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アドリオンの黒狼王  作者: 田中一義
青年期2 ボッシュリードの異変
218/279

クラウゼン夫妻


「カタリナ、支度は済んだ?」

「はい。大人3人分と、子ども1人分で18食分になるよう食料は買い込みました。それにカートさんのお召し物が傷んで見えていましたので少し買い足しました。坊ちゃんと体格は似ているので着回しもできるかと」

「あれ……? カタリナさん、僕が同行することっていつご存知に……?」

「昨夜、お会いした時にはそうなるものとばかり。……違っていましたか?」

「……さすがカタリナ」

「はい。お変わりなくて何よりです」

「お褒めにあずかり光栄です」


 ジョルディの荷台にはぎっしりとたくさんの食材が詰め込まれていた。

 重いものを牽引させられるはめになっても逞しき雄牛のジョルディの尻尾は今日も元気にぶるんぶるんと振られているばかりで気にしている様子はない。


「それでどちらへ向かわれますか? 船に?」

「いや、実はカートから聞いた話で気になることがあって調べることがある。ちょっと危ないけど……カートを頼りにしてみようかな」

「僕ですかっ?」


 肩を叩かれてカートが少し不安そうに少し声を裏返らせる。

 それを小さく笑い、セオフィラスはシャルルを抱えて荷台へ乗せてから自分もそこへ乗った。荷物の隙間へシャルルと収まると荷台の縁へ腕を乗せる。


「前はよろしく。こっちは俺とシャルの楽園だ。食べものいっぱいのパラダイス。行き先はイグレシア城だから」

「イグレシア城ですと、ここからは北西の方面でしょうか」

「厳密には西北西ですね。道案内は僕に任せてください」

「迷ったらカートのせいにするから間違うなよ」

「ええ、気をつけます……。街中は僕が手綱を引いて歩きますので、カタリナさんはどうぞ、寛いでお座りになっていてください」

「はい。ありがとうございます、カートさん」

「では出発しま――」


 ジョルディの手綱を取ってカートが歩き出し、反転したその時にすぐ足と言葉とが止まった。

 港と市街を繋ぐ緩やかな坂道を物々しい甲冑姿の兵が駆け足で降りてきていた。彼らが行先を塞ぐように整列し、1人が一歩前へと出る。


「セオフィラス・アドリオン様。カート・グリングベール様。カタリナ様。

 クラウゼン邸にてロロット・クラウゼン様がお待ちになっております。お時間をいただけますね?」

「……あの、どうしましょうか?」

「俺はスタブロス、人違いだ。カート、行け」

「しかし……」

「我らが女王はあなたをお待ちです、セオフィラス様。この際、スタブロス様でも構いません。お時間を」

「くどい。行け、カート」

「……し、失礼します」


 整列した兵の横をカートは歩いていく。

 彼らは振り返ったが手を出そうという素振りはなく、ただ見送った。


「……セオフィラス様にご用とは、何だったのでしょう? 本当に、よろしかったのでしょうか?」

「いいよ……。カート、その話はもう終わりにして」

「はい、すみません……」

「シャル、良かったな。かっちょいい鎧の兵隊さんが見れて。戦場じゃないところでなら、かっこいいよな。ああいうのは重いから、悪いことして追いかけられたら後ろへ回って、膝の下をキックしてやれ。転んだらなかなか起き上がれないからな。あ、でもシャルルは悪いことなんかしないか」


 話題を遮るようにしてセオフィラスは明るい声でシャルルに話し始める。

 カタリナとカートはその様子が悲しく感じられた。きっとこれまでにあった触れたくないことも、こうしてシャルルに何でもなかったことのように語りかけて消化させなければならなかったのだろうと。











