ジュリアス・カール・グラッドストーン ①
「――ルプスの弟子が頭目だという連中を野放しにすることはできん」
「これは完全に、してやられたってえやつだろうな。……あのタルモとかいういけ好かねえ美女の呪いに違いねえ。天の一式の得意分野にゃ、人を呪うことも含まれてるらしいぜ?」
軽口を叩いたビートは仲間達からの冷たい視線を受けて降参とばかりに手を頭の上へ挙げた。
人数の減った使節団の6人を取り囲むのは50人以上もの兵だった。さらにはグラッドストーンで英雄と呼ばれるジュリアス・カール・グラッドストーンという将軍までもが来ている。
「あの屈辱は、いまだ忘れられない体験だった。
ほんの子犬でしかないとルプスの縁者を侮り、油断から敗北を喫した。
慢心、油断――いつの間にか、俺は自分の過去に胡坐をかいていたらしいと気づかされた。
反省をしたものさ。
ゆえにもう、油断はせん。まだまだ返しきれんが、少しずつ借りは返す。
あの男に、セオフィラス・アドリオンに対して」
身代金で解放されたという屈辱がジュリアスの中では拭いきれぬ汚点となっている。
そんな彼が「セオフィラスの手の者がグラッドストーンに来ている」と告げられたのは5日前のことだった。情報の信用性はともかくとして、本当であれば儲けもの程度の感覚で彼は監視網を張り、とうとう発見して補足した。
「抵抗してくれて構わん。
多少は楽しみたい」
「お初にお目にかかりますわね。
わたくしはセオフィラスの妻、エクトルと申します。
あなた様はジュリアス・カール・グラッドストーン王子殿下でいらっしゃいますか?」
大勢の兵に囲まれている中でエクトルが馬車を降りてジュリアスに向かって話しかけた。
優雅にスカートの裾をつまみ、少し腰を折る婦女子のマナーを押さえた完璧な会釈だった。クラウゼンに伝わる淑女の嗜み――ではなく、貴族の家に生まれた淑女の嗜みである。ただしエクトルのものはボッシュリード貴族全ての淑女の頂点にほぼ近い完成度である。頂点争いはクラウゼン生まれの淑女で占められている。
「妻だと……? あの子犬にか」
「セオフィラスとは少し前に結婚をいたしましたの。
夫はわたくしが旅に出ることには反対していましたけれど、グラッドストーンを旅した経験はきっとわたくしの一生の宝物になりますわ。
ですから、まずは感謝をお伝えさせてください。
あなたや、あなたのご先祖、雄々しい数多の兵が守り続けたこの国に。ありがとうございます」
一輪のささやかな花が咲くような笑顔に、ジュリアスの表情が強張る。
取り囲んでエクトルを見ていた兵は誰もが、武器を握る手に込めた力を緩めかけた。――クラウゼンの淑女の嗜み・笑顔(無邪気な少女版)である。危機的状況においても顔面の筋肉のみで場を切り抜ける他、社交界で意中の紳士を射止めたり、取引相手への第一印象において可憐さを演出するためにも使える万能の嗜みだ。
その効果は絶大だった。
武器を構えていた兵は戸惑いながらジュリアスへ視線を送ってしまう。
(やっぱりあのベアトリスの妹だけあるのか、エクトルは……)
(ベアトリス様とは違う意味でやはりすごいのですね……)
ベアトリスとの付き合いが長いヨエルとカタリナはそれぞれ、無意識に比較してしまう。
通じているのはベアトリスとは異なった方向での評価であった。
「ジュリアス殿下。
夫より、あなた様へのご提案があって我々は参りました。
どうか、お話だけでも聞き届けてはいただけませんでしょうか?」
「……いいだろう」
「どうもありがとうございます」
「ただし、俺は王族でもあるが将軍だ。殿下とは呼ぶな」
「失礼いたしました。ジュリアス殿の懐の広さに感服いたしますわ」
「この先に街がある。道案内をつけてやるから後から来い。誰か、道案内――」
「はい!」
「自分が承ります!」
「いえ、わたしが!」
「俺が!」
「将軍、わたしに!」
希望者が殺到して包囲を崩して押しかけた結果、興味がなさそうにしていた兵が案内役に選ばれた。
「思ったんだがよ、俺って未だに活躍できてねえよな?」
「ここからが活躍の機会ってことだろ。頼むぞ、ビート」
