視察の終わり ②
「あなたは行商の方でしょうか。もしよろしければ、こちらを引き取ってお金に換えていただきたいのですが」
アトスが露店を出していた男に声をかけ、何か物品を見せ始める。
それをセオフィラスは興味津々に見る。
「何だい、こいつは? 綺麗だが……一体何やら、見ても分からねえな」
商人は見せられた品を指でつまみ、太陽にかざしながらしげしげと見つめる。まん丸の物体だった。黒く、光を受ければ照りを見せる光沢がある。
「珍しい動物の眼球です」
「が、眼球って……目玉かっ?」
「はい。わたしの故郷では縁起が良いと言われていまして。これを身につけて病魔から体を守り、災いに睨みを利かせて追い払ってくれると」
「そ、そうなのかい……。し、しかし、目玉そのものっていうのは少し不気味だな……」
言いながら商人は渋い顔をする。だが、しばらくそれを見つめてから、懐へ入れた。
「分かった。それじゃあ買い取ろう。20ローツでどうだい」
「生憎と田舎者でして、いまいち物価が分かっていないのですが、20ローツで新品の靴がいくつ買えますか?」
「20ローツなら1セットっていうところさ」
「おや、そうでしたか。ならば500ローツはいただかなくては」
「はあっ!? あ、あんたねえ、そんな高いもんを――」
「おや、申し訳ありません。それなりに良い品でして。分かりました。では別の方にお譲りいたしますので返していただけますでしょうか?」
「……そ、そんなに、こいつはえらいものなのか?」
「ええ。もちろんですとも。よくご覧になっていただければお分かりになると思いますが、気品ある黒い、この光沢は故郷では宝石にも喩えられているのです。そうそう、ヘクスブルグでは真珠が取れるとのことですが、丁度、あれを使ったような装飾品にも似たものが作られたりするんですよ」
「真珠、真珠か……。し、しかし500ローツは高い。あまりにも高すぎる」
「ふむ……。それでは勉強いたしましょう。450ローツ」
「むぅ……」
「分かりました。こちらとしては大切な品ですので安売りをしたくはないのですが……350ローツはいかがです? もうこれ以上は負けられません」
「よしっ、350! ちょっと待っていろ、すぐに用意するからな」
もう一度取り出したそれに商人はチュッとキスをしてから、腰に下げていた袋を外してその口を開いた。中に入っていた銀貨をジャラジャラと音を立てながら一枚ずつ取り出していく。
その様子にアトスがいたずらっ子めいた視線をセオフィラスに向ける。セオフィラスも同じような笑みを見せた。
「よし、数えてくれ。350ローツあるはずだ」
「ええ、どうもありがとうございます。……ひい、ふう、みい、よお……ところで、なんですが」
「何だい?」
「銀貨1枚、何ローツでしょう?」
「……10ローツだ!」
「ははは、ありがとうございます」
こうしてアトスは35枚の銀貨を手に入れて、行商人と爽やかな別れを済ませる。
セオフィラスはアトスと一緒に手を繋いで歩きながら、行商人が人混みに隠されて見えなくなってから楽しそうな声を出した。
「すごいね、ししょー!」
「ふふふ、そうでしょう? コツは、最初にべらぼうな高額を吹っかけることなんです。500と言った時の彼は驚いていたでしょう? 物の価値が分からないのに、大金を払うことはできません。けれど、あのようなものでも価値があるのだと疑ってしまうのです。疑うということは、完全に価値がないと思っている状態より、価値あるものと見なしている状態です。そこから一度に額を下げることで、これはお得だと思わせる作戦なのですよ」
「ほんとうはすごいの? あれ」
「いえ、少年時代に狩猟をしていた時、山ほど集めていたものです。気味悪がられてしまっていましたが、案外、役に立ってくれました。大した価値はないものですよ」
アトスは都で行われている商業活動について、セオフィラスに教えていた。
貨幣というものによって物品の交換が成り立つ、という仕組みについてである。その実践として、物品を売って、それで何かおいしいものでも食べようという授業だった。あらかじめアトスは手持ちの品をセオフィラスに見せていて、それが最終的にどんなものに変わるかと見せつけていくつもりでいる。
「さて、20ローツで靴が買えるということでしたし、これはなかなかの大金に違いありませんね。セオくん、何か欲しいものはありますか?」
「おかあさんにおみやげ!」
「それは素晴らしいですね。けれどお母さんにだけ物をあげても、ゼノくんが寂しがるかも知れませんよ?」
「いいよ、ゼノは」
「いけませんよ。セオくんはお兄さんなんですから」
「……はあい」
「それにゼノくんも喜んでくれると思ったら、色々と選ぶのが楽しくなると思いませんか?」
「ゼノがほしいもの?」
「ええ。何だと思います?」
「…………ほん?」
「本ですか。確かにゼノくんは本が好きみたいですしね。ではゼノくんに本と、お母さんには何を選びましょう?」
「ええっと……おかあさんね、さむそうなことがあるのね。だから、あったかいもの!」
「いいですね。では何か、温かそうなものを探して見て回ってみましょうか」
「うん――あ、はいっ」
「よくできました」
「えへへ……」
2人は夕焼けの迫るヘクサブルグの都を歩く。
