王都へ ①
「王の住まう、ボッシュリード最大の都・グライアズローへ参ります。
そこでセオフィラス、あなたはアドリオンの正当なる領主になるべく、継承の儀式を受けなければなりません」
早朝から始められた稽古が終わり、ぼろぼろになって屋敷へ帰ってきたセオフィラスとゼノヴィオルはカタリナに告げられて執務室へ赴いた。そこでベアトリスが2人にそう切り出した。あらかじめ知っていたアトスは部屋の隅で腕を組んだまま静かに目を伏せる。
「グライアズロー……」
「王様のすんでる? お兄様、いいなあ……」
ちょっと口を尖らせたゼノヴィオルにベアトリスは――彼女にしては珍しく、やわらかな笑みを浮かべた。
「あなたも行くのよ、ゼノヴィオル」
「え? ……本当ですか、先生?」
「ええ。必要なもの、大切だと思うものは全て持っておゆきなさい」
「旅する時の荷物は最低限ってヤコブくんが言ってた気が……」
「お黙りなさい、セオフィラス。あなたはたまに余計な一言が出るわね」
「……ハイ。でもゼノ、良かったな。お前、いつもアルブス村の外のこと知りたいって言ってたし」
「うん……。えへへへ……ありがとう、お兄様。お兄様のお陰だね」
「ま、まあな?」
グライアズローへの旅が決まったことを兄弟は無邪気に喜び合う。
アトスはふつふつと嫌な気分が沸いてきたので、余計なことを言わぬようにと静かに執務室を出ていった。
旅支度はすぐに済み、出立の日となった。
まだレクサは小さいから、という理由で留守番が決められていて、兄2人がどこかへ行くのを羨ましがってむくれ、癇癪まで起こしたが根気強くセオフィラスが説得をし、ちゃんとお土産を持ってくるということでどうにかこうにか納得をさせた。
グライアズローにはクラウゼン領の都市ヘクサブルグから船で向かうことに決まった。
向かうのはセオフィラス、ゼノヴィオル、ベアトリス。そしてアトス、ヤコブ、カタリナの6人だ。馬車に詰め込まれた荷物はゼノヴィオルの物が多かった。着替えがたくさんあれば、本もたくさん詰め込まれた。その荷造りは使用人達が「あれもあった方がいい」、「これもきっといるだろう」と相談をしながら行ったものである。
「ゼノ坊ちゃん……お元気で」
「体には気をつけてくださいね……」
「レクサお嬢様のことは任せてくださいね」
隠しごとというのが苦手な、純朴な使用人達は涙ぐみながらゼノヴィオルに別れの言葉を告げる。それをベアトリスは苦々しく見つめ、ヤコブは拗ねたようにそっぽを向いて御者台に座っていた。
「何か……変だったね」
「変だった。それだけゼノが心配なんだ、きっと」
「お兄様の方が心配だと思うのに……」
「何だって?」
「ご、ごめんなさい……」
出発してすぐに兄弟は様子のおかしかった使用人達のことを気にしたが、すぐに話は別の方向へ逸れていった。兄弟はアトスとヤコブとともに御者台に座っている。最初は馬車の中に来なさいとベアトリスに言われたのだが、窮屈だから嫌だという旨の言葉を包み隠さずぶつけたら呆れられて許されている。――男4人が並び座る御者台は、いささか窮屈になってしまうのだったが。
「そう言えば坊ちゃん方、剣の方は順調ですか?」
「順調ですよ、ヤコブくん」
「その喋り方、よしてくださいませんかねえ……? アトスっぽくて、ヤだ」
「おや」
「じゃあ普通にしていいですか、ししょー?」
「本人が望むのなら、それがいいんではないですか?」
「だってさ、ヤコブくん。これでいい?」
「……いいっすよ、もう……。と言うか、順調なんですか、ほんとに? いまだに、鬼ごっこやら何やらしかしてないーってカタリナに聞いてますけども?」