 クラウゼン邸の住人は、今は領主夫妻だけであった。

 3人の子をもうけた夫婦だが、今はその子ども達の全員が屋敷を出てしまっている。

 1人は己の負った債務のために。クラウゼンの次期当主として有望視されていた長女だった。

 1人は己を取り巻く不運と不幸に嫌気を感じて、半年前に駆け落ちをした。クラウゼンの次期当主として夫婦が期待を寄せていた長男だった。

 1人は夫婦の親の代に決められたアドリオンとの婚約によって嫁入りをした。しかし今、最大の夫婦の悩みとなっている。


「そう……セオフィラスは人違い、と。分かりました、下がりなさい」


 ロロット・クラウゼンは部下を下がらせてから紅茶をそっと口に含んだ。

 それからすぐにノックもなしに彼女の執務室へ入ってきたのは、フェリクス・クラウゼンだった。婿養子としてクラウゼン家となった、痩せぎすの冴えない風貌の男である。


「ロロット……彼は、セオフィラスは来なかった、と聞いた」

「ええ。そのようね、フェリクス。やはりお母様と先々代アドリオン卿の約束は正しくなかったのですね。所詮はアドリオンの血統。……あの娘を託すべきではなかったのね」

「今はそんなことを言っている場合ではない。それにエクトルは、あの子と愛し合い、結ばれたんだ。許嫁であったことが出会いだったとしてもあの2人が夫婦となったことは何も悪いことではなかった。……悪いのは全て、グラッドストーンだ。そうだろう」

「しかし今、そのグラッドストーンと対立する道は、セオフィラスが去ったことで失われました。ヘクスブルグが争いをせず、今後また栄えていくためには……アドリオンとグラッドストーンのテラ・メリタの間の黄金の輸送道として取り込まれた中で足掻く必要があるということです。

 陸路による輸送道よりも、このヘクスブルグを経由した海運の方が多量の輸送を可能となります。現在、稼働のできていない輸送船もこれで再び使い道が生まれることでしょう。

 あまりにも、屈辱ね。……エクトルを王妃とするため、このクラウゼンに活路を与えたのです。ジュリアス・カール・グラッドストーンは。そして過去、セオフィラスとの結婚などはなかったということにするよう求めてきた。

 これを踏みにじれば……グラッドストーンは、力ずくでヘクスブルグを押さえにくることでしょう。そしてクラウゼンという名は消え去ることとなる。

 ねえ、フェリクス。あなたと結婚した時、領主としてわたしはあなたの力や知恵を頼ることはないと言いましたが、今回のことは大切な娘も関わることだから、例外的に相談をしたいのだけれどいいかしら」

「お前が相談……? 答えられるか、自信はないが……」

「簡単なことよ、フェリクス。安心して答えてちょうだい?

 エクトルをジュリアス・カール・グラッドストーンに渡してもいいと、あなたは思う?」

「……待て、答えられる自信がない。愛娘のことを思えば到底、許し難い。しかし我々は領民の生活を預かる立場にある。だからこそ――」

「ええ、分かったわ。ありがとう、フェリクス。決まりね」

「決まり? 決まりとは何が? まだ答えてはいないつもりだが」

「いいえ、答えたわよ。愛娘のことで相談したのだから。

 戦争をしましょう、フェリクス。勝てば領民にもたらされる利益は莫大よ」

「……正気か、ロロット?」

「ええ、もちろんよ、フェリクス。

 戦力差を考えれば正々堂々なんてことはできないけれどね。

 さて……まず何から始めるべきかしら。国境地帯へ兵を増員しましょう。それに輸送船は全てストップ。国境地帯の紛争を陽動にしてジュリアス・カール・グラッドストーンを誘き寄せ、海からテラ・メリタへ向かって一気に本丸を叩きましょう」

「しかしそれだけの兵力は、もうクラウゼンにはないはずだ」

「クラウゼンになくとも他所から借りればよろしいのよ。事実上、瓦解しているも同然の共立同盟国からかき集めればいいし、ボッシュリードでも混乱は広がり、一部の貴族は勝馬がどれかを見極められずに足踏みをしている。けれどグラッドストーンという肥沃な大地を新たに手に入れられると知れば、彼らの野心は刺激できるわ。

 フェリクス、戦の支度を始めましょう。わたし達の愛娘と、その不出来の夫のために」


 フェリクス・クラウゼンは凡庸な男だった。

 大した地位も力もない貴族の四男で、幼少期からただの穀潰しとして家族からは召使いのような扱いを受けてきた。そしてクラウゼンの屋敷に行儀見習いという名目で奉公へ出され、そこで将来の妻と出会った。

 凡庸で退屈な男という評価だったがフェリクスは他人を慈しみ、思いやることはできた。それがロロットと結ばれるきっかけとなって2人は結婚をし、自慢の愛する娘2人と、少し頼りないが愛する息子1人を授かることとなったのだ。


 そしてこの夫婦の生涯における、最大の困難は今、この瞬間に始まった。

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