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アドリオンの黒狼王  作者: 田中一義
幼少期1 在りし日のアドリオン
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最初の喪失 ①



 アストラ歴436年。

 アドリオン領アルブス村に夏が訪れている。アトスはまだ、アドリオンの屋敷にいる――。



「では、今日は地面を歩かない鬼ごっこをしましょう」

「じめんを……あるかない?」

「おにごっこ?」


 ミナスの頼みで引き受けた、セオフィラスの剣の師になるという役割を彼なりに務めている。しかし、その稽古というのはいつも遊びのようにしか見えなかったし、真剣も、木剣も持つということはなかった。


 少し時間ができたのでミナスは、どんなことをしているのかとその様子を見に来ている。かたわらにはガラシモスとヤコブがいる。稽古の場となるのは森にある木立の中。セオフィラスとともにゼノヴィオルも、いつもアトスの稽古と称する遊びのようなものに参加をしている。


「あるかないのに、おにごっこ?」

「ええ、歩かずとも鬼ごっこというのは簡単にできるものですよ。

 ここにはたくさんの立派な木が生えていますから、これを伝っていけば良いのです」

「のぼれる?」


 ぽんと木に触れてほほえんだアトスにゼノヴィオルが小首を傾げて不安そうに尋ねた。


「登れますとも。ちょっとしたコツを覚えてしまえば、それはもうするすると木を登って、枝から枝へと飛び移って鬼ごっこができるようになるものです」

「どうやるの? おしえて!」

「ふふ、セオくんはやる気いっぱいですね。ゼノくんもがんばれそうですか?」

「わかんない……」

「おや、分かりませんか……。ではわたしと一緒にがんばりましょう。セオくんも応援してくれますから。ね、セオくん」

「ええー? ゼノどんくさいんだもん、ムリだよ」

「そんなことはありません。セオくん、人間、信じることから何事も始まっていくものですから、決めつけないで応援してあげましょう。さあ、ではまず木に登るところから」


 木登り教室のような様相にミナスは渋面しながら、かたわらのヤコブへ目配せした。ヤコブも肩をすくめて同じような顔で視線を返す。アトスは剣の師を引き受けたはずなのに、それがどうして木登りになるのか、という疑問だ。単なる子ども好きなのではないかとも思わせられる。



「ねえねえ、ししょー」

「はい、何ですか、セオくん?」


 少しコツを教わっただけでするすると木に登ってしまったセオフィラスがアトスを呼び、師はそれに応じる。ゼノヴィオルはアトスに手取り足取り、木のどういったところへ手をかけ、足をかければ良いかと教えられている。


「はやくおにごっこしようよ」

「ふふ、焦らずに待っていてください。さあ、ゼノくん、下から持ち上げますから、ちゃんと枝にしがみついてくださいね」

「うん……だいじょうぶ? はなさない?」

「ええ、しっかり下から支えていますから。せえ……のっ」

「まーだー? ゼノどんくさい。あっ、ひっぱってあげる!」

「わ、わっ、や、やめて……!」

「おや――?」


 セオフィラスがようやく太い枝で上半身を支えられたゼノヴィオルをムリに引っ張った。それで体勢を崩してゼノヴィオルが重力に引かれ、セオフィラスまで一緒になって木から落ちる。地面に落ちることはなく、下にいたアトスが2人を腕で1人ずつ受け止めるときょとんとした顔でセオフィラスは師の顔を見た。


「大丈夫ですか?」

「……ぷっ、あはははっ! おもしろかった! ねえねえ、もう1回!」

「ふふ、タフですねえ、きみは。ゼノくんはまだ――」

「ふっ……ふぇええええん……!」

「おやおや……怖かったんですね」


 地面に降ろされたゼノヴィオルはずっと見守っていたミナスの方へ泣きながら歩いていって父の足にしがみついた。


「ああもうっ、すぐなくんだから。なきむし!」

「そんなことを言ってはいけませんよ、セオくん」

「でも……」

「お兄さんなんですし、広い心を持ちましょう。やさしくね」

「……えー?」


 不満そうにするセオフィラスの手を引きながらアトスはゼノヴィオルの方へ行き、膝を折ってしゃがむ。泣きじゃくるゼノヴィオルの頭をやさしく撫でてからほほえんで柔らかい声を出す。


「ゼノくん、セオくんも謝っていますから、もう一度やりましょう?」

「…………」


 ちらっとゼノヴィオルが兄を見る。

 不満そうな顔のまま、セオフィラスは視線を返している。


「セオくん」

「……ごめん、ゼノ。もうしない」

「……うん、いいよ」

「それではまた、木に登るところからやりましょうか」



 幼い兄弟を木の上へ乗せてから、ひょいと身軽にアトスも木の上へ立った。

 そうして地面を歩かない鬼ごっこなる遊びが始まる。鬼はアトスだった。その気になればひょいひょいと移動できそうなものを、馴れない木の上を動かなくてはならないという2人を相手に手加減し、一方を追いかけては、また別の一方を追いかけに行くというようなことをしていた。


