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アドリオンの黒狼王  作者: 田中一義
幼少期2 ベアトリス・クラウゼン
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視察の終わり ③




 領内視察に出発をしてから28日を経て、セオフィラスはアドリオンの屋敷へと帰ってきた。

 帰途でも始めの内に視察をした村をいくつか回り、ベアトリスはそこで発生していた問題をことごとく解決してきていた。


 久方ぶりのアルブス村では馬車が帰ってくるなり、村人が手を振ったりして彼らを出迎えた。それを察知してか、あるいは誰かが報せに走ったのか、馬車が屋敷の前へ停まるとゼノヴィオル他、アドリオンの使用人が出てきて一行を迎えた。



「おかえりなさい!」

「ただいま……ゼノ……」

「……おにいさま?」


 嬉しそうに出迎えたゼノヴィオルはぼうっとしたままスタスタと脇を通り過ぎていくセオフィラスを振り返る。いつもと違う様子を目の当たりにして首を傾げる一同は見送りかけたが、開け放たれていた屋敷の玄関へ入る直前で、セオフィラスはくるりと踵を返してきてセオフィラスにリボンの結ばれた本を渡す。


「おみやげ」

「おみやげ? ありがとう、おにいさ――あっ……」


 またふらふらと、心ここにあらずといった様子で歩いていくセオフィラス。

 その変わりように使用人達は顔を見合わせて心配をする。


「カタリナ、カタリナ、セオ坊ちゃん、どうかしちゃったの? 元気がないんじゃない?」


 馬車からヤコブとともに荷物を下ろしていたカタリナにメイドの1人が潜めた声で尋ねる。と、カタリナはうっすらと笑みを浮かべて答えた。


「坊ちゃんが恋をしたんだって」

「恋!?」

「あの坊ちゃんが!?」


 そのニュースは瞬く間に屋敷を出て、アルブス村中に知られるのだった。

 そして、その噂の広がり方をベアトリスはニヤニヤと笑みを浮かべながら聞いていた。











「――というわけで、アドリオン領内で各村落が生産した余剰分食料はクラウゼンで引き取り、その分だけ銀貨をお支払いいたします。ただし、彼らに支払う分は正当な取引額の8割だけ。残り2割はまとめて、四節の頭ごとにこちらへ納めるようにいたします。相違ありませんわね」

「ええ。どうもありがとうございます、ベアトリスさん」


 セオフィラスが屋敷を離れていた僅かな間に、またオルガはやせ細ったようだった。ベアトリスでも最初に顔を合わせた時は少し心配になったほどだった。


「……色々と見て回りましたが、やはりクラウゼンと比べてしまえばアドリオンは酷く発展が遅れています。まずは貨幣制度を導入し、自由な物と人の行き来を促すことで発展の第一歩とする必要があります」

「ええ」

「時機を見て納税方法を物品によるものか、貨幣によるものかを民に選ばせる必要があるでしょう。1年の期間で各村に蓄えられる量に税を抑える必要がありますが、ボッシュリードへ納める分は引き続き、こちらでも多少の立て替えをいたしますので」

「何から何までありがとうございます。本当に助かりますわ」


 弱々しい表情に精一杯の柔和な笑みを浮かべてオルガが言うと、ベアトリスは椅子を立った。


「まだ視察の疲れがあるようですから、今はご報告というだけにしておきますわ」

「……ありがとう、本当に」

「お礼を言われるほどのことではありませんわ。セオフィラスはわたくし――ではなくて、我がクラウゼン家がもらってしまうのですから」

「あら……それは、セオがエクトルお嬢さんに一目惚れをしてしまったっていうお話?」


 すでにしてオルガのところまで伝わっていた噂にベアトリスは気を良くし、得意気な顔をして見せる。


「ええ、もちろん。けれど、至って当然のことですけれど。エクトルはわたくしやお母様によく似て、とてもかわいい娘ですからね」

「まあまあ。ベアトリスさん、良かったら……エクトルお嬢さんのこと、教えてくれないかしら? 知っておきたいんです。将来、セオのお嫁さんになる人のことを」

「ご自分の目で確かめては?」

「いえ……セオとお話しようと思って。先にあなたの口から。

 だってね、あの子ったら、わたしにお土産をくれて……ヘクスブルグや、アドリオンの村の様子はどうだったかとか、尋ねてみてもずっと上の空なんです。カタリナがね、そちらのお屋敷にいる間、お嬢さんのことを遠くから見てばかりで、でも話しかけようとはしなかったとか教えてくれて……。何だか、セオフィラスが女の子を好きになるなんて、まだまだ先のことだとばっかり思っていたから、嬉しくて……。ごめんなさい、親バカのお願いよね」


 遠い目をして見せた彼女にベアトリスは無言で椅子に座り直した。それからオルガと同じ方向を眺めて口を開く。


「エクトルは幼かったころのわたくしと同じほどかわいらしい女の子ですわ。まだあどけなくて、わたくしや、わたくしの弟のサイモンの後をついて回っては、お姉様、お兄様と子犬のようについてくるのです。文字の読み書きの勉強はすでに終えていて、たまに1人で母の個人的な書庫に篭っては朝から晩までずっと本を読みふけっていたり……。ただ愛らしいだけの娘ならば探せばいくらでもいますけれど、エクトルはクラウゼンの婦女らしい知性の輝きをすでに見せているのですわ」

「とっても良いことですね。わたくしは……情けない話、あの人が帰らなくなってしまってから、慌ててガラシモスや、周りの皆に支えられてどうにか領主の真似事をするのが精一杯で……」

