ささやかな幸福
「――お説教は以上です。
罰として、食事は麦粥のみ。それから2日後の朝までにドミアス・ジーンの『餓えた富の持ち主』を書き写しなさい。
エクトルはこの屋敷の使用人に混じって雑用でも何でもなさい。セオフィラスへのさらなる罰はアトスに一任いたしますわ」
「でしたら、そうですね……。毎日、朝は食事の前に、晩は夕食の後に、裏山を上り下りしていただきましょうか」
「お分かりになりましたか、2人とも?」
「はい……」
「分かりましたわ……」
しゅんとする少年少女に一瞥してから、ベアトリスはようやく談話室を出ていった。絨毯に足を畳んで座らされていた2人はようやく足を崩せてほっとする。ベアトリスの説教は朝から何時間も続き、食事も挟まず、時に一喝され、時にガミガミとやかましく怒鳴られ、時に滔々、粛々と諭され、最後に短く罰を言い渡されてようやく終わった。
「疲れたあ……」
「はい……。お姉様にこのようなお叱りを受けるのは初めてですわ……」
「しかし、やはり彼女は傑物と言わざるをえませんね、セオくん」
「え、何でですか?」
「確かにお姉様はとてもすごい方だと思いますが……傑物、という表現は少しちぐはぐな印象を受けてしまいますわね」
セオフィラスが先に立ち上がり、エクトルをソファーに導いて座らせる。アトスはずっと感心しながらベアトリスの説教を他人事そのもので聞いていたが、彼女同様に少しも疲れを見せるということはしていなかった。
「ただ座って聞いていたきみ達より、ずっと口を動かし、それと同時に頭も回転させ続けた彼女の方が疲れるのは当然のことだと思いませんか? それなのに少しもベアトリスさんは疲れた様子を見せはしませんでしたし、終始、叱るのみで怒るということはしませんでした。疲れたことを怒りに転化して喚き散らすなんて普通のことですが、それをしなかったのですからね」
「でもさ、師匠。普通、叱られといて、叱った人を誉める気持ちになれないと思いませんか?」
「ふふ、きみらしい答えですね。さ、お腹も空いていれば、眠気もあるでしょう? ご飯を食べて、今夜はゆっくりと眠るといいですよ。それからセオくん」
「はい?」
「レクサちゃんが、きみと会えなくてさみしがっていました」
「……今夜は一緒にお風呂に入って、何かお話でも聞かせてあげます……」
「それがいいですね」
夕食の席にベアトリスは出てこなかったが、セオフィラスとエクトルの食事は彼女の言いつけ通りに麦粥だった。レクサはやっと会えたセオフィラスに喜んで、食事もおろそかに色々と話しかけ、賑やかな食卓になった。
「わたくしにもお兄様はいらっしゃいますのよ、レクサ」
「そうなの? どんなお兄様?」
「レクサ、お兄様じゃなくてお兄ちゃんって……」
「分かってる!」
「……そう?」
「ふふっ、サイモスお兄様といって、とても賢いんですよ」
「じゃあお兄ちゃんと反対だ!」
「レクサぁ〜? そんなこと言うと、こうだぞっ」
「きゃっ、あはははっ、ダメっ、きゃっ、お兄ちゃんっ……!」
レクサをくすぐり始めたセオフィラスにカタリナが額を押さえ、エクトルが笑みをこぼす。楽しみすぎた兄妹はとうとう料理をひっくり返し、その音を聞きつけて顔を出したベアトリスにまたしこたま叱られてしまうのだった。
アドリオンの湯船はセオフィラスの先々代領主のころに大きなものが用意された。それまでは浴槽と言うよりもお湯を溜める大樽のようなもので、とても大人が浸かることなどできるものではなかった。それを厭った先々代がなけなしの財産をはたいて浴室を拡張。裏手にあった炊事場まで潰して、結果として屋敷の構造まで少なからぬ変えてしまう工事となった。
そして今、その浴室はまだ小さな領主と、その家族がゆったりと浸かれる憩いの空間となっている。セオフィラスもレクサも、ゼノヴィオルも入浴は好きだった。たっぷりお湯を張った浴槽に体を浸して溢れ出るお湯に贅沢を感じるという、ささやかな幸せを特にセオフィラスとレクサは愛していた。
