王都へ ③
クーズブルグの港はヘクスブルグに劣らない大きなものだった。しかし、港と、そこから先への街道こそ立派なものの、港という機能をそっくりそのまま大きく作ったばかりの場所であった。
「このクーズブルグはグライアズローへ海からの荷を受け入れるために作られた港です。ここからグライアズローまで、馬車で数時間という距離ですから、今日の内に到着するはずですわ」
船を降り立ったベアトリスが腰に手を当てて説明する。
が、アトスに肩を貸されながら下船したヤコブがどさっと尻を地に置いて、その場でがっくりとうなだれる。
「あ、あああ……揺れて、ない……揺れてない、地面……恋しかったぁぁ……」
「ヤコブくん、大丈夫?」
「放っておいて大丈夫ですよ、ゼノ坊ちゃん。これは体が頑丈で病気にならないことだけが取り柄ですから」
「カーターリーナー……?」
「師匠、師匠っ、ねえねえ、あそこっ! 強そうな牛!」
「ええ、あれは立派ですね。乳牛でも肉牛でも、家畜でもないでしょう。しかし、そうなると何の牛なのか……」
「牛同士を戦わせる見世物が流行してるそうですよ。勝った牛の持ち主は賞金ももらえるとかで、商人も貴族も暴れ牛をたくさん捕まえたりしてるんだとか」
「強そう! 黒くて、ゴツゴツしてる!」
「それにあの目……あれは戦う雄の眼差しです」
口々にあれこれ言い合っている面々を前にベアトリスの額に青筋が浮かんだ。
「お黙りになりなさい!!」
彼女の一喝でわいのわいのと盛り上がっていた面々が口をつぐむ。
「あなた達には緊張感というものがないのですか! これからグライアズローへ向かうというのに、あなた達は観光気分ですか! さっさと出発をしなければならないのだから、ヤコブ! あなたは早く馬車の支度をしなさい! 馬はすでにこちらへ用意させているはずですわ!」
「い、いや……俺まだ船酔い――」
「やりなさい」
顔を青くさせたままヤコブが枯れた老人のような表情をし、それを気遣ってゼノヴィオルがぽんぽんと肩を叩いて慰めた。
グライアズローに向けて馬車が動き出したのは、それから数刻ほど過ぎたころだった。
どうにかこうにか船酔いから回復したヤコブとアトスが御者台に座った。馬車の中にはセオフィラスとゼノヴィオル、ベアトリス、カタリナ、そしてサイモスがいる。
「サイモス、グライアズロー到着後の予定について説明をしてあげなさい」
「はいはい……」
「返事は一度でけっこうよ」
「……それじゃあ、説明をさせてもらうよ」
「先生と仲悪いの?」
「悪くはないさ。ただ合わないっていうだけでね」
「無駄口はけっこう」
セオフィラスの質問に肩をすくめながら答えたサイモスは、ベアトリスに睨まれてまた辟易とした顔をする。
「それでは、姉上のために——」
「わたくしのためにするべきはなくってよ」
「……グライアズローにクラウゼンの別宅がある。そこに宿泊をする」
「広いですかっ?」
「本邸ほどじゃないけれどね。遊びたいんなら、かくれんぼくらいにしておくれ。走り回って、高価なものを壊したりしないようにしてくれれば、まあどうだっていいけどね」
「ゼノ、着いたら探検な」
「う、うん」
「続きを早くしなさい」
「だ、そうだよ。これ以上は雷が落ちそうだから、さっさと進めよう。明日の昼過ぎに継承の義を執り行うことになっている。だから今夜から、そのための準備が必要だね」
「準備って何するんですか?」
「継承の義で王に謁見するわけだから、きちんとした服装にならないといけないのさ。ついでに、明日の晩にはマルクースク男爵の舞踏会もあって、そこで姉上が王都の貴族達にキミを初お披露目するから、その礼儀作法についてもみっちり覚えなくちゃいけないからね。でもって、その次の晩には——」
「あ!」
「……何ですか、姉上? 話を中座させないように、折角、話していたのに」
うんざりしたようにサイモスが言うと、ベアトリスがキッと眦を吊り上げて弟を見据えた。静かに目を逸らしながらサイモスは口をつぐむ。
