セオフィラスの想い ④
「――エクトルのことを、幸せにできないと思うから、婚約を解消できないかな」
長い、長い、沈黙が続く。
風が奏でる葉っぱの擦れる音だけが微かに2人の時間はきちんと動いているのだと伝えている。
「っ……ほ、本気じゃ、ありませんでした」
弁解をするように、ようやくエクトルが口を開く。震える声で、彼女はセオフィラスの服を掴んで、必死に訴え始める。
「手紙に書いたのは、本気じゃありませんっ。ただ心配で、セオフィラス様がご自分のことを追い詰めるように、怖いお顔でずっと政務ばかりに取り組んでおられたからっ……息抜きもきっと必要だって、そう思って、書いただけのことなんですっ。嫌……嫌ですわ、セオフィラス様っ、だってわたくし、セオフィラス様のことが好きです。だから……怒ってしまわれたんなら、ごめんなさい、ごめんなさいっ、謝りますから、許してください」
泣き出しそうになるのを必死に堪えながらエクトルはそう言ってセオフィラスに縋りつく。少年は彼女の肩をそっと抱いて、やさしく落ち着かせるように叩く。
「違うよ、そういうつもりじゃない。でも、本当に思うんだ。俺はエクトルをずっと、守ってあげられないかも知れない……って」
「それはどういう……?」
「きっとまた戦いはこの地にやってくるんだ。……その時、守りきれるか、自信がない。どれだけ強くなれたって、俺の留守に敵がアルブスへ来て、そこにエクトルがいたら……そう考えたら、怖いんだよ。だったらエクトルは別の人のお嫁さんになった方が、ずっと幸せになれるんじゃないかって……思う」
「そんな……。そんなの、構いませんっ。セオフィラス様が戦場に行かねばならないなら、ついて行きます。どうしても2人が離れ離れにならなくちゃいけないんなら、セオフィラス様の留守はわたくしが守りますわっ! クラウゼンの淑女は守られるだけじゃありませんものっ!」
「っ……」
お淑やかなお嬢様というばかりの印象だったエクトルの発言にセオフィラスは少なからず驚いた。きっと見つめてくる瞳には、本当に言葉通りのことをするという意思がたぎっている。
「それにっ! ……セオフィラス様は、少し臆病になってしまっているんです。森の中で、わたくしの手を引いてくださっていたあなたは勇敢で、とっても頼もしくて、絶対に負けない強い方でしたわ! だから……わたくしのことを大切に思ってくださるんなら、わたくしの理想の殿方でずっといらっしゃってください! そうしてくだされば、どんな悲劇もわたくしはめげません。セオフィラス様をずっとずっと、信じますわ。セオフィラス様もわたくしを信じてください」
眦に涙を溜めながらエクトルは言い切る。
これほどに芯の強い女とセオフィラスは分かっていなかった。だがここまで言われたのがむずむずするほど嬉しいような、恥ずかしいような、情けないような気がしてきて己の愚かさに呆れさえ込み上げる。
「大人になったら、セオフィラス様の子どもを産みます。
子どもが大きくなったら、セオフィラス様に毎日、お茶を淹れます。
おじいちゃんとおばあちゃんになったら、こうしてピクニックへ出かけましょう?
