ベアトリス、襲来 ①
ロロット・クラウゼンは38歳の淑女だ。彼女には3人の子どもがいる。
長女のベアトリスは20歳。一度は嫁いだのだが、ものの10日で出戻ってきて、自分が母の後を継いでクラウゼンの領主になると宣言をした。クラウゼンの血を濃く引く女性である。
長男のサイモスは14歳。クラウゼンの男子は情けない――などという言葉がクラウゼン領内では普通に使われるのだが、その例に漏れない少年である。彼は卑屈だった。
二女のエクトルは7歳である。彼女の祖母――先代領主が若かりしころのミナスに惚れ込んでいたのだが、結ばれることはなかった。そこに端を発し、紆余曲折を経て産まれる前からアドリオンの長男と結婚をすると決められていた少女だ。
アストラ歴438年の春。
ベアトリス・クラウゼンは母の執務室に呼ばれた。
「お話とは何です、お母様?」
ベアトリスはブロンドヘアを縦に巻いて二つに結わえている美しい女性である。言葉遣いも仕草も貞淑な女性に見えるのだが、その中身は10日で嫁ぎ先から出戻ってきた女だ。
「今朝、アドリオンのヤコブという若者が手紙を持ってきました。
領主代行をしている、亡きミナス・アドリオンの妻オルガからの手紙です」
クラウゼン領主のロロットもまた、娘と同じ金髪の持ち主である。
豊かな髪の毛を長く伸ばし、品の良い髪留めで背中に流している。
「アドリオン……? 白髭豚野郎――こほんっ、ユーグランド卿に無謀な突撃を命じられた、哀れな領主の?」
「心に思っていても口に出してはいけませんよ、ベアトリス。あなたの正直なところは素敵だけれどね」
「すみません、お母様。心底嫌いなものでして」
にこやかな笑みを浮かべながら母娘はそんな言葉を交わした。
それからロロットはオルガがしたためた手紙を広げて机に置き、ベアトリスに差し出すようにした。娘は机に歩み寄って手紙を取ると、その文面に目を通していく。
「……なるほど。手紙の内容については理解いたしました。
それでお母様、わたしへの話というのはこの件と関係がございますのでしょう?」
「もちろんです。ベアトリス……アドリオンがどのような状況なのかをあなたの目で見てきていただけるかしら? 確かエクトルと、アドリオンのお坊ちゃんは同い年だったけれど、どんな子かは分からないものだし。没落が見え隠れするところへ嫁がせるなんて嫌ですものね」
「ええ、分かりますわ。けれど……援助はどうされますの? 手紙からはひしひしと必死さが伝わってきますわ。手ぶらで見にいくだけだなんて、胸が痛みます」
「胸を痛める必要などありませんのよ」
「それはどういう……?」
「だって、あなたの目に適うならばあなたが手ずからアドリオンを再建すればいいんですもの」
会話が一旦途切れる。
それから、花が咲くかのようにベアトリスは綺麗にほほえむ。
「うふふっ、お母様ってばご冗談がまた上手になったのですね。
そういうお茶目なところ、わたし大好きよ。けれど冗談は時と場合を考えなければいけないのではなくって?」
「まあ、ベアトリスったら……。うふふ、冗談に聞こえたの? 本気で言っているのよ?」
「天丼にしてもしつこすぎますわよ?」
「あなたも物分かりが悪くなったのかしら? まだまだ若いのに、それでは先が思いやられそうだわ」
にこやかながら、少しずつ2人の口調には棘が混じり始めていた。
「……なぁーんで、わたくしがそんなド田舎に行かなければなりませんこと!?」
バンッと机を叩いてベアトリスが本性を露にする。
しかしロロットはただ浮かべているだけのほほえみを絶やさなかった。
「あら? あなたはわたしの後を継ぐのでしょう?
それなら、アドリオン程度の領地をどうにかできなくてどうするのかしら?
