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アドリオンの黒狼王  作者: 田中一義
少年期2 エクトル・クラウゼン
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居候のソニア ①



「いつからあの娘は、このわたくしにあんな口を利けるようになったのかしら! まったく、今日の今日まで妹を見誤っていたなんてとんだ大失態ですわ!」


 カンカンに怒りながらベアトリスの羽根ペンはカリカリと書物の上をひた走っている。一字一句、揺らぎもなく書き綴られていく文字は流麗で、静かに眺めていたガラシモスは感心するばかりである。


「それにセオフィラス! あの子まで、エクトルに同調して! まったく、何のためにわたくしが今日まで面倒をきたものかと思うと情けなくなって言葉を失ってしまいますわ! そもそもの話、エクトルは世間というものを知らず、わたくしはよぉく知っているのですから年長者としてわたくしの言うことに素直に、はいはいと返事をして従っていれば良いというのに……!」

「差し出がましいですが……言葉を失ったのでは?」

「物の例えというものにいちいち口を挟まない!」

「は、はい、失礼いたしました……」

「まったく! ……ところでヤコブはまだ来ませんの? さきほど、カタリナにわたくしのところへ呼ぶようにと言いつけたはずなのですけれど」

「はて……。ああ、そう言えば先ほど坊ちゃんとエクトル様が屋敷を出て行かれた時、ヤコブが追いかけていたような気もしますが。あのやり取りは屋敷中に聞こえていましたから心配したのかも知れません。だから見つからず、まだカタリナが声をかけられていないのでは?」

「……ふんっ、それならもういいですわ。日が落ちても帰らないようだったら、あんな不良の子ども達は閉め出してしまいなさい。絶対ですわよ。わたくしは少し、アルブスを見て回ってきますわ」

「おひとりで行かれるのですか?」

「ヤコブがいらっしゃらないのですから仕方がありませんわ! それでは失礼、その書類をまとめておいてくださる!?」

「か、かしこまりました……。お気をつけ——」


 ガラシモスが言い切る前にベアトリスは執務室を出ていく。それからふと、執事歴数十年の彼は思った。


「……わたしは男手にカウントされてはいない……?」


 先代――ミナスが領主であったころは視察に連れられていたガラシモスである。いずれ、今の立場をヤコブへ譲ることがあるのだろうかと考え、少しだけさみしくなったガラシモスだった。




 中年執事はさておき——ベアトリスは鼻息荒く、屋敷を出た。

 するとその玄関先、地面の上でアトスが膝を折ってしゃがみ込んでいるのを発見する。


「……何をしていますの?」

「おや、ベアトリスさん。セオくんの姿が見えず、どうしているものかと思いまして」

「それがどうして、そんなところでしゃがみ込むことになるのかしら?」

「足跡を見繕っていました。……わたしの推察ではエクトルさんと一緒に、やや急ぎ気味の小走りで出ていったようですね」

「……足跡からそこまでお分かりになるの?」

「ちょっとしたコツがありまして。……あなたはどこかへ出かけられるのですか? 領内で明るい日中とは言え、あと少ししたら日が暮れてきますし、おともいたしましょうか? ヤコブくんもいないようですし」

「……けっこうですわ」

「出過ぎたまねでしたか。失礼」


 にこりとアトスが笑みを浮かべたのを黙殺し、ベアトリスはそのまま出ていく。

 見送りながらアトスは彼女の足跡を眺め、それから屋敷を振り返った。トトトっと軽い足音がし、レクサが今度は屋敷から出てくる。


「あっ、ねえねえししょー」

「はい。どうかしましたか?」


 いつの間にやら、アトスは一部の人間に師匠と呼ばれるようになっている。セオフィラスがそう呼んでいるのでレクサが真似をして、それが伝播したかのようにアルブスの人間も気軽に師匠とか、師匠さん、とかと呼びかけるようになっているのだ。