「剣はいつ振るのだろうな……」

「分かりませんが……あの男、単に自分が楽しんでいるだけじゃないんですか?」


 ヤコブは訝しむようにそう言い、ミナスもはかりかねたようにふうむと考え込んだ。










「少しいいかね」

「これはこれは、ミナス殿。わたしなどで良ければいつでも」


 子ども達が寝静まった時間にミナスはアトスに与えている部屋を訪れた。2階の北側にある客間の一室である。アトスはアドリオンの屋敷にある書庫から持ち出した本を読んでいた。


「昼の、きみがつけていた稽古のことだが……あれが剣に関係するのかね? 少なくとも、わたしが子どもだった時分では1本でも多く、1秒でも長く剣を持ち、振り続けろと教えられたものだが」


 閉じた本をライティングテーブルへ置くとアトスは椅子を立ってから窓辺へ寄った。


「あれは立派な稽古であると、わたしは考えています」

「ふむ……。ではどのような効果があるのかね?」

「まだセオくんは幼く、体力も筋力もありません。その状態でただ剣を振らせたとしても、体の軸はブレますし、正しい姿勢で剣を振り下ろすことはできないのです。だからこそ、今は素地を作る段階と考えています」

「素地……かね?」

「はい。剣術とはすなわち、剣を扱う技術であるとわたしは考えています。そのために必要不可欠な要素はただ1つ。剣を振るために適した身体であること。これがあってこそ、初めて、剣を振るための準備ができあがるのです。だからこそ、今は遊びを通じてその体を作り上げていく段階にあります」


 静かに答えたアトスにミナスは難しい顔をしてから、それまでアトスの座っていた椅子に腰掛けて足を組んだ。


「では、いつ剣を手に取るのかね?」

「そうですね……。わたし個人の考えでは5年から10年は、必要ないと考えています」

「5年だとっ?」

「はい」

「…………驚かされるな、きみには。随分と気が長い」

「ええ、よく言われます」


 にこりと笑んだアトスにまたミナスは言葉を失う。


「ヤコブが、本当はきみが楽しんでいるだけではないかなどとも言っていたが……本当に、それだけの長い期間がいるのかね? あの、地面を歩かない鬼ごっことかいうのも、意味があってのことなのだろう?」

「ええ、もちろん。今日はかなりレベルの低いものでしたが、子どもの成長というのは早いものです。一月(ひとつき)もあればもっと早く動けるようになるでしょう。もっと長く続けるつもりですが、木の上というのはバランスを取らなければなりません。それによって体幹という、バランス感覚を司る部分を鍛えます。木から木へと飛び移るには腕の力も、足の力も、それに連動して全身の筋肉も使わなければなりませんから、全身の力を養えるようになります。

 それから、鬼ごっこという遊びには判断力をつける効果もあります。適切な逃げ道を選び取る力です。これは達人同士の立会いにおける瞬時に下さなければならない判断力を養う訓練になりますよ。また、判断力をつけるということは思考力を高めることにも繋がります。狭い視野ではひとつの物事に囚われて適切な決断を下せませんが、広く視野を持つことができれば柔軟な考え方をし、最善を考えて選び取る力を身につけられます」


 足を組み替えてから、ミナスはアトスを見据える。


「それはつまり……それほど長い間、セオフィラスの面倒を見るということか?」

「……いけませんでしたか? これでも中途半端に何かを終わらせるのは嫌な性分でして。やるならば徹底的に、最後まで――をモットーにしているのですが、タダ飯ぐらいがいてはやはりご迷惑になりますか?」

「いや、良いだろう。……正直なことを言えば、きみの力は恐るべきものだと思っている。だがそれを闇雲に振るい、いたずらに誰かを傷つけるような男とは思えない。きちんと考えがあるのならば何も言わずにおくとしよう。今夜はこれで失礼するよ。明日からもセオフィラスとゼノヴィオルを頼む」

「かしこまりました。おやすみなさい、ミナス殿」


 ゆっくりと戸が閉まり、アトスは窓から夜空を眺め上げた。


「理解のある、良い方だ。

 このアドリオンが長閑でいられるのは、ミナス殿の手腕が大きいのかも知れないな……」



 テーブルに置いていた本をまた開き、アトスはページを手繰った。

 静かな夜に、どこかで鳥が鳴いた。鳴き声は夜に溶けて消えていった。

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