嵐の夜
大嵐だった。しかし、その中を一刻も早く先を目指す必要があった。
地鳴りのような轟音が空で唸り、稲光が幾度となく黒雲の中で閃いた。叩きつけてくる雨の粒は大きく重い。ぬかるんだ地面をそれでも前に進まなければならなかった。
「おい、ヨエル! 連中が追いかけてきやがった!」
雨風のぶつかり合う音に普通の声量では会話など成り立たない。護衛の1人に銅鑼声で伝えられ、ヨエルが舌打ちをしながら振り返った。
「俺が足止めをする! お前らはこのまま先を目指せ!」
「無理だ、人数が違いすぎる!」
「お前が一緒に行かねえでどうする気だ!?」
追いかけてくる一団へ単身で立ち向かおうと踵を返したヨエルは護衛の仲間に押し返されるように止められて舌打ちする。
「だったらどうするつもりだ!」
「足止めは俺達でやってやる! お前は行け!」
「ふざけるな! お前らは俺が預かってるんだ、みすみす――」
「うるせえ! てめえの方が若けりゃ、新婚で、出世頭だ!」
「そうだそうだ! 俺らは何にもありゃしねえんだ、どこで死のうが勝手な身なんだ!」
「ふざけてるのはお前らだろうが! そんな理屈が通るか!」
「敵さんが見えてきたぞ!」
言い合いの最中で別の護衛が声を張り上げた。
すかさずヨエルは剣を引き抜こうとしたが、腕を掴んで止められる。
「副隊長殿にゃ、生きててもらわねえとならねんだ。
俺らみてえな荒くれの根無し草に居場所ができて、頼られて知らねえところへ行くだなんて考えたこともなかった。
ヤフヤーが飾りで、ほんとはお前が肝だなんてのは誰もが知ってる。
だからお前は生きろ」
「おい――」
「盾になって奴らを食い止めるぞ!」
「とっとと行け、ヨエル!」
「っ……お前ら! アルブスに帰ったら祝杯上げるんだ、腕1本と喉くらいは残しておけよ!」
「うおおっしゃあ!」
「ぶっ殺して祝杯だ!」
「ヨエルの奢りだ、覚悟しやがれ!」
向かい風の暴風の中をヨエルはまた必死に走る。
背後で戦いの始まった雄叫びが聞こえてきた。振り返らずに必死にヨエルは走る。
嵐の中で誰のものとも分からぬ断末魔が風に乗って届いてきたが、振り返らずにヨエルはただ先を目指した。一刻を争う事態があった。
犠牲を払ってしまった以上、間に合わなければならないという想いが一層に強くなった。
嵐の明けた朝、ヨエルは森の中にある洞窟へと泥まみれで辿り着いた。
入口で見張りをしていた護衛がヨエルを見つけ、すぐに駆け寄って肩を貸す。
「ヨエル、他のやつらは?」
「嵐ではぐれた。それよりもエクトルは?」
「変わらねえ。く、薬は手に入れられたのか?」
「ああ。早く、これをカタリナに」
懐から出した小瓶を渡すと見張り番はすぐ中へと走っていった。入口でヨエルは腰を下ろして座り込む。そうして息を整えながら、残してきてしまった仲間の顔を思い出した。
使節団13人の内、護衛は11人だ。その護衛をまとめ上げる立場にヨエルはいるが、一晩で6人を失った。嵐という天候との戦いや、時間との戦い。それらの悪条件が揃わなければ絶対に犠牲にはしなかったという自負があるだけにヨエルは自分の力不足を痛感し、悔やんだ。
「よう、帰ったか」
「……ビート、エクトルはどうだ?」
「医者じゃねえんだ、分からねえよ。だがてめえまで寝込むことになっちゃあ、それこそ本末転倒だ」
「ああ、そうだな……」
「他の連中はやられたか」
「……ああ」
「人間、いずれくたばるのが道理だ。俺達みてえなのは早死にしやすいってえだけのことだ、気に病むと参っちまうからほどほどにな」
慰められるほど弱って見えるのかと自嘲してからヨエルは泥まみれの服や鎧をその場で脱いだ。身軽になってから体を拭いて、柔かな日差しの当たる岩場の上で横になって仮眠を取ることにした。