「おにいさま、みなかった?」

「セオくんなら、出かけてしまったようですよ」

「ええー? あそんでもらおうとおもったのに……。……じゃあ、ししょー、あそんで?」

「そうですね……。まあ、いいでしょう。分かりました。わたしで良ければ喜んで相手をさせていただきますよ」

「ほんとうっ? ありがと、ししょー!」


 レクサに手を引かれてアトスは屋敷へ引き戻されていった。











「……ごめんなさい、セオフィラス様。わたくしのせいで巻き込むようなことになってしまって……」


 とりあえず逃げ出したセオフィラスはエクトルを連れてまたもや森に来てしまった。泉にほど近いところに腰掛けるのに丁度良い手頃な岩が転がっている。そこへエクトルには座ってもらい、セオフィラスは地べたへ直接座り込んでいる。


「先生……すごく怒ってると思うけど……」

「いいですわ、分からず屋なんですもの……。お姉様はいつもそうなのですから。……それに、あらぬ不潔な誤解までして……信じられませんわ」

「ふけつな、誤解……?」


 ふけつとは一体何だ、とセオフィラスは視線をさまよわせかけたが恥ずかしそうに顔を赤らめたエクトルに見とれてそんな考えは瞬時に飛んだ。



「でも……あんな喧嘩していいの?」

「……分かりませんの……」

「分からない?」

「初めてお姉様に、あんなことを言ってしまいましたの。……カッとなって、つい、言い過ぎてしまいましたわ……。そのせいなのか、今、とっても……悪いことをしてしまったような気がして、何だか……」


 表情が曇ったエクトルにセオフィラスも顔を困らせた。

 しかしふっと、師の顔が頭に思い浮かぶ。いつも柔和な笑みを浮かべている師の顔を見ると、悩んでいても怒っていても悲しんでいても、何となく落ち着く。だからセオフィラスもにこりと笑みを浮かべてから少し腰を上げてエクトルのしなやかな手を取った。


「ねえ——」

「っ……はい?」

「何か、話をしない? 何でも……できれば楽しい話を」

「…………はい、セオフィラス様」


 少年のやさしさはすぐ、少女へ伝わった。

 返された笑みでセオフィラスは、今度は作ったものではないほほえみを口の端へ広げる。


「ヘクスブルグで初めて会った時のことを、覚えていらっしゃいますか?」

「え? ……覚えてるけど、あの時は……んー、ん?」

「あの日にもらったお花――」

「待って、誰かいる……」


 セオフィラスはすぐ、近くに落ちていた小石を拾って握り締めた。


「はい……?」

「……でも、この気配は……ソニアか」

「ソニア……さん?」

「出ておいでよ、ソニア」


 ぐるりと首を巡らせてセオフィラスが周囲を見て、エクトルも同じように周りをうかがった。と、泉の真ん中からこぽこぽと無数の泡が浮かび上がってきて水面が盛り上がった。ばしゃんと水が弾けるとそこにソニアが眠そうな顔で立っていた。


「……水の上に……」

「た、立ってる……?」

「……おはよう、セオ……」


 ふわあ、と欠伸を漏らすとソニアは泉の水面を滑るようにしてセオフィラス達の方へ寄ってきた。それから、そっと地面を踏んでゆっくり歩いてくる。


「お、おはよう……。何してるの?」

「……森林沐浴?」

「何それ……?」

「森林浴と、沐浴を兼ねたの」

「でも濡れていませんわね……」

「濡れたら乾くの大変だから」

「それ沐浴兼ねてる……?」

「……セオフィラス、それを言ったら……傷つく……がーん」

「えええ……?」

「ふふっ、面白い方なのですね。はじめまして、ソニアさん。エクトル・クラウゼンと申します」

「よろしく、セオの大好きな人」

「ぶふっ!?」

「へっ……?」

「なんちゃって?」

「ソニアっ!」


 くすりとソニアが楽しげに笑う。

 その姿は初めてセオフィラスが彼女を見た時と、何も変わってはいない。

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