「……セオフィラス」
「はい?」
「…………あなた、ダンスの経験は?」
「ない……です」
「ゼノヴィオルも、当然ないわね?」
「はい」
「……もしかして、姉上。彼らに、教えてなかったんですか?」
「ええ、そのもしかしてよ! いけなくて!?」
「開き直らなくても……」
「お披露目のためにあれこれと計画してきたのに、ダンスのことなんて完璧に忘れてた……。こんなことなら船で仕込んでおくんだったわよ……。でも運動神経は悪くはないのよね? ね? そうよね、カタリナ?」
「一応、坊ちゃん方はアトスさんに鍛えられていますので」
「一応って何、カタリナ?」
「そんなセオ坊ちゃんだからです。他意はないですよ」
「たい、だって、ゼノ。知ってる?」
「悪気はないよってことだと思う……」
頭を抱えるベアトリスをよそに兄弟が囁き合い、それをカタリナはほほえみながら眺めた。
「いいわ、今決めましたわ! 継承の義の準備以外、これ全てをダンスレッスンに費やします!」
「ダンスって大事なんですか?」
「いや、特には」
「大事よ! 変なことを教えるんじゃないわよ!」
「言っても、ダンスをするなんて年に1度、あるかないかじゃないか……。それが上手かろうが、下手だろうが、周りに何か言われるでもなし」
「言われるわよ。何とかのご子息は、あの年でまともにステップも踏めないなんて本当に将来、大丈夫なのかしら、とか」
「そりゃご婦人だけさ……」
「い、い、え! それが大事なのですわ。よく覚えておきなさい、セオフィラス、ゼノヴィオル! 世の中、男どもが何もかもを動かしていると勘違いしがちだけれど、女が陰から本人にさえ気取られることなく動かしていることだってごまんとあるのよ!」
「って、思ってるだけ――」
「お黙りなさい、サイモスっ!」
「痛ったあああっ!?」
ヒールで爪先を思いきり踏まれてサイモスが飛び上がりかけ、座ったまま悶絶した。
「今のはサイモス様のお口が過ぎたかと」
「よく覚えておきマス……」
片言になりながらセオフィラスが言い、ゼノヴィオルもこくこくと必死に頷いた。2人ともヒールで思いきり踏まれる痛みは容易に想像できた。そしてベアトリスの逆鱗には触れるまいと心にも誓った。
「ああもうっ、とにもかくにも! ダンスよ! 踊りを覚えなさい、セオフィラ――きゃっ!?」
いきなり馬車が横滑りをしながら止まって、5人が慣性に振り回されてもみくちゃになる。
「何でいきなり、こんな動きをするのよ!? 御者!?」
「せ、先生が壊れた……?」
「いや、普段が猫被ってるだけだよ……」
「じゃあこれが本当の先生?」
「そうですよ。ご存知なかったんですね」
「あなた達っ! 早くどきなさい、そこにいられたら外へ出られないでしょう!?」
カタリナの腕の中に丁度収まっていた幼い兄弟に言うと、2人が慌てて起き上がって馬車を出ていく。それに続いて、ベアトリスが自分の弟を踏み越えながら馬車を降りる。
「一体何がありまして!? どんな手綱の握り方をすれば、あんな風に馬車が滑って――」
クーズブルグとグライアズローを結ぶ大きな石橋の手前に馬車は差し掛かっていた。しかし、そこが人の集団によって封鎖されている。たった今まで馬車を牽いていたはずの2頭の内の1頭は地面に横倒しになっており、もう1頭はどこかへ走り去っていた。
「あまり前へ出ないようにお願いしますね、皆さん。どうやら悪党のようですから」
「坊ちゃん達、危ないから下がってなきゃダメっすよ」
「山賊……? こんな王都近辺に出るなんて、どれだけ愚かな集団なのかしら……」
石橋を塞いでいるのは50人ほどの集団だった。前列に弓を持った男達がいる。倒れた馬は矢で射られてしまっている。セオフィラスとゼノヴィオルは馬車から降りてすぐ、向こうで待ち受けている集団を見てアトスの後ろへ隠れるようにした。
