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アドリオンの黒狼王  作者: 田中一義
幼少期2 ベアトリス・クラウゼン
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少年期 アストラ歴438年


 それはミナスが最後に屋敷を出ていく前夜のことだ。すでに徴兵した民の多くがアルブス村へ辿り着いていた。


 ミナスはアトスの部屋を訪ねていた。

 居候のアトスまでもを戦に連れていく気はなかったし、彼には頼みたいことがあった。しかし、アトスはどこから持ってきたのか、ライティングテーブルに剣を抜き身で置いてその手入れをしていた。



「何を……しているのだ」

「ミナス殿が戦へ出向くのであれば、わたし程度でも微力ながらお力添えができるかと思いまして。ああ、この剣は屋敷の倉庫で埃を被っていましたので拝借いたしました。少々、手入れには骨が折れそうですが使えないこともないかと」


 礼儀正しいアトスにしては珍しく、じっと剣を見つめながらさらりと答える。


「……その必要はない」

「……はて、わたしの聞き間違いでしょうか?」


 ようやくアトスが顔を向けたのでミナスは後ろ手にドアを閉めながら首を振って見せる。


「頼みたいことがあるのだ。戦に来る必要はない。あなたは元より、この地の者ではない。巻き込みたくはない」

「わたしは剣士です。人斬りの技術しか持ち合わせない、二本足で歩く獣に過ぎません」

「謙遜の上に卑下するものではない、良い若者が。それにきみを獣だと言うのであれば、我々は食肉のために潰される羊も同然であろう」

「ですが……」

「恩義を感じていると言うのであれば、それはセオフィラスに対するものであろう。

 わたしはここへきみを置く代わり、セオフィラスの師になってくれと頼み、きみはそれを受け入れた。ゆえにきみとセオフィラスの関係が持続される限りにおいては、きみはタダ飯食らいでも、穀潰しでもないのだ。恩を返したいと言うのであればセオフィラスにどうか返してやってほしい」


 アトスは食い下がるのをやめ、剣を鞘に納めた。

 それからミナスに向き合う。


「頼みというのは何でしょうか」

「わたしはきっと帰らぬだろう。ユーグランド卿はわたしと、我が領民1000人をただ殺したいだけだ」

「…………」

「それはもう決まってしまったこと。どうにもならぬ、しようのないことだ。

 だが、わたしの生が終わろうとも、残される者達の未来は閉ざされない。

 その未来を守りたいと思うのは傲慢なのだろうか。わたしはそうは思いたくないのだがな……」


 静かに聞きながらアトスはこの3日で急激に老け込んだようなミナスを見つめる。悲哀の色が瞳には浮かべられている。



「アトスよ、セオフィラスに道を示してやってほしい。

 本来、わたしが教えてやるべきであったこと全て……きみに託したい」

「わたしはあなたのような立派な領主ではありません。教えきれるかどうか」

「きみなりの方法で良いさ。

 きみのような強さを、セオフィラスに教えてやってほしいのだ」

「わたしのような、ですか……」

「きみの全てなどわたしは知らぬが、この短い期間で少しは知ったつもりだ。

 自らの力を奢ることなく、物事に聡く、泰然自若とした居振る舞いをする……。

 誰に対しても穏やかであり、何に対しても受け入れ、己を揺らがせぬ強さを、きみは確かに持っている」

「まだまだ修行中の身ではあるのですが……そう見ていただけたのならば、応えねばなりませんね」


 ミナスは一度、床に視線を落とした。

 それから顔を上げて天井の隅を眺め、またアトスを見る。


「どれほど厳しくとも良い。

 恨まれようが、憎まれようが、頼む。

 我が子をどうか……見守ってやってほしい。

 嫌われ役を押しつけるのもどうかとは思うのだが、頼みたいのだ」


 ゆっくりとアトスは頷く。


「委細、承知いたしました。

 根性が曲がれば叩き直しましょう。

 卑屈に背を曲げようとも叩き直しましょう。

 道理に背いたその日には、お天道様に顔だけ向けて土に埋めてでも正しましょう。

 わたしの弟子として、どこの誰に見せても恥ずかしくないような立派な剣士にしてみせます」

「ああ……ありがとう」

「そして――」

「……?」

「いつまでも、あなたの自慢のご子息であるとわたしが保証いたします」


 胸をつかれたようにミナスは息を詰まらせた。

 それから口元を緩め、ミナスのベッドへ腰掛ける。


「は、はは……ははは、そうか……。

 それは頼もしい。喜ばしい。いや……嬉しい、と言おうか。

 やはりきみにセオフィラスの師になってほしいと頼んで正解だった。

 これでも人を見る目はある方だと自負をしていたんだ」

「分かっております。

 わたしも、人を見る目はある方だと自負しておりますから」


 にこりとほほえんだアトスに対して、満足そうにミナスは頷いた。

 翌日にミナスは屋敷を後にし、二度と帰ることはなかった。










 アストラ歴438年に戻り――アドリオン家の領主は代行として妻のオルガが務めることとなった。

 しかしそれは単なる時間稼ぎである。次の領主に決まったセオフィラスが少しでも大人になってから後を継げるようにというはからいだった。オルガは病に犯された体で、馴れぬ執務に立ち向かった。いきなり働き盛りの男手を全て引き連れていってしまったミナスへの領民の不審感は強かったし、収穫の繁忙期に女子どもや老人しかいなかったために領内の村は大変な苦労を強いられたのだ。