「頼まれたってよ、あの将軍様……セオよか強えぞ?」
「……勝利することが役目ってわけじゃない」
「難しいこと言いやがって、こんにゃろう」
「あんたの腕が立つから、あんただけが俺達とは違う役目をセオフィラスに与えられたんだ。選ばれなかった俺の嫉妬を買いたくなければ、活躍してくれ」
「それ言っちゃう? 若いな、ヨエル」
ビートはヤフヤーとは違う意味でヨエルの手には負えなかった。
やる気のないジュリアスの部下の案内で街道を進み、ようやく街に到着するころには日が暮れかけていた。宿泊できる場所がないかとまず探しかけた一同を制して、案内役が先導を始めた。
辿り着いたのは煉瓦造りの大きな建物だった。
中は倉庫のようにたくさんの荷物が整列させられていたが、広い空間の半分だけに寄せられてもいた。その空いたスペースでジュリアスが木剣を握り、部下をしごき倒している。攻め込ませては容赦なく打ち返していく。
そんな稽古の場だった。
入ってきた面々に気がついて、ジュリアスが部下を見もせずに打ち払って蹴り倒す。
「宿は取っておいた。食事の支度もさせている。
身なりを整えてから来い。……宿は、ここを出て左に曲がった突き当たりだ」
「ありがとうございます、ジュリアス殿。
ではお言葉に甘えさせていただきますわ。
グラッドストーンの殿方はとても紳士的なのですね」
せいぜい雨風を凌げれば良いだろうという考えで――エクトル以外は――見つけた、ジュリアスが用意させたという宿は立派な建物だった。大きな建物、立派な玄関ホール、しかも4部屋も用意をされていた。
貴族の家に来たかのような待遇だったが、想定をしていたのはエクトルだけだった。彼女は一室に皆を集めると神妙な顔をして話し出す。
「ジュリアス殿は剣の腕だけでなく、頭脳もとても明晰な方のような印象があります。
こうして上等な宿を用意してくださったのは、交渉への期待と、わたくし達への恩の安売りと考えられます。
もしこれから交渉に臨み、相手の態度が冷淡で突き放すものになった場合は、わたくし達が警戒されたと考えるべきでしょう。つまり交渉に手が込みそうで御しにくいという判断です。
逆に交渉がすんなりといき、むしろ相手方から次回の交渉の希求があった場合は御しやすい、与しやすいと、侮られているべきと見た方がよろしいかも知れません。
後者の場合は何かしらの約束が結ばれる際、こちらに不利益な内容が盛り込まれる可能性が高く見られます。その段に至ってからひっくり返そうとするのであれば、そこに至るまでのこの温情を盾にするでしょう。そして難癖をつけ、わたくし達をグラッドストーンに縛りつけようとすることも考えられます」
「それだと、どう転んでもろくなことにならないんじゃないか?」
「はい。ここは敵地ですから」
ヨエルの質問にきっぱりとエクトルが答えてしまい、皆が口をつぐんでしまう。
「ほんで? そこまで予測しておいてどうするつもりだい?」
良くも悪くもビートは空気を読まない。
だが今回はエクトルの説明に面白がっているような尋ね方だった。
「難敵と思われてしまっても構いません。
それでもこの交渉には益があり、食い下がるわけにはいかないと思わせるまでのことです」
「ハハハッ、それって一番難しいことじゃあねえのか?」
「はい。とても難しいことです。
けれどわたくしは、セオフィラス様の妻なので」
「あの坊主、ガキでも生まれたら尻に敷かれるなあ、こりゃ。ハッハハハ!」
「何が面白いんだこいつ……」
「でしたら、早く支度をしてお招きされている食事へ向かった方が良いのでは?」
「いいえ。カタリナさん、礼を尽くすべきというのは当然の思考ではありますけれど、時には待たせ、あるいは約束を違えてしまうことも交渉では選択肢に含まれます」
「焦らすというのか?」
「わたくし達は圧倒的に不利な立場にいます。
対等に渡り合うためにはあらゆる手を考えねばならないのです。
どうか皆さん、わたくしの指示に従ってくださいますようお願いしますね」
ありとあらゆる状況、達成すべき目標、テクニックなどで多岐に渡る交渉術についてもクラウゼンの淑女の嗜みは押さえていた。