ゼノヴィオルの手紙 ①
その少女がふらりとやって来たのはアルブスを夕焼けが赤く染め上げるころだった。使用人が門の前でもじもじしている彼女を見つけ、偶然通りかかったベアトリスが、うろうろされても困るから用件を聞いて追い返せと命じた。――が、彼女の用件というものを聞いた使用人は執務室でいつになくうとうとしていたセオフィラスのところへ慌ただしく駆け込んだ。
「坊ちゃん、坊ちゃん、大変ですよ!」
「うわっ……え、えっ? 何?」
いきなり入ってきて揺すり起こされたセオフィラスは慌てて起きて、その拍子に羽根ペンを落としかけた。
「ゼノお坊ちゃんからのお手紙が……!」
「……ゼノから?」
「お、王都からわざわざお手紙を持ってきたっていうお客さんがいらっしゃって……」
手紙を持ってきたという少女はセオフィラスより少し年が下というほどだった。元々は高貴な身分の令嬢だったのか、身につけている衣服は飾りが多かった。しかしたった1人で従者も連れず、それも徒歩でアルブスまで歩いてきたらしく薄汚れていた。談話室にそのまま通しても部屋が汚れてしまうので、使用人のすすめで彼女は入浴をした。湯を上がってから用意された着替えに袖を通して、少女は改めて談話室に案内されてきて、そこでセオフィラスと対面をした。
セオフィラスとゼノヴィオルの文通は一方的だった。最初に2、3通だけ返事があったが、それからぱたりと途絶えてしまっていたのだ。それでもセオフィラスはこまめに手紙を書き続けていたのだが、もうずっと返事はなかった。
だからこそ、ゼノヴィオルからの手紙を持ってきたという報せにセオフィラスは驚いた。加えてその手紙をもたらしたのが、どう考えても怪しい少女なので余計に話を聞いてから訝しんだ。
「セオフィラス・アドリオンです」
入浴して旅の汚れを落とした少女は、セオフィラスに挨拶されて少年の全身を眺めた。それから同じく手紙が届けられたと聞いて談話室に姿を現したベアトリスも見る。値踏みをするような、不躾とも取れる少女の眼差しにベアトリスは僅かに顔をしかめる。
「こちらはわたしの後見人のベアトリス・クラウゼン先生です。あなたのお名前は?」
「……モニカよ。モニカ・オリオル」
「オリオル伯爵のお嬢さんが、一体どうして1人でゼノヴィオルの手紙を持ってくることになったのかしら」
少女が名乗ってすぐ、ベアトリスが棘のある口調で疑問を投げかける。しかしモニカはつんとそっぽを向いて答えようとはしなかった。しかし持ってきていた荷物から、くしゃくしゃによれてしまった手紙を取り出してセオフィラスへ差し出す。
「これがゼノヴィオルからの手紙」
「ありがとう」
手紙を受け取りつつ、セオフィラスもモニカが気になって彼女の表情を見る。
栗色の髪をした、顔立ちはかわいらしい女の子だ。しかしアイスブルーの瞳は冷たく、態度も普通の女の子らしい柔らかさがない。むしろベアトリスやタルモに近いような雰囲気だった。単に勝気なだけなのか、それとも髣髴としてしまう女性陣のように彼女もまた秀でたものがあるか、それはまだはかれない。
とにかくセオフィラスは手紙の封を切った。談話室には他にガラシモスも控えている。この中年執事もゼノヴィオルのことは気にかけていたし、部屋の外では扉越しにゼノヴィオルの近況が分かるかも知れないと使用人が詰めかけて耳をそばだてている。
しばらくセオフィラスは手紙を読み耽った。
便箋で10枚以上もあったが、どうやらそれはこれまで書くだけ書いて出せなかった手紙を複数通まとめたもののようでもあった。
おかしな手紙で、どれもこれも最後まで書き切られずに途中で終わっては次の手紙に移っている。
しかし最後の手紙を見て、セオフィラスは胸が騒ぐのを感じた。
お兄様へ
王都グライアズローの生活には随分と馴れた気がします。エミリオと暮らしているアパルトマンは狭いけれど落ち着きます。