疑うような視線をアトスへ送りながらヤコブが言うと、セオフィラスも、うーんと腕を組んで大仰に考え込むような仕草をした。
「ゼノとは10回やって6回は絶対勝てるけどね」
「そりゃ、セオ坊ちゃんの方が年上なんですからそうでしょう。そもそも、ゼノ坊ちゃんは学者肌って言ってアクティブなことよかあ、頭を使う方が似合いってもんですよ。ねえ、ゼノ坊ちゃん?」
「学者さん……になれたらいいな。そうしたら、ベアトリス先生みたいに物知りになって、領主になるお兄様のこと、たくさん助けてあげられる」
「いいよ、別にそういうの……」
「でもお兄様より頭いいもん……」
「ゼノ!」
「ごめんなさい!」
ほほえましい会話だったが、ヤコブは不意に目頭を抑えて顔を伏せた。
「どうしたの、ヤコブくん?」
「目にゴミとか入った?」
「……いや……何でもないっすよ……」
アトスは黙して、黙ってゼノヴィオルの頭を撫でた。何で急に撫でられたのかとゼノヴィオルはアトスを見上げたが、彼はほほえみを浮かべるのみで真意は分からなかった。
セオフィラスはアトスとヤコブの様子を見ながら、やはり何かがおかしいと嗅ぎ取ったのだが具体的にどうおかしいのか、というところまで考えは及ばなかった。当のゼノヴィオルは、稽古の時は鬼や悪魔、あるいはそれ以上の邪悪な存在にしか思えないアトスに撫でられて呑気に嬉しく思っていた。
夜になって食事が済めば、あとは馬の世話をしてから眠るだけとなる。
馬の世話はヤコブの担当で、彼は早々にカタリナの作った食事を平らげるなり仕事に取りかかっている。セオフィラスも馬は好きなのでその手伝いを申し出た。兄に遅れて食事を食べ終えたゼノヴィオルも、兄がそうするのならば、とばかりに手伝いを始めようとしたのだがベアトリスに呼ばれて馬車の中に招かれた。
「先生、どうかしたんですか?」
「……あなたには早めに、このことを告げておいた方がいいと思いましたの。あなたは賢い子ですから、きっと理解してくださると信じています」
「……先生?」
ベアトリスの授業を受けるようになってから、ゼノヴィオルはベアトリスを先生と呼び慕うようになった。たまに空いた時間が彼女と被ることがあると、自分からベアトリスに勉強の質問をしにいくほど懐いている。だが馬車の中で2人きりで向き合って話を始めると、とても居心地の悪いものを感じ取った。
「あなたはセオフィラスを……あなたの兄のことを、大切に想いますか?」
「……はい。お兄様は、ちょっと横暴なこともあるけど……大好きです」
「これからあの子は領主になりますが、実権を手にするのはずっと後のことになるでしょう。少なくとも5年か、6年か……。それまでわたくしが監督者として、セオフィラスに代わってアドリオンの代行領主をするつもりですわ。ですが……恐らく、それを良くは思わないものがグライアズローにはいらっしゃいます」
「……? はい」
「その者を大人しくさせるための手段を考えました。こうでもしなければつまらぬ嫌がらせでアドリオンの発展が遅れ、ひいてはその男をつけ上がらせかねないためです。率直に申し上げます。心して聞きなさい、ゼノヴィオル」
「はい……」
「あなたをグライアズローへ残していきます。ユーグランド卿が手を伸ばそうと思えば、簡単に届いてしまう場所へ。そこであなたは愚鈍なる白髭豚野郎の機嫌を取りながら、グライアズローから遠く離れたアドリオンへちょっかいを出そうという気を起こさせないようにしなさい」
言葉をなくしてぱちぱちとゼノヴィオルはまばたきを繰り返した。
「……僕だけ……ですか……?」
「ええ」
「ユーグランド卿って……どういう、人ですか?」
「口にするのもおぞましいような性癖を持った、歪んだ性根のクソミソ以下の男です」
