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アドリオンの黒狼王  作者: 田中一義
少年期4 兆候
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アルブスの春 ②


「あ、あのっ、カタリナ殿っ!」


 若い声へ呼び止められたカタリナは洗濯物を干す手を止めた。視線の先にはヨエルがいて、いつになく髪を分けて撫でつけ、よれている襟を直しながら背筋を伸ばしている。カタリナには少し赤い顔に見えた。


「……はい? 何ですか、ヨエルさん?」

「お花が、綺麗な季節に、なりましたね」

「……まだ、雪が残ってますが」

「え、あっ……」


 足元の踏みしめられた雪に気づいてヨエルが足を上げる。カタリナはシーツを物干し竿にかけていく。籠から洗って絞ったシーツを取り出し、広げてから物干し竿にかけていくという地味な仕事である。ヨエルはまた声をかけるタイミングを失い、しかしすぐにハッとした。


「て、手伝いますよ」

「いえ、大丈夫ですので」

「遠慮せずに――」

「失礼ですが、ヨエルさんの手が、少し汚れているようですので。お洗濯ものには」

「えっ……ああ、すみません」

「……何か、わたしにご用でもありますか?」

「ああ、その……お花が咲いたら、ご、ご一緒に見に行きませんか? 2人で」


 防衛隊の事務係――本業は戦士――であるヨエルの片思いはアルブスのほぼ全ての者が知ることになっている。何度も何度もヨエルはアタックするのだが、カタリナは一度もそのお誘いに応じることがなかった。


「……折角のお誘いは嬉しいのですが、何分、仕事があるものですから」


 いつもならこの一言でヨエルは撃沈して引き下がる――の、だが、この日のヨエルは違っていた。


『なぁんだ、ヨエル。またあの名物メイドにデートのお申込みか?』

『どうして気にされる必要があるんだ?』

『いや、一体、何連敗するかって賭けをしててな。だから砕ける度に報告してくれよ』

『なっ……そんな不本意な、賭けの対象に!? というか、砕けない!』

『いくら賭けるんだよ?』

『え……だっ、だったら手持ちの金全部ッ! 140ローツだ!』


 そんな防衛隊屯所でのやりとりがあり、意地のようにヨエルには退けなかったのだ。賭けをした相手は不良隊長という不名誉な渾名を袈裟に着て傍若無人に振る舞うヤフヤー隊長と、弓だけは当てられるのに人の気は知らぬ存ぜぬを突き通すペトルである。

 負ければプライドだけではなく金まで失うが、勝てば良かろう精神でヨエルは攻勢に出ることにした。


「カタリナさん!」

「はい?」

「……休みなく働くなんて、人のすることじゃありません」

「ではわたしや坊ちゃんやベアトリス様は人ではないのですね」

「そ、そういうことではなくっ! いえ、仮にそうだとしてもっ、あなたは若くてその……き、綺麗な人ですから……」

「はい? すみません、風が強くて」

「いやともかくっ、1日くらいは休まないといつか体を壊してしまいますから、もしセオフィラスが許さないんなら俺が談判します。自分のためじゃなくて、倒れてしまってセオフィラスに迷惑をかけないという、そういう観点から見て、どうかお休みを取って俺と……!」


 自分の服で手をごしごし擦ってからヨエルは次のシーツを出そうとしたカタリナの両手を掴む。


「……お願いします」

「ですが……わたしの一存では」

「カートですか。あの生意気小僧ですか。俺がガツンと言いますから」

「いえ、そういう問題では……」

「どうかっ、後生と思って!」

「…………で、では、前向きに検討は、します」

「絶対です。お願いしますっ! お、お返事は……夕方にまた、聞きにきますので!」


 パッと笑みを浮かべ、綺麗な白い歯を見せてからヨエルは颯爽とスキップするように去っていく。ふとカタリナが視線を感じて首を巡らせると、井戸のそばで半裸のセオフィラスが見ていた。またジョルディと戯れていたのだろうとはカタリナにはすぐ察することができる。その時間でレクサと過ごしてあげれば少しは彼女も不満を溜めないだろうにとも思っている。水をばしゃっと被ってからセオフィラスが体を拭きつつカタリナの方へ歩いてくる。


