く染み入っていった。
イートもまた、その鎮魂歌を聞いていたはずだった。だが、足を止めなかった。少女は小さな体を震わせ、唇を噛み締めながらも懸命に前に進んで行く。
自分のいるべき世界に旅立つために。
その後ろ姿を、ニコライはじっと見つめていた。死者の旅立つ姿を見届けることもまた、渡し守の仕事だ……少なくとも、ニコライはそう思っている。
「ジェイク、いい加減にしろよ」
呆れた口調で、ニコライは言った。彼の前では、ジェイクが子供のように泣きじゃくっている。今の彼は狼男の姿ではなく、人間の姿だ……つまり、ジェイクは全裸である。
全裸の青年が、ひとけのない路地裏で地べたにしゃがみこみ泣き続けている……これは、誰が見ても異様な光景だろう。
「なあダチ公、その子はちゃんと逝けたのかよう」
ジェイクが、泣きながら聞いてきた。ニコライは、しんみりした表情になって頷いた。
「ああ。イートは、強い子だったよ。しっかりと歩いて、旅立っていったぜ。見事なものだったよ」
「すっごく小さな子供なんだよな? なのに、死ななきゃならないなんて、本当に哀れな話だよ。ああ、また悲しまれてきたよう」
ジェイクは、また泣きだした。ニコライは、苦笑しながら彼の肩を叩く。
「悲しまれてきた、って、どこの言葉だよ……なあ、いい加減泣きやんでくれよ。というか、とりあえず服着てくれ。他人が見たら、俺たち変態かと思われるぜ」
「だけどよう、悲しいじゃんか。小さな女の子が、たったひとりの人形の友だちにお別れを言いに来るなんてよう……俺が死んだら、必ずお前に会いに来るからな」
「いや、大丈夫だから。お前は、俺たちの中で一番長生きするよ。だいたい、お前にはフィオナがいるだろうが。フィオナひとり置いて逝かれても困るぜ」
「ああ、それもそうだな。よし、頑張って生きないと」
言いながら、ジェイクは立ち上がった。涙を手で拭い、ニコライを見つめる。
「なあダチ公、そのロッコの手足を引きちぎって捨てた奴だけどな、どこに住んでるんだよ? そいつ、二三発殴ってやらないと気が済まないぜ」
「大丈夫、そっちの件は俺がやるから。それより、今日は本当に助かったよ。これで、フィオナと美味いものでも食ってくれ」
ニコライは、一枚の金貨をポケットから出した。ジェイクの手に握らせる。
すると、ジェイクの目が丸くなる。
「えっ、いいのか? これ、もらっていいのか?」
「もちろんだよ」
「ありがとな、ダチ公!」
先ほどまで泣きじゃくっていたのが嘘のように、ジェイクは上機嫌で歩いていく……裸のままで。ニコライは、慌てて彼の腕を掴んだ。
「頼むから、服着てくれよ……」