「ここは俺らが封鎖中だ、封鎖中! 通りたければ、金目のもんをぜぇーんぶ置いていきやがれ!!」
「あの人数を相手に、こちらは2人だけ……。大丈夫ですの?」
「何があったって、俺が守ってやらあ。そのために俺は、ミナス様に残れと命じられたんだ」
「……ヤコブくんの意気込みはともかく、厄介なのは飛び道具です。わたしが突っ込んでいけば、あの程度は雑作もないのですが、残ったあなた達が矢で射かけられては何も意味がない。そこでヤコブくん、キミに彼らの守りをお願いします」
「何を言ってやがる。俺だってミナス様に剣を習ってたんだ、こういう時にこそ――」
「あなたがここにいるのは、彼らを守るためでは?」
「っ……」
「そういうわけで、馬車の陰に隠れながらの防衛を。それから、セオくん、ゼノくん」
「はいっ!」
「何ですか?」
「あんまり、わたしのことは見ないでくださいね。恥ずかしいですから」
「恥ずかしい……?」
「では、参りましょう。王都到着前の、肩ならしですね」
「不要な肩ならし――っていうか、正気で1人であいつらを相手にするつもりですの!?」
ベアトリスの疑念をよそにアトスが腰に佩いていた剣を引き抜きながら歩き出す。
「何だぁ? たった1人で出てきやがって。降参するのを伝えにでも来たのかよ?」
「いえいえ、まさか。ただ、ここを通らせていただきますが、あなた達にあげられるものもありません。ですので、大人しく通してくれませんか?」
橋の前へ陣取っていた集団にアトスがにこやかに告げる。
と、すぐに爆笑が上がった。
「はははっ! そんなわけに、いくかよぉっ! てめえら、やっちまえぇぇっ!!」
「おおおおおおっ!」
ビン、ビィンと無数の矢が放たれて、弦の振動する音が響き渡った。雨のように矢が弧を描きながらセオフィラス達の方へと降り注ぐ。それを無視し、アトスは一歩目を踏み出し、風のように駆け出した。
「なぶって殺しちまえ! 誰も俺らに逆らおうなんざ思えなくなるようになぁっ!!」
「やれやれ――何て浅ましい」
静かに、哀れむようにアトスが呟く。
剣を振りかぶった男が迫り、アトスはその脇を何ということもなくすり抜ける。無視されたと感じ、その男がすぐ振り返ろうとした時に彼は違和感を抱いた。それは微かな痛みから始まり、次の瞬間に視界がごろりと落ちて永遠に意識を取り戻すことはなかった。
胴が真っ二つに別れて死に絶えた仲間の光景に、無法者集団は少なからぬ恐怖を抱かされる。
アトスはいつも顔に携えていた柔和な笑みを消し去っていた。怒りも焦りも哀れみもなく、ただ無表情だった。
「ひ、ぃぃっ!?」
剣戟が断続的に響く。
一撃を防ごうとも二撃目で死んだ。
先に仕掛けようとも難なく受けられ、返された刃に切り伏せられる。
血があちらこちらに撒き散らされる。
人の臓腑から溢れた臭気と、血の香りは風に乗って馬車の方まで届いてきていた。
「何だ、ありゃあ……?」
「っ……」
「嘘よ、あんな……人外じみた強さ……」
ヤコブは目を疑い、ゼノヴィオルは目をつむった。ベアトリスは自分の目で見たものを信じきれず、アトスの存在を疑った。その中でセオフィラスは、ただ目を大きくしていた。
次々と襲いくる相手の間をすり抜けるように移動し、的確に攻撃し、地に倒していく。
その度に上がる血と、悲鳴。それは一方的な殺戮でしかなかったが、セオフィラスの目にはただただ、アトスのその強さのみが克明に刻まれていく。圧倒的であった。
ものの数分もせぬ内に、彼らは生きている者だけで逃走していた。
逃げる者、戦意を失った者をアトスは捨て置いて、向かってきた者だけを全て斬り殺していた。
「――ああ、しまった……」
動かぬ死体の中で、唯一の動体となったアトスが額を抑えて呟く。
「これほど血を浴びては、王都へ着いてすぐにセオくん達と都の中を見て回るなんてできない……」
剣から滴る血を、一度振るうのみで払って飛ばしてからアトスは自分の未熟さにしょげていた。