あの土地よりも、クラウゼンの方がよっぽど複雑で大変だというのに考えもせずに投げ出してしまうの?」
バチッと交わった視線から火花が弾ける。
しばらくベアトリスはロロットを睨みつけていたが、チッと舌打ちをしてから腰に手をあてがった。
「分かりましたわ、お母様! だったらもう将来は決まったも同然ですわね」
「あら、どういうことかしら? 何か思いついたの?」
「アドリオン程度、このわたくしが立て直すどころか、最上の領地にして見せますわ! そうすればアドリオンはもうクラウゼンに頭が上がらなくなってエクトルが嫁いでから言いなりも同然! お母様がご隠居なされたらわたくしがクラウゼンとアドリオンというボッシュリードの西を支配する新たな女王になるのです! どう、素敵でしょう?」
「あらあら……それは素晴らしいわね。期待しているわ、ベアトリス。――あなたにその器があるかどうか、についてもね」
「ええ。どうぞ、ごゆるりと刮目していらしてくださいまし。それではご機嫌よう。すぐにでもアドリオンへ発ちますが、ご挨拶はもうよろしくてね?」
「もちろんよ。行ってらっしゃい、ベアトリス」
半刻も経たぬ内にベアトリスは荷物をまとめ、後から送らせる家具も選別をしてクラウゼンの屋敷を出る。ぞろぞろと大勢を引き連れていくのは彼女の趣味ではなかったので、屋敷に待たされていたヤコブだけをおともに引き連れてアドリオンへ向かうのだった。
「あっ、おかあさん!」
「おかあさんっ」
森でのアトスの稽古を終えて帰ってきたセオフィラスとゼノヴィオルは屋敷の庭に母の姿を見つけて走り寄っていった。
「おかえりなさい、セオ。ゼノも」
「ただいまっ!」
「ただいま、おかあさま」
テラスにティーセットが出され、花壇を眺めながらオルガは静かに過ごしていた。
子ども達は今日の稽古――もとい遊びについて楽しそうにオルガに喋り始める。足の裏を使ってはいけない鬼ごっこ――というのが今日の遊びだった。木から木へ、腕でぶら下がったり、膝を曲げて枝に体を引っかけるなどをして落ちないように追いかけたり、追いかけられたりするという遊びだった。足の裏を使ってはいけないので地面を歩くのはもちろんのこと、木の枝に立つという行為も禁止という過酷なものなのだが、段階を踏んできたこともあって2人ともすっかり順応して楽しんできた。
「お体はよろしいのですか?」
セオフィラス達に遅れてアトスもオルガへ近づいてきて声をかけた。
「ええ。今日は何だか調子が良いの。2人とも泥んこね。体を洗っていらっしゃい。カタリナに2人の分のお茶も用意してくれるようにお願いしておくから」
「うん。いくぞ、ゼノ」
「はーい」
パタパタと2人が屋敷に走っていく。それを見届けてから、アトスはちらとオルガを見た。すると彼女の方も目だけをアトスへ向けており、視線が合う。
「…………何か、ご心配なことでもあるのですか?」
「あら……。分かってしまうのですね」
「いえ、何となくそう思っただけのことですから。政には疎い身ですが、話を聞く程度ならわたしにもできます。……もし、不安を抱えていらっしゃるのなら、わたしなどで良ければおうかがいしても?」
「ありがとう。お言葉に甘えますわ」
やわらかくオルガがほほえみ、アトスもにこやかな笑みを返した。
「クラウゼンという領主にお手紙を書いて、援助をお願いしました。クラウゼンはセオフィラスの婚約者のお家ですから、何か力になってくれるかも知れないと思いまして」
「ほほう、セオくんにはフィアンセがいらっしゃったのですか。それはそれは……」
「けれど、ガラシモスが言うにはクラウゼンは……その、野心が強いそうなのよ。もし、セオの代になって、このことで頭が上がらなくなってしまったらと思うと……。これじゃ本末転倒で、意味のないことを……いいえ、むしろ、セオに不幸を押しつけようとしているんじゃないかって……」
悩ましく俯いたオルガは不安に押し潰されるかのようにどんどんと表情を曇らせていく。
「わたしは政については門外漢ではありますが……」
困り顔をしながらも笑みは絶やさずにアトスが口を開く。オルガが顔を上げたので、またやさしくにっこりとほほえみかけながらアトスは続けた。
「いかなることも後手に回る方が不利である……とわたしは考えています。もし、そのクラウゼンという方が、言わばアドリオンの乗っ取り――支配とでも言ってしまいましょうか。これを考えているのであろうと思われるのであれば、そうできないための手をあらかじめ打つ他ないのではないでしょうか」
「あらかじめ? ……どんな方法がいいのかしら? もし、それで相手方が援助する気になってくれていたのに手を引こうなんて考えてしまったら?」
「門外漢なのでこれが最適でしょうとは申し上げられませんが……そうですねえ。まずはビビらせること、が有効なのでしょうか?」
「ビビら……せる?」
「ええ。人間、未体験のことには少なからず感情を揺り動かされてしまうものです。上に物を投げてしまえば必ず落ちるはずなのに、これが落ちてこなかったらビックリしてしまうでしょう? それと同じようなことです。そして、そこにはつけいる隙が生じ、活路が開かれる。いえ……これは、さすがに少し関係がなかったでしょうかね?」
「いいえ、いいえっ、そんなことはないわ。アトスさん、あなたはとっても聡明な方なのね。目から鱗が落ちたような心地よ。もっと、何か……何か、これはっていうお話はないのかしら?」
ようやくオルガの表情が晴れやかになりかけてアトスはほほえんだ。
「ちなまぐさいわたしの言葉などに何かを見出せるなら、喜んで披露しましょう」
その翌夕にベアトリス・クラウゼンがアドリオンの屋敷へ現れた。
案内をしてきたヤコブは疲れ果てた顔で、彼女が屋敷に入ったのを見届けるなり家へ飛んで帰って泥のように眠ったという。