「はああ〜……レクサ、こういう小さい幸せがあるって知ってるのが大事なんだぞ」
「幸せなの?」
「だってレクサと一緒にお風呂だもんな」
「じゃあずっと一緒に入ってあげる!」
「ずっとはないって」
「何で?」
「レクサだっていつかお嫁さんになるんだから」
「じゃあお兄様のお嫁さんになってあげる!」
「お兄様じゃなくてお兄ちゃん」
「お兄ちゃん!」
「よろしい」
「よろしい、って師匠みたい。あははっ」
「こいつっ!」
「きゃっ、もう、くすぐったい! あはははっ」
ばしゃばしゃと立てられる水音を、壁を隔てながら聞いているカタリナは欠伸を噛み殺す。領主邸のお子様の入浴は5年前まではてんやわんやの大騒動という日課になっていた。しかし今はセオフィラスがレクサを溺愛するようになって、入浴に関しては何から何まで世話を焼いている。――その分、のぼせたまま上がってくることは増えたが、しかしカタリナの手間は格段に減った。
それが少々、さみしくもあり――セオフィラスのレクサへの溺愛が何に由来しているかと邪推すると、気分が滅入りそうになる。くたびれ、自分が入浴したわけでもないのにびしょ濡れになってしまったとて、子ども達を風呂へ突っ込んで洗ってあげることの楽しさがカタリナには確かにあったことだった。
浴室を出てきたセオフィラスとレクサに寝間着を渡し、カタリナはレクサの着替えを手伝う。そうしながらふとセオフィラスを見て、その若い肢体に大小無数の傷を数える。また新しい大きめの傷ができている。
「坊ちゃん」
「ん? 何、カタリナ?」
「オルガ様が与えてくださったお体なんですから、あまり傷をつけてはお墓の下で嘆かれてしまいますよ」
「……でもこれ以上、みんながバラバラになるよりマシだよ」
「それは……」
「さ、レクサ! ベッドで何かお話してやるよ。何がいい?」
「何でもいいっ!」
「何でもって、また? 途中でつまんなーいとか文句言うくせに……」
「だって面白くないんだもん。今日はなあに?」
「…………ドミアス・ジーンの『餓えた富の持ち主』」
「何それ?」
「俺も初めて読むやつ……」
レクサの部屋でセオフィラスは罰として書き写しを言いつけられた、とんでもなく太い巻物を広げる。レクサの机をベッドの傍まで持っていき、そこへ座る。
「じゃあレクサ、書きながら読むからちょっと聞きづらいだろうけど勘弁な」
「えー? お兄ちゃんも横きて」
「そしたら書けないだろ。わがまま言うな」
「ぶぅー」
「じゃあ読むぞ。えーと……」
ぶつぶつと呟くようにして読みながら、セオフィラスは羽根ペンを走らせ始めた。しかしすぐ、セオフィラスは寝息を立て始めてしまう。昨夜から一眠りもせずに森を歩き続け、戦い、説教を受け、食事をし、入浴を済ませ、そこがセオフィラスの体力の限界だった。あっという間に眠ってしまったセオフィラスの頬をレクサは突ついてみたが起きる気配がなく、部屋を出て控えていたカタリナに声をかける。
「カタリナー、お兄ちゃん、レクサのベッドに寝かしてあげて?」
「はい、レクサお嬢様。……セオ坊ちゃんは寝つくのが昔から早いんですよ」
「知ってる! いつもそうだよ。つまんないお話やめるとね、すぐに眠っちゃうの。だからレクサの方がね、起きてるのね」
「そうですね。寝顔は昔のままですけれど、やっぱり重くなりました」
カタリナがセオフィラスをベッドに寝かせると、レクサはその隣に並び横へなった。カタリナがシーツをかける。
「ねえカタリナ、何かお話して?」
「分かりました。……昔、昔、あるところにとても仲良しの兄弟が――」
「それ飽きた〜」
「……ゼノ坊ちゃんは好きだったんですよ」
「そうなの? じゃあそれでいいよっ」
「はい。では続けますね」
カタリナはベッドに腰掛けたまま、身をひねるようにしてレクサの腰の当たりをやさしく、とんとんと叩きながら物語を聞かせた。やがてレクサもぐっすりと眠ったのを見届け、カタリナは静かに部屋を出ていった。