 そこに徴税が重なり、長く慕われてきたアドリオン家への信頼が脆くも崩れ去った。

 そんな中で懸命になって動いたのはヤコブである。彼も徴兵の対象になるはずだったが、アドリオン家、ひいてはアドリオン領の今後を考慮したミナスがヤコブには残れと命令をしたのだ。ヤコブは屋敷から動けないオルガに代わって、各村落とアルブス村を何度も何度も往復して領民を説得しようとしたのだが、現実は芳しくないものである。1人残らず、各村から若い男を引っ張っていったにも関わらず、アルブス村にはヤコブという若者が残されている。それを贔屓だと言い放つ者もいた。


 収穫期には各村落から領主のところへ、麦や農作物が納められる。

 それを領主は国王に納めなければならない。アドリオン家も例外ではない。

 すでにしてユーグランドによってミナスが蓄えていたほとんど全てを持ち去られていたことに加え、収穫期の働き手の少なさでアドリオンは過去に類を見ないほど税を取り立てられなかった。ありのままに伝えてアドリオンからの納税を減免させてほしいなどとは到底頼み込むことはできない。もし、王の信頼厚きユーグランドが何かを吹聴していれば領主としての家格を疑われかねないのだ。最悪、没落ということになってしまう。それではセオフィラスを次期当主に決めた意味がなかった。



「奥方様、いかがされますか……? ヤコブはまた、村々を巡ってくるとは言っていましたが、それでも見込みは少ないように思われます」


 アドリオン家の執事ガラシモスは冴えない風貌の痩せた男である。

 実際、これといって有能だというようなことを語られることはない。しかしミナスが不在になっても屋敷は表面上、平穏を保てていた。それは目につきにくいガラシモスの献身があってこそだった。オルガが馴れぬ執務に頭を抱えていれば、ミナスはどのようにしていたかなどと丁寧に説明をし、助け舟を出していた。


「……手紙の返事はいただけていないのかしら」

「残念ながら、まだ……」

「そう……。そうよね……」


 領主代行を務めるようになってから、最初にオルガがやったのは手紙を書くことだった。

 それは数少ない交流のある貴族へ宛てた手紙で、二重、三重にオブラートへ包んだ窮状を伝えてどうにか援助の手立てをしてもらいたいと頼むものだ。しかし、その手紙を出させてから三月(みつき)が経とうとしても返事がない。


「もう、アドリオンだけで此度の税を納めるのは難しい……。かと言って助けてくれる誰かはいない……。一体どうすればいいのかしら……」


 途方に暮れながらオルガは立派な執務室の机でうなだれる。

 優れない顔色を見ながらガラシモスは休むようにと促そうとしたが、ふと思いついたことがあって、そちらを口にした。



「クラウゼン様には、手紙を出してはいらっしゃらなかったと記憶していますが……」

「ええ、その通りよ……。クラウゼンはオーバエルとの戦があったんですもの。アドリオンを気にかけてくれるとはとても思えないでしょう?」

「しかし、クラウゼンとは……約束がございます、奥方様」

「約束……。もしかして、セオフィラスの?」

「ええ。坊ちゃんと、クラウゼンのお嬢様の婚約です。まだまだ先のこととは考えておりましたが、娘の嫁ぎ先の窮状を知れば何か援助や、策を授けてくださるかも知れません。……しかし」

「……そうよね。あのクラウゼン……」

「はい……」


 アドリオンとクラウゼンとは山岳地帯を挟んで隣り合っている。

 数多く存在するボッシュリード国内において、クラウゼンは一目置かれている貴族だ。爵位こそ高くないが、女領主が4代も続いており、彼女達はいずれも様々な形で領地の発展に尽力をしてきた珍しい女系貴族である。


 クラウゼンの当代領主はロロットという女性なのだが、彼女の逸話はオルガも知っていた。

 女だてらに大の酒豪で一晩で一樽を飲み干したとか、商人を優遇する政策を取ることで領内では商業活動が活発化して莫大な財を溜め込んでいるとか、見目麗しい姿と裏腹に癇癪を起こして取引をしていた商人を殴り飛ばし、その腕っ節に惚れられてしまっただとか。どこまで本当か分からない話だが、少なくともそのような逸話が語られるほどの人物ではある。



「……セオ、そんなところのお嫁さんをもらっても大丈夫かしら……? 尻に敷かれたりとか……」

「お、奥方様、今はそれよりも別のところを気にされた方が……」

「あっ……そ、そうよね。とにかく、一度、頼んでみましょう。ガラシモス、手紙を書くから準備をしてちょうだい」

「ええ、ただいま。……しかし、奥方様、もう夜も随分と更けております。明日の朝にまた改めるというのは……」

「ダメよ、今でないと。明日の朝一番にこの手紙をヤコブに持たせてクラウゼンに届けさせてちょうだい。今は一刻一秒を争っている事態。そうでしょう?」

「……かしこまりました」


 恭しく一礼をしてからガラシモスは準備に取りかかる。

 そうしながら老僕はまだ家へ帰らず屋敷に残っていたカタリナを呼びつけ、香りの良いハーブティーをオルガへ用意するようにと命じた。

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