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アドリオンの黒狼王  作者: 田中一義
少年期11 月に吼える
195/279

逃走戦 ①


「エクトル様……お加減はいかがですか?」

「ありがとう、カタリナさん……。でも本当に、大したものではありませんから」


 気分が優れないとジュリアスから遠ざかった、その日に本当にエクトルは体調を崩した。宿へ帰るなり部屋にこもり、戻ってきたカタリナが心配してせめて食事をと用意したが手をつける前に胃のものを戻してしまっていた。


「先ほど、またジュリアス様のお使いに人が来られましたけれど具合が悪いのでと、ヨエルさんにお帰りいただくようお願いしていただきました。ですから今はお体を大切になさってください」

「そうですか……」

「ご朝食をお召しになられますか?」

「……はい、ありがとう」

「すぐに支度していただくようお願いしてきます」

「ええ。……ねえ、カタリナさん、やっぱり、待ってくださりますか?」

「はい? 何でしょう?」

「あの……わたくしも、初めてのことで分かりませんの」

「はい……?」

「けれど、最近は月のものがなくて……もしかしたら、と」

「……つまり、エクトル様と、坊ちゃんの……」

「分からないのですけれど……もしかして、と、ふと思いまして」

「産婆さんがいればお呼びいたしますか?」

「ええ……。けれどできれば、人の目を忍んでお呼びいただけますか?」

「お恥ずかしいことではないと思いますが……」

「ジュリアス様に、弱味を見せるわけには参りませんの。お願いです、カタリナさん」

「……では、できるだけ、そうしてみます」

「ありがとう……。お願いしますね」


 勘違いであってほしいとエクトルは祈りながら産婆を待ったが、恐らくは妊娠だろうとその日の内に告げられた。

 時間をかけるほどに、その事実は隠せなくなる。

 しかしジュリアスは一向に取引の話を終わらせようとはしない。むしろエクトルを手に入れようとしているのだということが判明してしまっている。お腹の膨れた姿を見れば諦めるだろうかとも考えたが、もしもジュリアスの目的がセオフィラスを苦しめようというものであれば逆効果かも知れないという恐ろしい考えも生まれた。


 当初の目的通りに取引を進めるべきか。

 一刻も早く、取引を諦めて帰るべきかと考えざるをえなかった。


『エクトル、怪我しないで、病気しないで、無事に帰ってきてくれればいいから、無茶はしないでよ』


 出立の時に見た、愛する夫の不安の色だけに染められた顔を思い出す。

 きっと途中で帰ったとてセオフィラスに咎められることはない。帰って元気な姿さえ見せられれば。悲しませることは、このまま生き別れてしまうことだと知っている。

 恐らく――ただ取引をするのみならば、先んじてジュリアスと顔合わせをしているタルモを通じて行える。それよりもリスクを考慮してグラッドストーンを立ち去るべきだとエクトルは決断を下した。


「皆さんにお願いがございます」


 方針を固め、エクトルは夜中に人を集めた。


「わたくしの提案から始まった今回の旅は、折り返そうと考えております。

 成果を残したいところではございましたがジュリアス殿との交渉は難航し、わたくしは懐妊していたことが分かりました」

「懐妊?」

「あんだけ(さか)ってりゃあなあ……」

「ヨエルさん、ビートさん、エクトル様のお話の最中です」

「す、すまない……」

「明日、ジュリアス様にご挨拶をしてからすぐ発とうと思いますので急ではありますが皆さん、ご準備をお願いします。

 わたくしの力不足のせいで、実りのない旅となってしまいました……。申し訳ありません」

「ま、別に決めるのはお姫様の役だからいいがよ、すんなり帰してくれるのか、あの将軍様はよ?」


 ニタニタと何か期待するようにビートが尋ね、エクトルは表情を曇らせる。


「分かりません……。引き留めるのか、あるいは無関心に帰していただけるものか、読めないところです。けれど引き留められる可能性がないとは考えられませんので、その際はあなた達を頼ることになってしまいます。ご質問には答えられたでしょうか?」

