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アドリオンの黒狼王  作者: 田中一義
幼少期1 在りし日のアドリオン
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6歳、森にて ③


 ヤコブは18歳の若者で、アドリオンの屋敷で働くカタリナの兄でもある。

 2人の両親は若いころに村へやって来て、住み着いた移住民で最初は働く口がなかった。それを哀れんだ先代アドリオン領主が一時的に2人を屋敷で働かせながら食べさせてやったということがある。このことに端を発し、カタリナとヤコブもアドリオン家と交流が生まれている。


 アドリオンでは有事の際、男が武器を取って戦う民兵を組織している。

 その年に2度か3度かある訓練でヤコブは剣の扱いが上手いと評判になったので、ミナスは自分の空いた時間に簡単なものだが稽古をつけてやっていた。そのために気安く呼びつけて同行させることも多々あり、おばけを見たと騒いだセオフィラスを探すという任にも駆り出されてきた。


 少なくとも村では1、2を争う剣の腕前を持っている。1位は貴族のたしなみとして、きちんと剣術の修練を積んできたミナスだと目されているが、彼はすでに46歳で衰えもあるのでヤコブが上じゃないかという声もある。――しかし、ヤコブは少なくとも貴重な戦うための訓練を受ける中で見出された特別な存在であるのだ。


 1対1の戦いであるならば、畑仕事で培われた筋肉とミナス直伝の剣術で正規兵とでも戦える。



 ――はずだった。



「セオ坊ちゃんから離れろぉっ!」


 剣を抜きながらヤコブが駆け出す。その気迫でセオフィラスは震え上がりそうになったが、ぽんと頭に手を乗せられてアトスを振り返ると自然と落ち着いた。


「うおおおおおおっ!」


 気合いとともに振り落とされた剣をアトスは片手で止めた。

 不思議な光景だった。振り下ろされた剣を上から掴んでアトスが止めたのだから。見えない壁に阻まれたかのような光景に誰もが言葉を失い、その中でアトスがおだやかな声を発した。



「わたしは怪しい者でも、おばけでもありません。

 行き倒れていたところをこちらのセオくんに助けられた……ただ放浪をしているだけの身の上の者です。どうか剣を納めていただけますか。誰にも危害を加えるつもりはありません」


 遅れてようやく追いついた執事のガラシモスが、息を切らしながら状況を見てきょろきょろと全員の顔色をうかがった。


「旦那様……どのような、状況で?」

「……ヤコブでまったく歯が立たないのであれば、我々にこれ以上できることなどない。剣を引け。それからセオフィラス、ゆっくりとこちらへ来なさい」

「う、うん」


 何がどうなったかは分からないが、大人しくセオフィラスはアトスの手を握りながら父の方へ歩いていく。えっという顔をした父とヤコブの顔は分かったが、ごくごく自然に手をつないでいたのでそのままアトスはミナスに近づくこととなった。


「アトスと申します」


 やや顔をこわばらせるミナスにアトスは柔らかくほほえんで自己紹介をすると握手を求め、手を差し伸べる。顔を引きつらせながらミナスは彼の手を見つめる。


「…………ミナス・アドリオンだ」


 不思議そうな顔をするセオフィラスの文字通り目と鼻の先で、アトスとミナスは握手を交わした。











 アドリオンの屋敷は、アドリオン領アルブス村にある。アルブス村はアドリオンの最西端であり、西側に広がっている大きな森の向こうは敵国の領土となっているため、常にミナスの頭の中には森からひょっこりと敵が現れてくるのではないかという不安がこびりついていた。今までのことを鑑みれば、そこまで気を揉む必要はないが――そういう考えを持ち続けていることが大事なのだと当主の座を継いだ時に先代から言われたのだ。


 だから森で息子がおばけと見間違えたという青年を見て、すぐ敵国(グラッドストーン)の人間だと思った。そして、それは的中していたのだが、惜しくも外れたのは彼が敵として現れたのではないという点であった。



「故郷はこの大陸ではありません。事情があってグラッドストーンに取り残されてしまいまして、仕方なしに生活の拠点としていました。しかし定住する地を得ることはなく、ふらふらとあの国を放浪していました。そして気がつけば、あの深い森に迷い込み、携行していた食料も水も全て尽きました。早朝に朝露をすすって乾きを癒すばかりで、腹が減ってどうしようもなかったのです。いよいよ天命が尽きたものかとも思いましたが、そんな時にセオくんの声を聞きつけて最後の力を振り絞ったのです。