「……何を、されるんですか……?」
「分かりませんが……あの男には小児性愛の気もありますから……痛く、苦しく、著しく尊厳を損なわれるようなことさえしてくることも考えられます」
「……?」
分かってはいないながらも、ゼノヴィオルは不安そうに眉根を寄せた。
「……あなたが、あのクソ白豚陰険ハゲデブ男をどうにか惹きつけてくれればこそ、アドリオン発展の時間が稼げるというものなのです。有り体に言えば、生贄です。……ゼノヴィオル、これはあなたにしかできないことです。こうして話をしているのは、あなたの意思を問うためでもなく、これからこの役を押しつけざるをえないから少しでも決意を固めておきなさいという通告に過ぎません」
ベアトリスは小さなカーテンがかかっている小窓の方へ目を向けた。
ぽかんとしたままゼノヴィオルはベアトリスを見ていたが、少しして視線を落とす。
そのままじっと沈黙が続いた。
やがて、ゼノヴィオルがベアトリスを見る。
「……それが終わったら……また、お兄様や、レクサと一緒に暮らせますか?」
不安そうに瞳を少し潤ませてゼノヴィオルが尋ねる。
意外そうな顔をしてから、ベアトリスはすぐに表情を引き締めた。
「ええ、もちろん。ただし、それがいつになるかは分かりません。5年か、10年か……もっとかも知れません。またあなたがアドリオンの屋敷へ帰れた時には、もうガラシモスもカタリナもいないかも知れません」
「お手紙は……出してもいいですか?」
「……出せるのであれば」
「返事は、もらえますか……?」
「届いて、きちんと……セオフィラスが書くのであれば?」
「そうじゃなくって……あの……」
「何ですか?」
「…………ベアトリス先生から……」
少しもじもじとしながら、ちょっと目を逸らしながらゼノヴィオルが言う。しばし、ベアトリスは真顔のまま少年の言葉を反芻した。
「……え?」
「…………」
「ま、まあ……届いたのあれば、返事を書くくらいはやぶさかではありませんわよ?」
「!」
「あなた……わたくしに何て手紙を書くつもりですの?」
「え? ……お、お勉強のこととか……」
「……そう」
今度は先ほどとは違う沈黙が馬車の中を制した。
が、外で馬のいななく声とヤコブの慌てた声がしてそれを破った。後からセオフィラスの笑い声が届いてくる。
「……あのね、ベアトリス先生」
「な、何かしら?」
「ベアトリス先生みたいに……物知りな、学者さんになりたいです。グライアズローなら、ちゃんとお勉強したら……なれますか?」
「…………分かりましたわ。ただ単に向こうへ置いてきてもいたしかたのないことです。あなたへ与える役目の見返りとして、向こうにある大学へ通えるようにしましょう。最初は家庭教師をつけます。然るべき知識を身につけたら大学へ入れるようにいたします。……もし、一廉の学者にでもなれればアドリオンのためにもなるでしょう。だから……がんばりなさい、ゼノヴィオル。何があっても」
「……うん」
「よろしい。外のバカ笑いが気になるのなら、行きなさい。ただし、セオフィラスにこのことは伏せておきなさい。あなたほど聞き分けは良くないでしょうから……」
ゼノヴィオルが馬車を出ていってから、ベアトリスは腕を組んで静かに物思いに耽った。
自分がアドリオンのためにと下した決断には、当事者の心情など微塵も考慮をしていない。いつかゼノヴィオルに恨まれ、憎まれるだろうとも考えていた。しかし、ゼノヴィオルは無邪気だった。本当に分かっているのか、いないのか、すんなりと受け入れた。だからこそ――いつかその時がくるのだろうと考えると想定していたよりも自分が残酷に思えてしまった。




