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アドリオンの黒狼王  作者: 田中一義
青年期1 それぞれの旅路
214/279

青年の名はカート ①


 ヘクスブルグのなだらかな坂道を右を、左を、きょろきょろ見ながら、歩く若い男がいた。連れ合いらしい人の姿はなく、ささやかな荷物を背中に抱えながら、疲れきったような面持ちで歩いている。

 その身なりは薄汚れている。すり切れた下衣の裾。長い距離を歩いたのだろうと思わせ、裾はすっかりほつれてぴょこぴょこと意図が飛び出してしまっている。肩を包んでいる外套にはすっかり汚れが染みついて傷んでもいた。


 背負っている荷物からは1本、突き出た棒がある。

 歩く度、それが右へひょこり、左へひょこりと揺れ動く。


 ひょこり、ひょこり、と棒と顔を動かしながら歩いていくと、坂道の先に屋敷が見える。それを発見すると、青年は足を止めてから、自分の身なりを改めて確認する。肩の汚れを手で軽く叩くが落ちようはずもなく、ほつれまくっている裾を見るが針も糸もないから繕うこともできないと悟る。


「――ううん……」


 悩むような声を漏らし、彼は背を丸める。

 青年の名は、カート・グリングベールという。











「無事に国境を越えられてほっとしました。……落とし格子をご自分であれほど簡単に切ってしまうとは恐れ入りましたが」

「やればできるもんだね。クラウゼン側の要塞もすんなり通してくれたけど、これでクラウゼン卿には俺の存在はバレただろうな……」


 国境地帯の両国の要塞を超えてクラウゼン領へとセオフィラス一行は入った。

 少し道を外れればヴァラリオへと続く山道に入ることもできたが、セオフィラスはまっすぐヘクスブルグへの進路をジョルディに歩かせている。アルブスへ立ち寄るつもりはないらしいとカタリナは見て取っている。


「ボッシュリードや、共立同盟がどうなっているかはさすがに分からないよな……」

「ええ……。グラッドストーンに、いましたから」

「昔はグラッドストーンのことなんて、本当に何も知らなかったな。森を挟んだ向こう側っていうだけしか」

「はい。坊ちゃんが独立を宣言する前のボッシュリードと比較しても、グラッドストーンの方が国力は上のように思えます」

「ユーグランドとジュリアス・カール・グラッドストーンを比べれば尚更分かりやすいね。どっちも許しやしないけど……」

「……はい。ジュリアス・カール・グラッドストーンは、わたしにも、とても許せない存在です。

 ですが――それは個人的な感情に起因する人間関係を鑑みてのこと。わたしのような立場もない人間として、公人としてのあの男を評価するのであれば……彼の国の民であったなら、非の打ちどころはないのかも知れません。ユーグランド卿とは違って」

「……カタリナ」

「あ。すみません、坊ちゃん」

「いや、いいんだけど……この話は終わりだ。これからのことだよ、それよりも」

「はい」


 荷車でじっとしているのが飽きたようで、ジョルディの横に並んでシャルルが歩いている。たまにジョルディを撫でたりしながらのんびり歩いている少年を見てから、セオフィラスは曇り空を眺め上げた。


「とりあえずボッシュリードの東端まで行きたいと思ってる」

「東端、ですか?」

「うん。そうして西側に進みながら、ボッシュリードを見て回る。まずは見ようと思ってるんだ。今のボッシュリードを」

「ボッシュリードを崩壊させると仰っていましたが……何をされるのでしょうか?」

「……シュヴァリエ=ハーティ・ボッシュリードに問う。国王とはどうあるべきか、って」

「問う……? しかし、簡単に会える方では」

「継承の儀のためにグライアズローに行ったのは覚えてる?」

「ええ、忘れられません。……ゼノ坊ちゃんとのお別れでした」

「その時に一度だけ、ボッシュリード国王と会った。それで問われたんだ。領主とはどうあるべきか、って。俺は、分からないって答えた。でも皆を守れるようになりたいって言った。そうしたら、大笑いされたんだ」

