アルブスの春 ③
「ふぅ~……。春はこれだからなあ……」
鍬を肩へ担ぎながら、ヤコブがぐっと背を伸ばした。まだ雪は残っているがまた農作物作りの始まりの季節となっている。屋敷でセオフィラスにあれこれと雑用を任されるのが仕事であると彼は胸を張るが、農家の息子である。まだ両親とも動けるものの、力のいる仕事では手伝わざるをえずに駆り出される。朝早くに起き出して、吐く息が白い内に凍った畑へ鍬を振り下ろしては耕していくのが日課となりつつある。
日が昇って、街並みに人の活気が出てきたころにヤコブは畑から家へと帰る。アルブスの都市化によって元々の住民も畑や家を別の場所へ移すようになってしまった。ヤコブとカタリナの家も同じで、今ではアルブスの壁の外にしか畑が作れなくなったので家もその畑のそば――つまりは都を守る防壁の外である。
軽く汗をかきながらヤコブはのんびり畑から家に歩いていき、ふとその途中できょろきょろと周囲を見ながら足を止めているヨエルを見つけた。
「おーい、何してんだー? もよおしたんならその辺でしちまえばいいんだぞー?」
「っ……ヤコブさん、いいところに」
「あれ、お前……何だ、その格好? それに朝早くからこんなとこに」
普段の平服と打って変わり、ヨエルは刺繍まで入った上品なシャツを着て髪の毛まで油で固めていた。元々、顔は良い男だ。アルブスの都の年頃の娘達は遠目に見るだけでも、その日は良いことがあるなんてジンクスを生み出してキャッキャとしているほどの。しかしやりすぎの感が強く、ヤコブは胡散臭そうにじろじろと恰好を見てしまう。
「カタリナ殿から聞いてないのか……?」
「カタリナ?」
「セオフィラスに今日は休みをもらってるはずで、俺は……その、彼女と約束があって」
「あいつと約束ぅ? ……まさかお前、とうとう? そうか、そうか。よし、今日から俺を義理の兄と思っていいぞ? あいつがとっとと結婚しないから俺にも結婚しろだのとうるさくてなあ……。とりあえず孫の1人もいれば俺への愚痴は少なくなるてもんだし。んで、何でこんなとこに突っ立ってるんだ?」
馴れ馴れしくヤコブがヨエルの肩を抱き寄せる。迷惑そうにヨエルは顔を離した。
「迎えに行こうかと思って……」
「ほうほう、それで?」
「でも何です、この景色は?」
「景色ったって……」
少し眉を寄せてヤコブはもう見慣れた畑ばかりの土地を眺める。ぽつぽつと家があり、近くの農業用の用水路がちょろちょろと横切っている。何とも長閑で、朝なので澄んだ心地良さもある。
「どこがカタリナ殿のお家か、まったく分からない……」
「ああ、そういうことか……? いや、前はな、農家同士でまとまって家も建ててたんだが坊ちゃんが都市化と一緒に畑と家とセットで、しかも無償で用意してくれてな。買い物なんかでいちいち、壁の中へ入らなきゃいけなくて不便をかけるけどってな。うちはあそこな」
「……そうですか」
ヤコブを置き去りにヨエルが襟を直して颯爽と歩き出す。
「おうおう、待てって」
「あ、もう大丈夫ですよ?」
「大丈夫って何がだ。俺も帰るんだってえの」
慌ててヤコブはヨエルに追いついて歩く。
「ったく、坊ちゃんに気に入られてるからってあんまり調子には乗るなよ? カートにしろ、お前にしろ、ぽっと出のくせに――」
「調子に乗るも何も、世の中、有能な人間が出世するものでしょう」
「む……」
「俺もカートにはイラっとくることはあるけど……」
「俺はお前ほどカートにはイラっとこないな」
「あの小僧、少し賢いからって防衛隊の金の使い方にいちいち口を挟んで……。やれ財政が云々、ってすぐに言いだす」
「そう。そうなんだよ。……しかもな、俺、あいつに数字とか教わってるから余計に頭が上がらねえの」
「あいつって執事のはずだよな? セオフィラスが何かと仕事を手伝わせてるけど執事の仕事じゃないだろうに……」
「生意気なんだよなあ。そりゃ、ちょぉーっと腕も立つようだし? 坊ちゃんとも年が近いから何となく気が通じ合うようになれるってのも理解はできるんだが……」
「実際、セオフィラスみたいに英才教育を受けたわけでもないのに役に立ててるところは認められる。認めはするけど……」
「たまの生意気がめっちゃ腹立つ」
「そう」
共通の敵について男達は話し、そうする間に家へつく。数年前に建てられた小屋は新しく頑丈で、やや広めに作られている。それまでこの家族が暮らしていた家よりはよほど豪華だったが、大人ばかりの家族4人でも少し広すぎるというものだった。
「朝飯、食ってくか?」
「いや、大丈夫」
「お前ってちょっと人付き合いが悪くねえ?」
「よく言われます。それで?」
ヨエルの切り返しに閉口してヤコブは何も言えなくなり、それから鍬を家の脇の農具置きへ戻した。
「ま、いいやな、別に……。おーい、カタリナー、客だぞ。ちょっと待ってろ、ヨエル」
「十分、この日を待ちました」
「それは、皆が知ってる……。まあがんばれ、ヨエル。お前もそろそろ結婚しなきゃだもんな」