朝は早めに起きて師匠に餞別としてもらった稽古のメニューに従ってトレーニングをします。でもまだ最初の5行ほどしか進んではいません。野山を息が切れて、もう動けないというところまで走ってから、さらにそれと同じ量だけ続けて走るようにと書いてあります。でも王都ではできないので、アパルトマンの階段をずっと駆けあがって、駆け下りることにしています。最初は足が痛くて1日か2日休みを入れてからでしかできませんでした。けれど今は毎日、朝の日課としてやっています。アパルトマンの住人が起きてからやると迷惑になるので、まだ誰も起きていない時間にだけやっています。
これが終わってから朝の食事をします。市場が出た時に買ってきたものを料理します。僕が作ることが多いけれどエミリオの食べものの好き嫌いが多いから、たまにエミリオが作ります。卵料理はエミリオは上手だけどそればかり作るので、5日に1度くらいしか作ってはもらいません。食べるものはパンと、豆のスープが基本です。モグラドリの1羽でもいてくれればと思うと、アルブスが懐かしく思います。モグラドリの身を焼いたものを軽くグリルしたパンと野菜で挟んで食べられたら、どんなに嬉しいだろうって考えます。
朝食の後、最近、通うことになった学園に行きます。学園では同じ年頃の子ども達が通っています。貴族がほとんどですが、賢さを買われて貴族や大商人の援助を受けて通うような子もいます。貴族や、そういう子でなくともお金をたくさん持った商人の子息も通っています。詩や修辞学、歴史や、法律、天文学、高度な算術の他、商学も学ぶことができます。僕は歴史、法律、算術、商学を教わっています。とても難しい内容ですが、やりがいがあって勉強は楽しくもあります。学友も幾人かできました。モニカという女の子とは僕の学んでいる学問の4つとも同じで、学園にいる間はずっと一緒に過ごしているような間柄です。最初は少し怖い印象のある女の子でしたが本当はやさしくて、ちょっと照れ屋さんだけどとても努力家な、尊敬できる人です。この前、モニカと算術の勝負をしたことがありました。お互いに問題を1問ずつ出し合って、答えを出せなかった方が負けというルールです。とても熱中してしまって、お互いに問題を出して、解いている間にほぼ丸一日が過ぎてしまっていました。
モニカにだけは、エミリオも紹介しました。2人はちょっと馬が合わないようでしたが、隣にいてくれるだけでお兄様やレクサや、師匠や、先生、屋敷の皆と会えないさみしさを紛らわせてくれる大切な友達です。
王都での日々は楽しくて、
僕は、もう、逃げたい。
嫌だ。
でも、僕が逃げたらアドリオンが、お兄様が、今度は標的にされてしまうから
帰りたい。帰りたい。帰りたい。帰りたい。帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい………………
「何この、手紙……」
最後の便箋の、終わりの方は乱雑に書き綴られていた。何かの液体で文字がところどころ滲んだりもしているし、他のものよりずっとしわがついている。一度、この便箋が丸められたかのようなものだった。他の手紙にも色々な近況が書かれていたが、最後の便箋を読んだ途端、それらが全て偽りの生活のはずだと確信さえ持ってしまった。
「――これはゼノが、出せなかった手紙よ」
モニカの言葉でセオフィラスが顔を上げる。
「出すつもりもなかったんでしょうけど……」
「どういうこと?」
「あんたこそどういうつもりなの?」
キツい視線で睨まれてセオフィラスは少女を見つめ返した。
「ゼノをあんな目に遭わせたのは、あんたなんでしょ? だったら何で、何も理解できていないのよ? あいつはどうして、あんたみたいのを庇ってるの?」
「……っ」
「あいつの気弱なやさしさにつけこんでるんなら、絶対に容赦しない。この場で、殺してやる……!」
憎しみに満ちた瞳を向けられ、セオフィラスは奥歯を噛みしめた。
分かっているつもりだった。だが本当の意味では理解できていなかったことを、改めて突きつけられた。ゼノヴィオルは生贄として王都へ残されたのだと、そして、今も必死になって堪えているのだろうという実感が初めてセオフィラスの中に芽生えた。