「カタリナ、ヨエルのこと嫌いなの?」

「いえ、嫌いでは」

「でもいつも断ってるでしょ? 何か、今日のヨエルは振られたのにうきうきだったみたいだけど」

「……お休みを取るべきだと言われまして」

「お休み? …………そう言えばカタリナ、俺が生まれてから、お休みの日ってあった?」

「なかったかと」

「休んでよ? ガラシモスだって適当に休んでるし、カートもけっこうちゃっかりサボってることあるし」

「しかし、朝だけお休みとか、早めにお暇させていただくなど、そういうお休みはいただいていますから」

「1日丸ごとは?」

「……坊ちゃんがお生まれになってからは」

「休んでよ?」


 いつの間にか目線が同じになっているものだなとセオフィラスに言われながらカタリナは気がついた。もうこれほど大きくなったのかと不思議な感慨がわいてくる。年々、逞しく変わっていくセオフィラスの体とて、過ぎた年月をカタリナに思い起こさせた。クッキリと腹筋は割れて、腕も引き締まっている。だがまだ少年らしい体毛の薄さで、大人にはなっていないのだなと彼女は観察する。


「な、何、カタリナ? じろじろ見ないでよ……」

「今さら何も恥ずかしがることはないかと」

「あるよ」

「生まれた時から坊ちゃんの全てを見て、お世話しているのですから、いいんですよ」

「良くないの。はあ……とにかくもう、カタリナはお休みして。もうヨエルに言っちゃうから、直接。いい?」

「坊ちゃんがそう仰るのでしたら。……けれどどうして、そこまで気にされるんです?」

「え? ……だって皆、カタリナはこのままじゃ結婚できなくなっちゃうって言ってるし。ヨエルって防衛隊にしては珍しくしっかりしてる方だよ? 年下は嫌なの?」

「……いえ、特にそういう男性の好みというのは。もちろん、セオ坊ちゃんやゼノ坊ちゃんは好きですけれど」

「そういうんじゃなくて……いいや、もう」


 何かを諦めてセオフィラスは屋敷に戻っていく。カタリナは洗濯物干しに戻ろうとしてから、ふと自分の手を見た。ヨエルに握られた手をじっと見つめる。そうして水仕事で荒れている手を見る。指の腹の皮は薄く剥がれ、ところどころ(あかぎれ)もある。こんな手を嬉しそうに握る男もいるのだなと珍しがるように思ってからカタリナは仕事へ戻った。



 1日の仕事を終え、帰る前にカタリナはガラシモスに呼ばれた。すでに色々と話は伝わっているようでもあった。


「明日はヨエルさんと逢引きがあるからお休みを取らせるようにと坊ちゃんに言付かったのですが……とうとうなびかれたので?」

「違います」

「……そうでしたか。何はともあれ、若い男女は時に過ちを犯してしまいがちですから――」

「そういうことは坊ちゃんにこそ必要では?」

「……そうなんです、分かりますか、カタリナ。ああ、坊ちゃん、近頃はエクトル様がいらっしゃる度にこそこそと2人で逢引きに次ぐ逢引きばかり……。間違いが起きていなければ良いのですが……。確かに坊ちゃんはお若いですし、興味を強く持たれてしかるべき年頃だとは思いますが、どう注意をして良いものやら……。許嫁とは言えまだきちんと結婚をしたわけでもないのに……」

「では失礼しますね」


 悩みの尽きない老執事を置き去りにするようにカタリナは屋敷を出て家へと帰る。ジョルディロードのなだらかになっている下り坂を歩いていくと、不意に一軒の仕立て屋が目についた。少し前のことを考えれば服は村の中で融通しあって、穴が空けば繕ってずっと使うものだ。しかしアルブスの都市化が進むにつれてお金さえあれば新しいものだろうとも買うことができるようになった。


「あら、カタリナちゃん。お買い物かい?」


 何となく開け放たれているドアから仕立て屋を眺めていたら、そこの女将がひょっこり顔を出して戸口に立った。


「いえ……わたしには似合いませんから」

「そんなことないよ。あんた、昔はお転婆だったけどお屋敷で奉公するようになってから、すっかりお嬢様みたいになっちまって」

「おばさんも、今は仕立て屋さんなんて素敵です」

「坊ちゃんがね、針仕事が上手なんだからやっちゃあどうだって勧めてくれたんだよ。そんなこと言っても古いもんを直すばっかりだけど、もういらないっていうのももらって、直して売るのさ。そうだ、カタリナちゃんも見ておいでよ。ほら、入った入った」


 強引に引っ張られて入ると、すぐに女将は色々と服を持ってきてカタリナを着せ替え人形にした。されるがままだと永遠に終わりそうにないと踏んで、彼女は一着だけ古着を直したというものを買った。

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