 彼は飢えたわたしに、あれが何という鳥か分かりませんが――とにかく、鳥を与えてくれたのです。おいしくいただきました。彼はわたしの命の恩人で、あなたは命の恩人のお父君であられる。このご恩、忘れる時までは決して忘れません」


 身なりは怪しく、風体は汚れきっている。

 しかし話口調と物腰の柔らかさ、何より物腰が穏やかすぎた。


 それがミナスを警戒させる。

 しかし、その警戒は彼の一言一句と、オリーブの色をした澄んだ瞳のせいでほつれようとしてしまう。


 アドリオンの屋敷までの小道をセオフィラス、ミナス、ガラシモス、アトスの4人は歩いている。セオフィラスはずっとアトスと手を繋いでいた。それが自然であるかのように。



「旅をしているとは言うが……何の宛ても、目的もなくかね?」

「いえ。わたしはこれでも剣士の端くれなのです」


 答えてアトスは腰に差している細い木の棒めいたものへ視線を向けた。ミナスが眉根を寄せる。


「剣士? その棒切れでかね?」

「お恥ずかしい話ですが、寝ている間に誰かに盗られてしまいまして。とは言え、値打ちものを使っていたのではありませんし、これでも良いかと思って自分でこしらえました」

「アトスってドジ?」

「ふふ、そうかも知れないね」

「ドジっ、あははっ」

「ふふふ」


 笑うセオフィラスとほほえむアトスにまたミナスは渋い顔をする。

 この男(アトス)に対する警戒心というのは全て、ヤコブの一振りを完璧に止めきった神業にある。何と言うこともなく、落ちてきた果実を上から掴むかのように止めてしまったあの技術だ。握手を交わした際にもアトスの手がひたすらに剣を振り続けてきた者というのが分かっている。それにも関わらず、血気盛んの正反対にあるかのような穏やかな人物である。


 己の力に奢ることなく、どころか抜けているとさえ思わせられるエピソードを披露され、そのチグハグさがどうにもミナスを不安に陥れた。セオフィラスが懐いているのも面白くない原因である。


 もしもアトスがグラッドストーンの送り込んできた尖兵だとしたら、とてつもない恐怖だ。見た目や態度とかけ離れた実力を持ち、それを完璧に隠すかのような間抜けに見せている。次の瞬間にでもセオフィラスを人質にしてきたら打つ手はないだろうと考えれば、すぐにでもセオフィラスを遠ざけたかった。



「ミナス殿――」

「ッ……何かね?」

「わたしは見ての通り怪しい者では――いえ、今は怪しく見えてしまう風貌になってしまっていましたか……。とにかく、誰にも危害を加えるつもりはないのです。あなたが去れと仰るのならば、すぐにでも去りましょう。森へ帰れと仰るのならば、またあの森へ迷い込みましょう。ただ……その前にひとつ、あつかましいようですが、頼みたいことがあります」


 胸中を見透かされたような心地がし、ミナスの気色に緊張の色が表れる。

 それを見据えながら、静かにアトスは続けた。


「僅かでも食料を恵んではもらえませんか?」


 にこりと人の好さそうな笑みを浮かべ、困ったように、どこか恥じるように、アトスが言う。

 それが作り物であるならば、どうあっても勝ち目はあるまいとミナスは考える。そして負けを認めることにした。


「その必要はない。

 セオフィラスがきみを気に入っているようだ。

 またどこかへ、ふらりと行きたくなる時までは我がアドリオンの屋敷にいなさい」

「……よろしいのですか?」

「構わぬよ。ただ……そうだな、セオフィラスももう6歳だ。この子もそろそろ剣の稽古を始めて良いころだろうと思っている。教えてやってはもらえぬかな?」

「喜んで拝命いたしましょう。サー・アドリオン」



 そうして行き倒れていたアトスを、ミナスは息子の剣の師として屋敷に迎え入れた。

 伸び放題になっていた髭を綺麗に剃り、髪の毛をサッパリと切り、全身の泥を落とし、ミナスの着なくなった服へ袖を通した青年は――まさしく見違えた。その美貌と物腰の柔らかさと、聡明に澄んだ瞳はアルブス村の婦女子を少女から老女まで幅広く虜にしてしまうのだった。

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