最初の喪失 ②
「晴れた朝というのは気持ちが良いものですね、セオくん」
「ねむいよ……」
「まあまあ、朝でないと吸えない空気、朝でないと見えない景色というのもあるのですよ」
夏の朝に、アトスはセオフィラスとともにアルブス村の中をのんびり散歩している。明け方前にセオフィラスを起こして散歩に連れ出していた。朝霧のかかった村内も静かに起き出そうとしていた。煙突から立ち上る薄い煙や、あちこちで鳴く雄鶏の声。
「さあ、こすってばかりいないでその目を開いてください」
「んん……」
ずっと睡魔を戦っていたセオフィラスはアトスに促され、うっすらと目を開いた。
2人は村を見渡せる小高い丘の上まで来ていた。朝露で足元は濡れている。
目に入った世界に、セオフィラスは思わず声を漏らした。
「うわあ……。くものなかみたい!」
「そうでしょう? 先日、この発見をしまして。是非ともセオくんに見せたかったんです。美しい村ですね」
「うん!」
朝靄に包まれたアルブス村は雲に沈んでいるようだった。
芝の緑と、東から白んでいく青い空。そして白い靄が幻想的に村を包み込んでいる。遠くに見える山の陰影。眠気を忘れてセオフィラスは背伸びをするように背筋をぐっと伸ばし、その景色を眺める。
「ねえししょー?」
「はい、何ですか?」
「ししょーって、どこからきたの?」
「……遠い国ですね。海の向こうから、船に乗ってきました」
「おふね? いいなー、みたことないもん」
2人は芝の上へ腰を下ろした。
最初は膝を抱えるように座っていたセオフィラスだったが、横のアトスが胡座をかいてどっしり座っているのを見て、それを真似るように足を開いた。
「ぼくね、おふねのりたい」
「そうですか。けれど船の旅は大変です」
「なにが?」
「飲み水がなくなってしまった時など、誰も彼もが死人のようにもうろうとしました。雨が降って難を逃れましたが、また水がなくなったりして……。嵐も恐ろしいものです。大海原の中で激しく船が揺れ、海に放り出されてしまえば助かりようがありません。船が転覆してしまっても同じです。その中で必死に船が転覆しないように、水夫は慌ただしく駆け回るんです。海はたくさんの恵みを与えてくれますが、同時に恐ろしいものでもあるのです」
「たいへんなんだね」
「はい。大変なんです」
「そっかあ……」
「けれど」
「……?」
「それでも船旅も悪いものではありません。美しい景色を見れます。船を降りた時、そこにどんな気色があるのだろうとわくわくします。出会いと別れを繰り返しながら船は先を目指すのです」
「……うん! やっぱりおふね、すごい」
「はい、すごいです」
取り留めのない会話をセオフィラスは楽しんだ。
やがて日が昇りきり、アトスが腰を上げた。セオフィラスも立ち上がり、屋敷への道を歩き出す。
――と。
「おや……?」
「どうしたの?」
「…………見えますか、あそこ。大勢の人が列をなして、こちらへ向かっています」
「……あ、みえた。あれってなに?」
「軍勢――でしょうか? 不穏ですね。早く屋敷へ帰りましょうか」
セオフィラスの手を引いてアトスが歩き出す。
何度も何度もセオフィラスは振り返って、行進する人々を眺めたがやがて見えなくなったので前を向いた。
アドリオンの屋敷の園庭が鋼鉄の鎧で身を固められた兵士によって埋め尽くされている。
その物々しい様子をアトスの部屋からセオフィラスは見下ろしていた。花が好きなセオフィラスの母・オルガが気に入っている花壇も踏み荒らされている。それが気に入らずにセオフィラスは仏頂面をしたが、ぽんと軽く頭に手を乗せられた。
「あんまり、そういう顔をするものではありませんよ」
「……あれってなに?」
「兵隊さんですね。どこかで戦でもあるのでしょうか……?」
「ねえししょう、つづき、よんで?」
「ええ。もちろん。セオくんも一緒にどうです?」
「いーよっ、そんなにこどもじゃないし」
