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アドリオンの黒狼王  作者: 田中一義
青年期3 クラウゼン戦争
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脱獄者ビート


 グラッドストーンの誰もがクラウゼンなどという、ボッシュリードのこぼれカスも同然の小国と名乗っているだけの一地域とまともな戦争になるなどとは考えてはいなかった。

 しかし開戦から二節も過ぎるころにはどうして、そんな小さい国がこれほど渡り合えているのかとグラッドストーン国民を不安で煽った。

 その中でほんの数人だけが本気になったクラウゼンならばこの経過も当然か、と考えを改めた。

 ヨエルはその1人だった。

 グラッドストーンの王都テラ・メリタの軍人として働いている。1年ほど前に妻のカタリナが家出をしてからというもの、ヨエルは目に見えて不真面目な、いつクビになってもおかしくないほどの不良兵士とひそひそ噂されるほどに落ちぶれてはいた。が、開戦の報せを聞いてからというもの、ヨエルは再び生真面目な一兵士に戻った。周囲のものは国の危機に改心したのだとまたひそひそ噂をしていたが、彼らはヨエルがグラッドストーンの生まれではないとは知らないからそう考えるのだった。


 一般に伏せられてはいるが、ヨエルはどうしてクラウゼンが戦争という強硬手段を取ったのか、という点について考えていた。他ならぬエクトルであると彼は思い至る。

 そもそもエクトルがジュリアスの妻にされるというのは、自分の力不足であるとヨエルは悔いている。そして同じ理屈で最愛の妻を救うために、そのジュリアスの麾下に入るという屈辱も味わっている。

 一度は悔しさも怒りも飲み込み、エクトルと新たな生活を送って穏やかに暮らそうと決めた。しかし妻は去ってしまった。妻への怒りはなかった。ただただ、自分が惨めでヨエルは酒に溺れていった。そんな折にこの戦争だった。

 戦場に出ることになるかも知れないと考えたが、王都詰めのままだった。

 そこでヨエルはこれまでの不名誉を全て一度に挽回してしまおうと考えた。


 エクトルを連れ出してクラウゼンに合流をすること。

 あわよくば、セオフィラスとエクトルの息子もともに。

 敵の配下に加わるという屈辱を晴らすためには、過去の己の力不足という後悔を払拭するためには、これしかないと彼は考えたのだ。

 忠誠心でもなく、愛のためでもなく、己の内から燃え上がった復讐心が原動力だった。

 それ以外にはもう、ヨエルには残っていなかった。


 ヨエルは感情にだけ身を任せることをしない。

 どれほど復讐の黒い炎がたぎっていようと、それに変わりはなかった。

 まずは情報が必要だった。ジュリアスの妻として公表されたエクトルが一体どこで監禁をされているのか。そこへどう忍び込めばいいのか。またエクトルがグラッドストーンで産んだはずの息子はどこにいるのか。

 それから1人だけで囚われの姫君とその息子を別々の場所から連れ去ることができるのか、とも考えた。まず無理だった。それにこのグラッドストーンに敵対することをしようというのに協力者を用意することも難しすぎる。が、協力者には1人だけ宛てがあった。



「久しぶりだな、元気にしてたか?」

「……誰だ……? 元気に見えんなら、目ん玉のビョーキだ、出直せ……」


 協力者を作るためにヨエルが夜中に向かったのはテラ・メリタ近郊にある街だった。交易が盛んであり、この街の上級な品々はテラ・メリタの専門店へ納められる。ここで吟味された上質な食材は王城へと運ばれることになる。

 そんなテラ・メリタを支えるような街だが、ここには多くの犯罪者が収監される牢獄もあった。兵士としての身分で偽った理由を用いて牢獄に入り込んだヨエルは、獄内でも特に厳重な警備の敷かれている奥深くへと入っていった。そうして独房の檻越しに対面をしたのは、2年前にともにグラッドストーンへ来て、護衛の役を担っていたビートである。


「俺だ。ヨエル。忘れたか? 追いつけって言ったのに、ずっと来ないから迎えに来てやった」

「……お前が、ヨエル……? 俺の知ってるあんの若造は几帳面にヒゲも剃ってやがったし、この国の兵隊なんざじゃあなかったと思うけどな」


 静かな声で呼びかけたヨエルにようやくビートは体を向けた。

 ヨエルが手にしている燭台の明かりを頼ってビートが目を凝らす。


「互いに身なりが変わったらしいな。あんたはどこからどう見たって、護衛する側じゃない。護衛を襲う側だ」

「言うじゃねえの……ゲホッ、ゴホッ……」

「バカは風邪をひかないと言うのに、本当に元気じゃないのか?」

「そろそろ死臭でもぷんと香ってくるんじゃねえのか……? こんなとこに閉じ込められて、まだ生きてるってのを褒めてもらいてえもんだぜ……。んで、お迎えに来たって言うからには、何か用事でもあんのか?」

「ああ。……長話はできない。脱獄の時間だ」

「いいねえ、乗った。シャバが恋しくてたまらなかったんだ。……どんだけ閉じ込められてたかも分からねえけど」


 口八丁で騙くらかして借りてきた独房の鍵を使って開け、ヨエルはビートを解放する。しかし檻越しでなく近くで対面すると、ビートから変な臭いが発せられていることに気がついた。薄暗くてはっきりとは見て取れないが、何かしら病気になっていそうだと言うのは分かった。


「形だけだ、一応縛る」

「好きにしろい」


 ビートを縄で縛り、ヨエルは堂々と脱獄の手引きを成功させた。

 街を離れたところで縄を切り、あらかじめ用意をしておいた馬車にビートを乗せる。そしてあらかじめ用意をしておいた粥を差し出した。


「どうせろくなもの食べさせてもらえてなかっただろう。最初は粥で我慢しろ。数日もしたら酒を飲ませてやるから」

「冷え冷えじゃねえの。こんじゃくせえメシと大差ねえよ。肉出せ、肉」

「ない。大人しく食べろ。それとも独房に戻りたいのか?」

「はあーあ、相変わらず頭カチンコチンかよ……。女房に愛想尽かされるぞ」

「……とっくに尽かされた。食いながらでいいから聞いてくれ」


 馬車の中に用意されていた冷えきった粥をもちゃもちゃとまずそうに食べながら、ビートはヨエルの語り始めた話に耳を傾けた。

 ジュリアスからエクトルを逃そうとした苦い戦いから、今に至るまでの後悔と屈辱に塗れた2年間のことを。

 そして今度こそエクトルを奪還し、その息子を取り返すという目的まで聞いてからビートはぼそりと漏らした。


「ま、あれだな……。互いにクソみてえな時間過ごしたんだ、胸張って帰ろうや」


 そう言うなりビートは馬車の中でごろんと横になり、すぐにいびきをかき始めた。

 思ったよりも中身に変化がないことを感じ取り、ヨエルは嘆息してから御者台へ移って馬を歩かせ始めた。やるべきことは多々あるが、ビートを無事に逃すことができた。それだけで今夜は大成功なんだと自分に言い聞かせた。


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