硬い岩の上でもすぐまどろんでしまうほど疲れきっていた。
グラッドストーン王国に取引を持ち掛けるための使者として向かう旅路が順調だったのは最初だけだった。
ヘクスブルグから船で陸沿いに回り込むようにグラッドストーンへ向かい、最初に寄港した街でいきなり事件が起きた。タルモが精霊の導きとやらでその港街にしばらく滞在すると言った。しかし早くグラッドストーンと交渉しなければならなかった。
一番の難関であった、グラッドストーン国土への立入りができた以上、タルモの一団と仲良く目的地を目指す必要はないだろうと話はまとまって、13人の使節団はそのまま出発をした。
それからがトラブル続きの日々だった。
交渉材料として厳重に隠して運搬している黄金の塊や細工物が馬車ごと盗まれかけたことがあった。
娼婦が使節団の男連中にやたらと愛嬌を振り撒いてきて、たまには羽根を伸ばそうというような鼻の下を伸ばした声が上がって逗留していたら、次から次へと路銀が消えていくという事件が発生した。遊びに出た連中が揃いも揃って、少しくらいなら、自分だけなら、と着服したせいだった。
少しでも路銀を現地で稼いで補填した方が良いという話になり、遊びほうけた連中で路銀を稼ぐことになったこともあった。が、元々、真面目に働くことができずに武器を振り回すことを選んだ野蛮人の集まりである。まともに稼げないまま、時間が過ぎると判断して時間を無駄にした。
今度こそ気を取り直して道中を慎重に過ごそうとしていた矢先、今度はエクトルが倒れた。高い熱だった。最初は備えていた薬で治るものと考えていたが、一向に熱が下がらなかった。通りがかりの旅人と出会い、この地域の風土病ではないかと正体不明の発熱の正体に当たりがついた。
ちゃんと薬も存在している。だが、発熱から7日目で死に至るという病だというのが発覚したのが、5日目の夜だった。すぐに薬を手に入れるべく近くの薬師のところへヨエルを含めた7人で向かったが、わざわざ薬を手に入れようと考える金持ちを狙った賊が潜んでいた。地の利を取られ、悪天候、そして数の優位に押されて帰れたのはヨエルだけだった。
次から次へと、まるで誰かが仕組んだかのように降りかかってくる災難の数々に気が滅入ってしまう者が多かった。何より、とうとう死者が出てしまったのだ。
本来ならば賊程度に負けるようなことはない。そういう腕自慢が多かったが、悪条件が重なったがゆえに死人を出してしまった。
「――ん、カタリナ……?」
ふと、目が覚めたヨエルは頭の下に柔らかいものを感じて目を開いた。
まだ空は明るかった。瞼を開けばそこにカタリナの顔がある。
「おはようございます」
「ああ、おはよう……。そうだ、エクトルは?」
「薬が効いたようで、先ほど少し和らいだお顔になられました」
「そうか……。間に合って良かった」
「はい。坊ちゃんに合わせる顔がなくなるところでした。
薬を持ってきていただいて、ありがとうございます、ヨエルさん」
「……ああ、だが、礼は帰れなかったやつに向けてくれ。
エクトルが回復次第、また出発しよう」
「はい。……ヨエルさんも、しっかり休んでください」
「じゃあ、もうしばらくこのままいさせてくれ……」
「はい」
カタリナの膝に頭を乗せたまま、またヨエルは目を閉じる。
「……今ごろ、坊ちゃんは何をしているでしょう……?」
「2人きりの時くらい、セオフィラスのことは忘れられないのか……?」
「……難しいようです」
「そう、か……」
結婚をしてからも、あまり態度は変わらなかった。
いつもどこかでセオフィラスや、ゼノヴィオルや、レクサのことを考えてしまう妻に不満がまったくないとは言えない。だが、そんなカタリナだからいいんだろうかとも、少しヨエルは考えた。