「そうですか」
ゼノヴィオルにせがまれ、アトスは絵本を読み聞かせる。
それを聞きながらセオフィラスは、また頬を膨らませながら園庭を見下ろす。朝から見知らぬ人間がたくさん押し寄せてきて、偉そうに父にあれこれと命令をするのも嫌だった。
「おしっこ」
「行ってらっしゃい。まっすぐ行って、まっすぐ戻るのですよ」
部屋を出ていったセオフィラスに声をかけ、アトスは絵本の続きを読む。ゼノヴィオルは臆病だが呑気なところもあり、屋敷の中がいつもと違うにも関わらず大好きな物語に夢中になっていた。
「アドリオン卿、これでは山岳越えには足りん。もっとあるのだろう」
「そう言われましても……突然のことですし、これ以上を用意するとなれば領民から取り上げなければならなく――」
「ならば取り上げよ! 憎きオーバエルに、今こそ正義の鉄槌を下すのだぞ!? 本来ならば、我々がこのようなところまで出てくることはないというのに、アドリオンにはろくな兵力もなく、クラウゼンの兵力も尽きかけているというからわざわざこのような片田舎まで兵を率いてきたのだぞ!」
屋敷の応接間にいるのはユーグランド侯爵。
ブーツをはいたままの足をテーブルに上げ、ミナスが大事に飾っていた酒を勝手に杯にあけていた。
彼が要求をしているのは食料だった。ユーグランド侯爵が率いてきた500人分の食料他、必要な消耗品も寄越せと言っている。ユーグランドはボッシュリード王国でも指折りの名将と謳われる男だ。彼の有する私兵の練度は高く、人数こそ少ないがここぞという戦局に投入して勝利をもぎとってきた。
その勇猛さと戦歴は王からの信頼も厚く、アドリオンと隣り合っているクラウゼンの地に攻めてきたオーバエルとの戦争に加勢するよう求められたのだ。だからこそ、ユーグランドの言葉は王の言葉に匹敵をする。どれだけ偉そうに振る舞おうと、現実に偉いのだった。――本来、ミナス・アドリオンという田舎の領主が何かを言い返せるはずもないほどに。
「何もないちんけな村に、わざわざ足を運んできてやったのだ! 歓待を受けるのが普通ではあるが、今は戦が最優先! だからこそ、備蓄を全て明け渡すのみで許すと言っているのだぞ!」
「ハ、それは、重々承知しております……。しかし、しかし……すでにわたしが用意できる分というものは、すでに全てを。これ以上は、何卒、どうか……」
懇願するミナスを細い目で睨みつけてから、ユーグランドは怒り狂ったように杯を投げつけた。
「全てとはッ! 麦の一粒、肉の一欠片までもを差し出してから言うものだ! 違うか!? 良いだろう、その気がないのであれば手間だが全てをもらってゆく!」
「ユーグランド卿、何をされるのです!?」
勢いよく立ち上がったユーグランドが足音を踏み鳴らしながら応接間の窓を開け放った。そうして庭にいた兵達に顔を見せる。
「わたしが許す! 必要な全ての物資をこの村より略奪せよ!」
「ユーグランド卿!」
「放さぬか、アドリオン!」
「どうかそれだけは……!」
略奪の指示を撤回させようと必死になってユーグランドにしがみつこうとしたが、それを振り払われた拍子に強く押し飛ばされて絨毯の上へ転んだ。
「いいか、アドリオン卿っ! わたしの決定は王の勅命によるものである! それを妨げようというのならば、国家反逆罪にも等しいのだぞ!?」
恫喝しながらユーグランドはミナスの胸ぐらを掴み上げる。
「それでも尚、わたしを止めようというのか!」
「っ……」
息を呑んだミナスをユーグランドは突き飛ばすように放した。
「撤回しろ、アドリオン卿よ。
我らの簒奪を容認しろ。でなければ――」
その言葉の途中で応接間の扉が開け放たれる。
「おとうさんをいじめるな!」
細い目を開いてユーグランドが声の主をねめつけた。
夏にも関わらず冷え込んだような空気の中、セオフィラスはユーグランドに敵意を孕んだ視線を向けていた。