「ああ、悪くない答えだ。おいヨエル、俺は味方だ敵だと分けての戦場は得意じゃあねえんだ。頭に入れておけ」

「それなら、あんたはエクトルだけの護衛ということも覚えておけ」

「……つまんねえこと思い出させやがって……」

「話は理解した。ジュリアスの部下はこれまで確認している限り、すぐ動かせるのが50人ほど。こちらの約10倍の戦力だが、その大人数がゆえに即応能力は低いだろう。戦力の逐次投入が愚策というのはどこでも通用する戦の常識だろうから、武力的に引き留めに来られた場合は2度の戦闘が予測される。

 まずは挨拶の最中。ここで仕掛けられた場合、ジュリアスを相手取る必要がある。エクトルを連れ出し、馬に乗せることを優先させる。

 その後、すぐ追手が出された場合は何人かで足止めをする必要があるだろうが、人数を欠いてアルブスまでエクトルを守りながら帰還するのはリスクが高まる。……そこで提案だ。これから逃走経路の確保をしにいこう。あらかじめ落とし穴なりを仕掛けたり、伏兵を配置しておいて合流しながら逃げるという方法を考えている。異論のある者は? ああ、ただし、お前らの酒を取り上げることもできる権力者が俺ということを頭に入れたまま発言しろ。……ないな。だったら、すぐに出るぞ」


 ビートを残して男達は逃走用の罠を仕掛けに出ていった。

 エクトルはカタリナに体を気遣われてすぐ床につき、ビートは久しぶりに暴れられると期待をしながら抜かりなく剣の手入れをしてから酒をかっ食らって眠りについた。


 翌日、ジュリアスの使いは朝の少し遅い時間に迎えに来た。

 だが夕刻に会うと約束して追い返して、帰り支度を進めていった。

 全ての支度が整ってエクトルはジュリアスの待つ屋敷にビートとヨエルを連れて向かう。他にカタリナを含めた3人が後から宿を出て、屋敷の近くに馬とともに待機をした。



「――気分は、どうだね。心配をしていたのだが」

「お気遣いいただき感謝いたします、ジュリアス様。

 しかし、思うほど良くならず、わたくしは国へ帰ろうかと思いました。

 どうやらジュリアス様も取引についてはさほどの興味を示されてはいないご様子でしたから……」

「帰る……?」


 普段であれば部屋の外に人を待たせ、2人きりで話をしていたがエクトルが今回は用心のためにビートとヨエルも室内へ入れるようにジュリアスに頼んでいた。断る理由もなくジュリアスは同じ人数だけ自分の部下を入れさせた。

 向き合って座ったエクトルとジュリアスの背後に、それぞれ2人ずつ立っての話し合いとなっている。


「わたしはきみの持ちかけた取引を蔑ろにしていた覚えはない。

 だが、敵国であるボッシュリードから独立したと宣言だけをした、不安定な情勢下にある国家と言えるかも曖昧な相手との取引だ。何かと慎重になる必要があり、時間を要しているだけだったのだがね」

「ではこの場で、取引についての約定を結ぶことはできるでしょうか?」

「性急な取り決めでは互いに不利益を被ってしまう。……あと10日を待ってもらえるかね。そうすれば準備ができる」

「残念ではありますが、明日はもうございませんの」


 目を細めてジュリアスは身を乗り出してエクトルの瞳を見つめた。

 そうして彼女の瞳に揺らがぬ決意の色を見て取ると、ゆったりと座り直す。


「明日はもうない、か。

 ではその通りにさせていただこう。

 エクトル・アドリオン――今、この瞬間よりきみは客人ではなくなった。

 グラッドストーンはアドリオン王国というものは認めてはいない、ボッシュリードの一地域だ。ゆえに拘束する」


 パチンとジュリアスが指を鳴らした瞬間、鮮血が待った。

 剣に手をかけたジュリアスの部下が同時に切り裂かれ、ヨエルがエクトルの手を取っていた。物音を聞きつけて室外に待機していた兵が駆け込み、一瞬で喉笛を切り裂かれて絶命した同僚と、ジュリアスの喉元へ剣を突きつけているビートを見る。


「よう、大将――ちいと、遊んでくれねえか?」

「弄んでもらいたいとは奇特だな?」

「ビート、追いつけよ!」


 ヨエルが怒鳴って駆けこんできた兵に切りかかる。

 多勢に無勢の逃走劇の幕が開いた。

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