6歳、森にて ②
「とうさ、とうさんっ……とうさん、たいへん!」
息を切らしながら泥んこで飛び込んできた息子にミナスは目を見張って、それからこほんと咳払いをした。
「セオフィラス、元気なのはいい。けれどな、その格好で食事をする場に――」
「おばけでた!」
「おばけっ?」
「は、は――? な、何をいきなり言っているんだ?」
「おばけだよぉっ! もりでね、がさがさってして、こぉーんなかみのけで、めだけがね、ぎょろってね、してて!」
必死に訴えるセオフィラスを落ち着かせるためにミナスは水の入った杯を手にしてとりあえずそれを飲ませた。
「落ち着きなさい、おばけなんているはずがないだろう? 何かを見間違えたんだ」
「いたもん!」
「しかしな……。どう思う、ガラシモス?」
「見間違いではないかとも思いますが……グラッドストーンの斥候という可能性もあるかも知れません」
自分のズボンを掴んで見上げる息子の目に、滅多に泣かない子だというのに涙がにじんでいるのを見てミナスは困ったように後頭部をかいた。
「あの森を抜けるなんて、いくらグラッドストーンでもしないとは思うのだが……確かに、そういう可能性もあるか。分かった、セオフィラス。ヤコブとともに午後になったら、また森へ行って何なのか確かめてきなさい。誰か、ヤコブにそう伝えておいてくれ。
さ、食事にしよう。カタリナ、この子を着替えさせなさい」
「とうさん!」
「大丈夫だよ、セオフィラス。おばけなんていないさ。何かを見間違えただけだから、ヤコブと午後に確かめてきなさい。道案内をしてあげるんだ。できるな」
はぐらかれたような気になってセオフィラスはむくれ、そんな兄の不機嫌そうな顔にゼノヴィオルはそっと視線を外した。カタリナが水に濡らしてから硬く絞った布を持ってきてセオフィラスの手を拭こうとしたが、それを振り払って幼い少年は飛び込んできた時の勢いでまた出ていってしまった。
「……旦那様、どうしましょう?」
「やれやれ、あの子は……。ゼノ、先に食べていなさい。ヤコブには、すぐ森へ来るよう伝えてくれ。わたしが様子を見にいこう。レクサが産まれ、オルガは病に臥せっていて……あの子はわたしの気を惹きたいのかも知れない。無碍にするものじゃあないだろう」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ、旦那様」
「何言ってる、お前もくるんだよ。ガラシモス」
「…………かしこまりました」
大人が足早に去っていく中、ゼノヴィオルは言われた通りに昼食をもぐもぐと食べていた。泣虫だが大人しく、よく言うことを聞くのがゼノヴィオルだった。
おばけはいた。
確かにいて、ついでにモグラドリを取られた。
それがセオフィラスの脳内でぐるぐると渦を巻いている真実――と思い込んでいることである。
おばけはいない、見間違いだ、と言われたのが癪で正体を確かめるべく駆足でセオフィラスは森に舞い戻ってきた。肩を持ち上げるようにしながら両手で木剣を持って、右へ、左へと視線を動かしながら最大の警戒心をもって少年は歩いていく。今は森へ来たら深呼吸というのも忘れていた。
「で、でてこいっ、おばけ! たいじしてやる!」
森でセオフィラスが叫ぶ。
油断なく――本人としては――木剣を構え、またどこからかガサガサと音がするのではないかと耳を澄ませる。だが、聞こえてくる物音と言えば、時折風に揺らされて擦れ合う木の葉の音や、小鳥のさえずる長閑な音ばかりだ。目も忙しなく動き、首も巡らせて全方位に木剣を向けるが、やはり目に映るのはいつも通りの静かで落ち着いた森の風景ばかりである。
「……お、おそれをなしたのかっ? そ、それならそれでいいけど――あ、やっぱりダメ! ちゃんとでてきてたたかえ!」
勇ましくそう呼びかけてみても、変化するものはなかった。
だんだんと集中力が途切れ、空腹感が強くなってくる。さてはどこかへ隠れたのだろうと自分で結論づけ、屋敷に帰ろうかとした時にふっとおいしそうな香りを嗅ぎつけた。香ばしく焼き上げられた何か、だった。近くに人家などはない。何の匂いだろうと空腹にも手伝われ、鼻をすんすんと鳴らしながらセオフィラスは歩き出した。