「そうだったのですね……。知りませんでした」

「帰りの馬車の中で、先生がひやひやしてたって、サイモスに言われた。先生は否定してたけど、今になって思えば、そうだったろうなって思う。

 俺はシュヴァリエ=ハーティ・ボッシュリードに問いかけて、答えをまず聞く。

 納得できれば、それでいい。納得のいく答えがもらえなければ……その時は、最後の王になってもらうだけだ」


 明言しないまでも、暗殺をするということと同義の発言をしたセオフィラスにカタリナは少しだけ顔を伏せた。

 そして彼女は考えた。――セオフィラスは、ボッシュリードの国王にどのような答えを求めているのだろうかと。


「とにかくヘクスブルグだ。船に乗って東へ行く。ずっと東に」

「はい。船賃は足りるでしょうか?」

「まだまだたっぷりあるよ。それより、俺はクラウゼン卿に見つからないかが不安だな……」

「お会いしたくは――ありませんよね……」


 セオフィラスは答えず、シャルルを手で呼び寄せると抱き上げてジョルディの背へ――自分の体の前に座らせた。

 口こそ利けぬが元気な少年がずっとセオフィラスのそばにいて1人にしないでくれていたことに、カタリナは感謝している。しかしそれも元を辿ればジュリアスがどういう意図であるかは不明だが、エクトルを軟禁していた屋敷に彼を置いたことに始まっている。

 その奇縁についてもカタリナはたまに考えてしまう。

 もう何度も彼女の主は不幸に見舞われてきた。いつか自分も大きくなった主の心に傷を残して息を引き取ってしまうのではないかと考えてしまう。


「シャル、海が見えてきたな。これから行くヘクスブルグは商業が活発なんだ。商業って分かるか? 物を売ったり買ったりすること。だからお金がいるんだ。でも、お金がないところもある。ヘクスブルグに到着したら、お金のこと教えてやるからな」


 シャルルにやさしい声で語りかけるセオフィラスが、いつか見た光景と重なった。

 初めてゼノヴィオルとともにヘクスブルグに向かった時のことだった。あの時も、自分は一度だけ、来たことがあったからと張り切って弟にヘクスブルグという都市について教えようとしていた。


「坊ちゃん」

「ん? 何、カタリナ?」

「何だかお懐かしいです。ゼノ坊ちゃんと一緒にヘクスブルグへ向かった時のこと、覚えておいでですか?」

「覚えてるよ。……覚えてるけど、けっこう、忘れちゃったな。何かあったっけ?」

「いえ。いいんです。あのころの坊ちゃん方はとてもかわいらしかったな、と」

「いつまでも坊ちゃん呼ばわりはするなよな。――って言っても、カタリナからすりゃ、俺はずっとカタリナの坊ちゃんなんだろーけどさ……。シャル、気をつけろよ? カタリナからしたら、お前もいつまでもかわいいシャルのままだからな」


 根っこはずっと、変わらずにいる。

 小さなころのセオフィラスは確かにゼノヴィオルやレクサを邪見にすることはあったが、それでもどうでも良い存在などではなかった。泣きだせばあやしてやるし、泣きじゃくっていれば手を引いて歩いてやる。そんな、ぶっきらぼうな態度しか取らなかっただけで、何だかんだで守ろうとしてあげる。

 背丈が伸びて、今は素直に年下の子を素直にかわいがってやり、何だかんだと教えたがる。

 アルブスでのんびり、元気に育まれたセオフィラスの精神性は今も変わってはいない。


 だからこそ、カタリナは時の流れに残酷さを感じた。

 ジュリアスに攻め込まれてアルブスを守るために行われた戦いの後、戦死者を出したのが己のせいだと自責の念に駆られて牛舎に逃げ込んだ小さな姿を知っている。自分の無力さに涙を流す、大きな重責を負わされた肩の小ささを知っている。

 皆を守りたいと願ったはずの男の子が、どのような理由であろうとも人の命を刈り取ることに躊躇をしない。必要とあらば容易く人を斬り殺すことができるようになっている。

 そう成長せざるをえなかったセオフィラスの運命を、彼女は哀れむ。


 もし、どこかのタイミングで何かが違っていれば事態は好転していたのだろうか。

 そんなことをふと思ったが、どこにも引き返すところなどはないとすぐに彼女は考え至った。

 セオフィラスの行動に全ては端を発したかも知れない。しかし、その後のことごとくは、セオフィラスの望んだ選択などではなかった。幼かったがゆえに周囲が決め、その場その場では残酷でも最善の手と誰もが信じて下した決断の数々が今に繋がっている。


 目を細めてカタリナはセオフィラスの背中を荷車から眺める。

 この道がいつか、セオフィラスの望む未来に続いていることを祈った。

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