大変なことがあっても、わたくしはセオフィラス様のことを信じますから、あなたもわたくしを信じてください。
きっときっと、どんなにセオフィラス様が打ちひしがれてしまってもわたくしが支えますから……一緒になりたくないなんて、仰らないでください」
「……え、エクトル……」
「セオフィラス様っ!」
「な、に……?」
「お返事を!」
「……っ……うん。二度と、言わない。改めて、エクトル、俺のお嫁さんになってくれますか?」
「……はいっ、もちろんですわ」
花がふっくら咲くように、あるいはお日様にほころぶように、エクトルは笑顔をこぼしてセオフィラスにしがみついた。座ったままセオフィラスは押し倒され、両手で彼女を抱きしめる。触れ合っていると互いの体温や、息遣いがよく分かった。
そうしていると自分の鼓動がいつもよりずっと速く、強くなっている。エクトルにも伝わっているのだろうかと恥ずかしさを感じたら、エクトルの鼓動も同じように高鳴っているのが分かって、やっぱり気持ちは一緒なのだとセオフィラスは悟った。
「エクトル……」
「セオフィラス様……」
顔だけを一旦話した2人は、相手の目を見つめ合ってから照れ臭そうに、しかし静かな決意を確かめるように口づけを交わした。恐る恐る触れ合った唇。離れてまた目を見つめ合ってくすくすと笑い合い、またキスをする。長い、呼吸さえ苦しくなるほどのキスをするとエクトルはセオフィラスの胸へ顔をうずめて小さな声を出した。
「…………お姉様や、お母様に知られたら……はしたないって、叱られてしまいますわ」
「じゃあ――」
恥じらうエクトルがこの上なくセオフィラスは可愛らしく感じられた。抱き合ったまま今度はセオフィラスが上になるようにごろりと転がる。
「せ、セオフィラス様……?」
「2人だけの秘密にしよう。叱られたって知るもんか」
また熱いキスをして、2人は互いの愛を確かめ合った。
随分と遅く帰ってきたセオフィラスとエクトルの出迎えを終えて、カタリナはほうっと胸を撫で下ろした。帰ってきたセオフィラスの顔からは、ここ数日ずっと張りついていた影が消えていた。何かすっきりしたような、柔らかい表情でエクトルと手を繋ぎながらの帰宅だった。
「何だか、エクトルお嬢様に坊ちゃんを取られてしまったみたいで……少し寂しい気もします」
「子どもは気づいたら大きくなってしまうものですから。カタリナとて、この屋敷で手伝いを始めたころに比べれば立派に成長したものです」
「ガラシモスさんは老けてしまいましたね」
「……あのぅ、そういう老けたという文句は最近、屋敷で流行っていたりするのでしょうか?」
「ふふ、まさか」
短くガラシモスと話をしてからカタリナはこの日は早めに帰宅をした。アルブスの都市整備に合わせて家は建て替えられてしまって、屋敷からは少し離れてしまっていたが新しく耕した畑は以前よりも広くなっている。家では彼女の両親はすでに眠っていたが、ヤコブが庭で素振りをしていた。
「おう、今帰ったのか、カタリナ」
「うん。……兄ちゃんは素振り?」
「防衛隊なんてのができて、自警団は形無しだよなあ……。どいつもこいつも、俺より腕が立ちそうだし」
「お屋敷のお料理の残り、もらってきたけど食べる?」
「おお、いいな。肴にする、俺は。食べようぜ」
汗を拭くヤコブとともに家へ入り、カタリナは食卓に食べ物を並べた。ヤコブは酒を持ち出してきて、盃にそれを注ぎ入れる。
「んで、坊ちゃんの様子、どうだ?」
「今日はエクトルお嬢様とお出かけになって、帰ってきたらつきものが落ちたみたいになってた」
「そっか、そりゃあ良かった。はあ……ちょっち怖かったんだよなあ、坊ちゃんが。ここんところさ。ピリピリしてるっつーか」
「うん……。そうね」
もぐもぐと2人は食べ、たまにヤコブは酒を飲んだ。そうして静かに過ごしているとヤコブが、あっと何か思い出したように口を開く。
「そうそう、カタリナ。お前、ヨエルってどう思う?」
「……特に何とも」
「あ、そう。いや、あいつ、何かお前のこと好きっぽいぞ? どうせ、嫁の貰い手がないんだし、どうだ? 俺が間に立ってやるよ」
「はあ……。それを言うなら兄ちゃんこそ、どうなの? 早くお嫁さんをもらわないと、いつまでもお父さんもお母さんも若くないんだから」
「いやいやいや、まずはお前を嫁に出してから俺は身を固めようって――」
「余計なお世話」
「何をぅ? 可愛げのない……」
「兄ちゃんは自分のことだけでも自分でできるようになってから、他人の世話を焼いて」
チクチクと兄妹は言い合う。しかしこんな言い合いはごくごくありふれた兄妹のやり取りだった。