大きな都で、街の南側が海になっており、北側が内陸に向いている。東側へ向けて土地が高くなっており、その頂上、海を背にした崖の上にクラウゼンの屋敷が建てられている。逆に西側には大きな港があり、そこではたくさんの船が出入りをしている。都は高低差があり、低層地には商人や職人達が家を構えたり、市を立てるための広場がある。その一方で高層地はクラウゼンの屋敷を頂点とし、裕福な商人達の邸宅や、厳かにして絢爛なる大伽藍が建立されている。
船に乗せられてボッシュリード国内の各地から集められてきた品物を眺め歩いた師弟は広い坂道をゆっくりと歩く。都の入口部分は大勢が密集していてとても馬車が進むには大変なことになっていたが、高層地へ向かうための長い坂道は馬車が数台すれ違えるほどの充分な道幅を備えていた。
「よろこぶかな、おかあさん?」
「ええ、もちろん。きみが心を込めて選んだのですから」
「ゼノもこれでいいかな?」
「さあ、それはお楽しみですね」
「でもゼノだしいっか」
買物をしてセオフィラスが手に入れたのは本と柔らかな毛糸の羽織り物だ。
それらを腕で一抱えにしながら、セオフィラスは意気揚々とアトスと歩いている。
「おや、一際、立派なお屋敷が見えてきましたね。あれがクラウゼンのお屋敷でしょう」
坂の先に大きな屋敷が姿を見せた。広い庭を擁する大きな門戸。その手前に私兵と思しき、軽装の鎧をつけた男が2人、槍を携えて立っていた。アドリオンの屋敷には門もないし、ここが敷地であると見せるための塀もない。だからこそ、その立派さにセオフィラスは驚いて見上げた。
「あなた達は、セオフィラス様と……胡散臭い居候剣士……様ですか?」
セオフィラス達と向かって右に立つ衛兵が尋ねると、アトスがちょっとだけ目を大きくしてからにこりとほほえんだ。
「はい。その通りです。ではベアトリスさんはこちらへすでにお戻りに?」
「いえ、伝言を預かっています。……そのまま、伝えさせていただきますと……」
「はい?」
「……『このわたくしを差し置いてヘクスブルグの観光へ出かけるなど言語道断です! 罰としてわたくしをお迎えに来なさい、セオフィラス!』……だそうで」
「おやおや、感情たっぷりにありがとうございます」
「は、恥ずかしいから言わないでください」
「それともう一点、胡散臭い居候タダ飯食らい剣士殿は迎えに来なくてけっこう……だそうで」
「ふふ、そうでしたか。それで彼女はどこでお迎えを待っているのです?」
「そっちの小道へ行った先のはずです。ベアトリス様はそこでお茶を楽しまれるのが好きですので」
「それなら問題なさそうですね。行ってらっしゃい、セオくん」
「うん」
「あ、そうそう。お花の一輪でも摘んで持っていってあげるといいですよ。わたしに言われたから、というのは内緒でね」
アトスが荷物を預かり、1人分だけ開けられた門をくぐって行く。
セオフィラスは屋敷の前に咲いていた花を一輪だけ摘んでから、衛兵に言われた方へ走っていった。
そこは海に面した断崖絶壁の上で、屋根つきの白いガゼボが建てられていた。
ガゼボにはテーブルセットが用意されており、そこで優雅にベアトリスがティータイムを過ごしている。そして、彼女の傍らにはもう1人がいた。
「あら、いらっしゃったのね、セオフィラス。
紹介いたしますわ。わたくしの妹を。ご挨拶をしなさい」
セオフィラスと同じ背丈の女の子だった。
ベアトリスの隣で、足がつかない椅子にお行儀良く座り、両手でカップを持っていた。彼女はベアトリスに促されると、はいと鈴の音のような声で返事をしてから椅子を降りてセオフィラスに向かって、ゆっくりとお辞儀をする。
「エクトル・クラウゼンです。よろしくおねがいいたしますわ」
夕陽を受けて彼女の黄金の髪が細かなに光を反射した。
人形のように整った美しい顔立ちと、可愛らしいその声。セオフィラスはぼうっと彼女を見つめ、口をぽかんと開けている。いつの間にかぎゅっと摘んだ花を握り締めていた。
「あなたの婚約者よ。もし、この娘に相応しくない男になったら、問答無用で婚約解消させていただくけれど……あら、あなたどうかしたの? ぼーっとして」
ぱちぱちと不思議そうな顔でまばたきをしているエクトルは、単にセオフィラスからの返事の挨拶を待っていた。だが彼女の瑠璃のような瞳に見つめられるとセオフィラスは言葉を失って何もできなくなった。
「……セオフィラス?」
「っ……こ、これ、あげる!」
「え? うん……」
握り締めていた花を押しつけるようにエクトルへ渡し、セオフィラスは走って来た道を戻っていった。その逃げた小さい背中をベアトリスは眺めてから、眉根を寄せ、それからにたりと笑みを浮かべた。
「喜びなさい、エクトル」
「なにをですか? おねえさま」
「あれは惚れたわよ、あなたに」
ぽかんとしながらエクトルは渡された花を見つめ、おもむろに花弁を1枚ずつ放していく。
「おねえさまのいうことがあたってる……あたってない……あたってる……あたってない……あたって、る……?」
「ほうら、お花も当たってるって言っているわ! おーっほほほ! いいこと、エクトル? これは大きなアドバンテージだわ! まだまだ未開拓で田舎臭すぎる、あのアドリオンもわたくしがきっちりとヘクスブルグに一歩だけ劣る巨大な都を備えた領地にして見せるわ! あなたはそこで、セオフィラスの首輪に鎖を繋いで操り、このクラウゼンに莫大な富をもたらすのです! おーっほほほ!」
ベアトリスの高笑いは風に乗り、ヘクスブルグの港にまで届いたとか、届かなかったとか――。