ぽんとヨエルの肩を叩いてからヤコブは家へ入っていく。ヨエルは土の汚れが少しついたところを手で叩いて払った。そうして待っていると、何でか家の中から兄妹が少し言い合うような声が聞こえてくる。何をしているのかと戸口から覗きかけ、それを我慢してヨエルは待つ。――と、カタリナがそっと出てきた。
「すみません、お待たせさせて。……ただ、こんなに早くいらっしゃるとは思ってもいなかったので」
「こ、こちらこそっ、昨日の晩からずっと浮足だってしまって、自分でも思っていた以上に早く出かけてきてしまいました……。そんなことより、あの……き、今日はいつにもまして、お綺麗ですね……」
古着を直したという服をカタリナは着ていた。それに帽子もかぶっていて、いつも屋敷で働いている格好とは違っているのがヨエルには新鮮だった。
「……正直、ちょっと気乗りしていません」
「えっ、そんな……」
「でもそれはヨエルさんが嫌だとか、そういう問題ではないんです」
「って言うと……?」
「セオフィラス坊ちゃんや、レクサお嬢様のお顔を見ないと、何か困ったことになっていないかと不安になるんです。生まれたころからずっと面倒を見させていただいていたので」
「そ、それなら今日は、セオフィラスのことなんて忘れるくらい楽しみましょう。入念に策は練ってありますから、早く出発しましょう」
カタリナを引っ張るようにしてヨエルが去っていき、ヤコブがそっと戸口からそれを見送った。彼の後ろへ両親も張りつくようにして戸口に顔を出す。
「あの娘、ちゃんとお婿さんをもらえるかしら……?」
「どうだろうなあ、カタリナだし」
「じゃお前はどうなんだ、ヤコブ?」
「……さあーて、坊ちゃんとこにカタリナの分まで働きに行くかなっと」
体よく逃げ出してヤコブは出ていく。
ヤコブは26歳、カタリナは25歳である。早く結婚を、と期待されてしまう年頃であるが、それにしては兄妹とも特別に親しい異性の影がなくて周囲に心配されているのだった。
武器庫の手入れは2日目である。結婚の催促から逃げ出すように今日も屋敷へやって来たヤコブは預かっている鍵で武器庫の扉を開ける。昨日の内に中身はそっくり運び出して、今日から本格的に武器庫の改修をする予定である。
カートに提示された改修費と、大工に頼んでどれほどかかるかという金額とにそこそこの開きがあった。予算が足りないという結果だった。そこでヤコブは、建物そのものの修理を大工に頼み、あとの棚作りやらを自分でやってしまおうと考えた。
「さあって、やりますかっと」
屋敷にある大工道具を持ち出し、ヤコブが袖をまくり上げる。
それから昨日の内に用意しておいた資材を使って大工仕事を始めた。だんだんと調子を出して、トンテンカンと金槌を打っていたら朝の修行からセオフィラスが帰ってきた。ジョルディを牛舎に戻したところでヤコブの大工仕事の音を聞きつけたので、いつものように井戸で水を浴びて上裸のままに歩いてきたのだ。
「おはよ、ヤコブくん。何してるの?」
「おはよっす、坊ちゃん。いやね、武器庫の修理なんですが、どうも予算じゃ足りないようで……」
「足りなかった? カートにギリギリの線でって言っておいたんだけど……」
「ギリギリ、足りないんすよねえ……」
「じゃあ、しょうがないから追加で……」
「ああいや、それには及ばないってもんですよ。そのために俺がこうして働いてるわけで。壁とか、建物自体に手え加えるのは素人の俺じゃ心もとないですが、棚やら何やらは大工に頼むまでもないでしょう? だから俺がやっちゃえば、金もかからないですよ。あ、木材は金かかっちゃいますけどね」
「ヤコブくん、意外と手先も器用だしね。これとか、上手にできてる」
「坊ちゃん、それちょっと端っこを切っただけ……」
詰まれていた板を1枚持ち上げ眺めたセオフィラスはヤコブの言葉で動きを止める。それから咳払いをし、板きれを元に戻す。
「で、でもさ、ヤコブくんがやってくれるならその方がいい」
「そうでしょ? ま、大工の仕事も立派なもんだけども、何もかも頼っちゃうよりな」
「それもあるけど、お金がかからないのが助かるかなって」
「金っすか?」
「……あんまり、金、金って言いたくはないんだけどね。でも実際、お金って大事でさ。単なる数字のくせに何もかも、こいつに振り回されて……。1ローツも無駄にできないからさ、ヤコブくんが協力して節約してくれるのありがたいよ。ありがと」
「いやあ、坊ちゃんにお礼を言われるほどじゃあ……」
照れながらもセオフィラスに褒められるのが嬉しく、照れ隠しにヤコブは金槌を振り、自分の指を叩いた。
「――ぬぐおっ!? くぅぅ~っ……」
「ヤコブくん!? か、カタリナっ、カタリナ―っ!?」
「カタリナは今日、デート……」
「そうだった! ガラシモスー!」
幸いにも大した怪我でなかったが、セオフィラスの前で醜態をさらしたことをヤコブは恥じて落ち込んだ。