「珍しいお話ではありませんことよ。そもそも世の中、女の支配者というものに対して生理的な嫌悪感をあらわにする頭の固い頑迷ジジイども――あら、申し訳ありませんわね、汚いお言葉を。けれども、これはわたくしが常々感じていることですけれど、女というのはただ守られるだけの存在だと主張する謎の勢力が多くて、そのくせにちゃんと守っているのかと問えば頭痛がしそうになるような決めつけばかりで。まったくもって嘆かわしい価値観が跋扈してしまっています。その点、クラウゼンは……」


 オルガとベアトリスの話はしばらく続いた。ベアトリスは一度こうと定めた目的がある限り、それが達されない限りは投げ出さない性格の持ち主だ。しかし、オルガとの他愛のない話はそういった自らが己に課した使命感を束の間でも薄れさせるような気のおけないものだった。











 セオフィラスの修行は毎日欠かさずに行われている。それはゼノヴィオルも交えた遊びという形態を取っていた。しかし、さあ始めようかというころになって、真剣な顔でセオフィラスが口を開いたことでそれは終わりを迎えることとなった。


「ししょー」

「何ですか、セオくん?」


 ジッと、キッと、真剣な顔でセオフィラスはアトスを見上げる。


「……ヤコブくんがね、いってたの」

「ええ。何と?」

「おとこは、つよくなきゃおんなのこをまもれないんだって」

「そうですね。ちょっと違うのは、強さがなければ何も守れない――という程度のニュアンスの違いですが、ある一面だけを切り取ればその言葉は普遍の真実でしょう」


 だからね、とセオフィラスは続ける。アトスは柔和な顔で弟子の言葉を待った。ゼノヴィオルはするすると木登りをし、親鳥が不在の鳥の巣を覗き込んでいる。


「ししょー、ちゃんとしたしゅぎょーにして」

「……ちゃんとした、ですか」

「うん」

「…………うーん」

「ししょー!」

「では、約束をしてくれますか? 修行の時間、厳しく指導をすることになります。しかし、セオくんがもう嫌だとどれだけ喚いても、わたしはどんな手段を用いてでも途中では終わりにしません。それを承知するのであれば今日からでも本格的な修行を開始しましょう。どうです?」

「うん! いいよ!」


 歯切れの悪くなったアトスが出した条件に、セオフィラスは何も考えず答える。

 最近、やっとちょっとだけ前のように距離感が縮まってきたと感じていた矢先だっただけにアトスは少し寂しかった。本格的な稽古や修行をつけるとすれば、それは生半可にはやれないことなのだ。徹底的にやり尽くさない限りは切り上げることさえ許さない。泣こうが、喚こうが、生傷だらけになろうが、極端な話――生命が脅かされようとも、それが必要な修行である限りは助けない。心を鬼にしなければならない。


 アトス自身はそれをできる。

 が、セオフィラスがそれを原因に自分を怖がってしまったら――と考えると気分は良くないから嫌だった。


 しかし。


「分かりました。そこまで言うのならば、今日から本格的にやるとしましょうか……。

 基礎の基礎の基礎程度はこれまで培ったはずですし、どうにかなるでしょう。ゼノくんにもどうするか尋ねないといけませんね。遊びだったから一緒でしたが、ここから先は修羅の道です。彼にも選択肢を用意しなければなりません。ちょっとお話をしてきますから、覚悟を固めておいてくださいね?」


 言ってアトスは木登りを楽しんでいるゼノヴィオルの方へ一歩踏み出したが、それきり足を止めてからセオフィラスを振り返る。


「…………めっちゃくちゃ、キツいですよ。泣きますよ。苦しいですよ。誰が止めようとしても、それをさせませんし。本当にそれでいいですか?」

「うん」

「……分かりました」


 今度こそ肩をがっくりと落とし、アトスはゼノヴィオルに声をかけた。

 やさしい声色でアトスは、可能ならばゼノヴィオルにまで嫌われたくはないなと心の中で思いながらセオフィラスにしたのと同じ説明をする。ゼノヴィオルはあんまり分かっていなさそうな顔で、セオフィラスがやるならやる、というようなことを言ってしまうのだった。



「これが最後ですが、本当にめちゃくちゃにキツいですよ? それでも、やりますか?」

「うん」

「やります」

「……分かりました。それでは、始めるとしましょうか。

 あらかじめ言っておきますが、わたしは決して憎しみをきみ達にぶつけるつもりはありません。嫌いにもなりはしません。――が、稽古の最中はやさしくできません。稽古以外の時なら、怖くなるつもりはありませんから、それだけはよく胸に留めておいてくださいね。分かったらお返事をしてください」

「うん」

「はあい」

「……セオくん、返事」

「っ……は、はい」

「よろしい。では。木登り鬼ごっこから。ただし、今日から本気でやります。そして、捕まえるなり地上に叩き落とします。そうしたら、わたしは10を数えますから、その間にまた木に登っていてください。登れていなかったら、木の上へ投げます。よろしいですね?」


 にっこりとアトスが言って兄弟が返事をする。そうして2人が気に登ったところで、もう何回も行われてきた鬼ごっこが始められた。だがそれは、もう遊びではなかった。案の定、ゼノヴィオルは大泣きをして屋敷へ帰るころには目を赤く腫れ上げさせるほどだった。あまり泣かないセオフィラスも、その日は泣いて怒りながらアトスを嫌いだと何度も言ったのだが、恨み文句を言っている途中で木に投げ戻されては逃げようとし、捕まってまた木から叩き落とされるということを繰り返した。



 アトスが終わりを告げ、さあ帰りましょうといつもの調子に戻ったものの、兄弟は彼に近づこうとせずに屋敷へ逃げ帰った。森の中へ取り残されたアトスは悲しくうなだれたが、とぼとぼと1人で帰るのだった。

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