匂いを辿りながら歩いていく。
木の陰からそれを見た時、セオフィラスはハッとした。
焚き火。そして、丁度セオフィラスに背を向けるように地べたへ座り込んでいる人の姿。そして目撃したのと同じ、乱れに乱れまくった長い髪の毛。――おばけを見つけた! そう頭の中で叫ぶと、考えもなしに走り出していた。
「でええぃやああああっ!」
木剣を振りかぶって、おばけを成敗する。
少年の脳内に描かれていたビジョンは次の瞬間、全く思いもよらない展開で塗りつぶされた。
最初に感じたのは遠心力だ。
そういう言葉は知らなかったが、ぐるんと体が勝手に回転して空に舞い上がった時に手足が広がった。それが遠心力のためだった。
続いて落下感。
そう、落ちていた。地上にしっかりと立ち、駆けながら突進していったのに落ちていたのがパニックを通り越してセオフィラスの思考を完全にフリーズさせた。ただ、落ちているということを感じて、反射的に体を庇おうと突き出した腕を――その手首をやさしく捕まえられて、どすっと自重が何かに受け止められたのを感じた。
「っ……ぇ……? ぁ、お……ばけ……?」
落ちたセオフィラスを抱きとめたのはおばけ――ではなく、生身の人間だ。しかし、セオフィラスはおばけと信じて疑っていない。
「さっきはありがとう――」
思いがけないお礼にセオフィラスは、自分の顔を覗き込んでいる男を直視した。
随分と汚れ、みすぼらしいことになってはいるが若い青年で――顔つきはマイルドで、中性的とも言えるものだった。もっとも伸び放題の髭やら、乱れた髪の毛やらのせいでこの時にセオフィラスがそう認識することはできなかったが。
「きみのおかげで、5日ぶりに……まともな食事にありつけたよ」
「…………ど……どう……いたしまして……」
理解は何も追いついていないが、お礼を言われたので素直にセオフィラスはそう返した。
ゆっくりと青年はセオフィラスを降ろしてくれた。いくら6歳児だとは言え、地上8メートルから落下した20キロほどの男の子を危うげもなく受け止めた青年の体はしなやかだが力強い筋肉に覆われている。
「わたしはアトスというんだ。きみの名前を教えてもらえるかな?」
「セオ……だよ」
「セオくんか。きみがくれた鳥のおかげで、ようやく一心地つくことができた」
「……おばけ?」
「うん? おばけ? ……おばけがいたのかい?」
「ちがう」
「うん?」
「……おばけ?」
指差されて再度尋ねられ、アトスと名乗った青年はしばしまばたきを繰り返した。
それから、ああっと合点がいって手を打つ。
「ははは……そうか、そうかい。わたしはおばけではないよ。
ちゃんと触れただろう? それに足もあるし、ほら、手を取り合えば熱を持っていることが分かるだろう?」
言いながらアトスがセオフィラスの手を取って言い聞かせる。
確かにちゃんと血が通い、ぬくもりがある手だったが、それよりもセオはゴツゴツしている彼の手の平に驚いた。
「カチカチでボコボコ! なんで?」
「ふふ、どうしてだろう。大人になるとこうなってしまうかも知れないな。きみのお父さんはどうだい?」
「ちがうよ、ぜんぜん」
「そうなのかい?」
首を振られたのでアトスは改めてセオフィラスの服装を見た。
汚れてはいるし、着古しのものではあるが襟のついた上衣。裾が切り詰められているが、生地はしっかりしている下衣。なるほど、とアトスは悟った。
「きみは貴族なんだね」
「どうしてわかったの!?」
「ふふ……大人になれば分かるかも知れないよ。ところで、教えてもらいたいんだけれどね、きみの住んでいるところはどこに――おや?」
アトスが顔を上げたので、セオフィラスがその視線の先を追った。
木立の中からミナスと、ヤコブという若い男が現れたところだった。向こうがこちらの姿を認め、セオフィラスが父を呼ぼうとする――が、それよりも彼らの方が早かった。
「ぐ、グラッドストーンか!?」
「セオ坊ちゃんから離れろぉっ!」
目を見開いたミナスの驚きの声に続き、ヤコブが念のためにと持ってきていた剣を引き抜いてアトスに襲いかかっていた。