雪上の血 ②
「何事だ、何だこの騒ぎはっ!?」
「敵の襲撃です。殿下、危険ですので馬車へ」
戦いの音を聞いてウェスリーはまどろみから醒めて馬車から飛び出しかけたが、すぐにウェスリーが馬車の下から声をかける。飛び交っている矢を見てウェスリーは大人しく馬車へ戻る。
「一体どうして気がつかなかったのだ!?」
「これほどに雪が降る土地です。ユーグランド卿であれば見抜けたやも知れませんが、我々の見落としかと」
外の状況を確かめてからギリスはウェスリーの馬車へ入って冷静に説明する。
「見落としだとっ? 一体、兵は何をしていた!?」
「ご安心ください、殿下。我らにはロートスがおります。殿下が所有する最強の矛でございます。この程度の雪など、彼らには波打ち際に打ち寄せる海の水も同然でしょう」
ギリスの言葉通り、突撃を開始した共立軍は雪道と待機続きで苛ついていたロートスの反撃に遭おうとしていた。雪の上を駆けるのではなく、長い距離を自慢の槍を使って棒高飛びするように雪原を飛び越えた。頭上から槍を振り回して迫ってくるロートスの集団に出鼻を挫かれ、突撃の勢いが弱まる。
顔面を槍に刳り貫かれ、胴を深々と抉り裂かれ、共立軍の兵が次々と倒れていく。
ロートスの猛攻は、それだけでは終わらなかった。
バーレントの野獣の如き咆哮が戦場に轟いたかと思えば、彼が繰り出した槍の一突きが共立軍を積もった雪ごとまとめて十数人も吹き飛ばし、次の瞬間に巨大な炎が爆ぜた。高炉で溶かされたどろどろの鉄が溢れ出てきたかのような凄まじい熱気を伴い、バーレントの前方の雪が溶け消えてしまう。
「この程度か、俺だけで充分じゃあねえか! 出せっ、てめえらの最強の戦士を!」
雪の溶けた、ぬかるんだ大地をバーレントは駆ける。
「セオフィラス・アドリオンを出せっ! 弟でもいいぞ! まとめて出せ、俺が殺してやるっ!」
馬車の中からバーレントの戦いぶりを遠目に見ていたウェスリーは、目を見張っていた。あまりにも強すぎる。バーレント個人が攻城用の巨大投石器と同等――あるいはそれ以上の破壊をもたらしている。ロートスの初陣を見た時などとは比べ物にならないほど、バーレントの働きは苛烈で、劇的だった。
共立軍も強襲を開始して、僅かな間しか経っていないに関わらず兵を引き上げさせようとしている。
「兵の損害は先遣のかんじき部隊だけでしょうか。少なく済んで――」
「おいっ!」
静かにギリスが敵を退けたことについて分析しかけたところでウェスリーは馬車を飛び降りた。
「殿下」
「何をしている、行け! この機に全て根絶やしにしてしまえ! ロートス、ロートスっ! 撤退などはさせるな、1人残らず殺し尽くして来い!!」
大声でウェスリーがそう叫ぶような指示を出し、何人かの将官は耳を疑った。しかし異を唱える暇もなくロートスにはすでに伝わってしまった。敵の撤退に合わせ、矛を収めかけていた戦士達が再び動き出したのだ。
無論、急先鋒にはバーレントが躍り出ている。
「殿下、お待ちください。地の利は敵にございます。このまま追撃をかけるには、こちらの備えが少なく、危険がございます」
「構うものか、ロートスを見ただろう。バーレントを見たはずだ! この戦が終わればたっぷりと褒美をくれてやらんとなあ! おい、何をグズグズしている、雑兵ども!! ロートスが取り逃がした連中を取り囲んで嬲り殺してこい! 蹂躙だ、蹴散らせ、殺し尽くせ!」
統率もないまま、大雑把な命令だけを受けて兵達は困惑したが、ウェスリーの剣幕に逆らえずに彼らは走り出してしまう。
「殿下っ!」
「邪魔をするな、ギリス!」
「しかし、あのような統率のないままでは犬死するやも知れません!」
「犬死? けっこうだ、食わせる分が減る! ロートスさえいれば我らは無敵だ、ロートスにはたっぷり飲み食いさせられるようになる!」
バーレントの活躍にウェスリーは興奮しきっていた。
これほどまでに昂ったウェスリーをギリスは計算に入れていなかった。
ただでさえ、雪中の行軍で憂さを溜め込んでいた。それがバーレントの戦いぶりで爆発し、ハイになってしまっている。その誤算にギリスは奥歯を噛みしめる。
「殿下、怖れ多くも申し上げます。追撃は不要にございます。この雪原はグライアズローの8倍にも迫る広野です。この広さに兵を散開させてしまいますと、敵に各個撃破される可能性も高く、ロートスが無事であったとて落とした地の占領には兵力を割かねばならず、アルブスへ辿り着くまでにこちらの兵力は減少していくことにもなりかねません。
一点の曇りもなき殿下のご功績とするには杜撰なご指示であると――」
「杜撰だと? ギリス、貴様、何様のつもりだっ!」
突如としてウェスリーが激昂し、短剣を引き抜いた。
ウェスリーを思い留まらせるための言葉選びに抜かったとギリスは瞬時に理解した。それとほぼ同時にウェスリーはギリスの左肩へ柄まで深々と短剣を突き刺す。
「うぅっ、ぐ――殿下」
「邪魔をするな、何度も言わせるな! おい、馬を用意しろ! バーレントを見てやらねばならん! あいつには望む全てを褒美にくれてやらんとなあ!」
肩を押さえてうずくまるギリスにわき目も振らず、ウェスリーは馬へ跨って遠のいていくような戦場を追いかけるように走らせてしまう。
膝をつきながらギリスはただその背中を見た。
短剣は刺さったまま、焼けつくような激しい痛みに歯を食いしばり、脂汗を滲ませながらギリスは雪原の中に消えていくウェスリーを見送った。
衛生兵はすぐにギリスへ駆け寄って手当てを始める。怪我した兵を看護するよりもはるかに大勢の人間がギリスに駆け寄っていた。その中にはウェスリーの暴走に顔をしかめるような何人かの将官もいた。
手当てを終えたギリスは、ふらりと待機する軍勢を離れた。
ウェスリーについて知り尽くしているという無自覚の驕りが招いた結果に、どう挽回するかということに彼の思考は回っている。この無謀な追撃で戦死者も少なく、大きな戦果がもたされればそれは構わない。自分が愚かだったと主に跪き、許しを乞うだけで済む。
が――もし、この追撃のせいで多大な損害が出てしまった場合が問題だった。ウェスリーの求心力は一時的に落ちるだろう。末端の兵からの支持が落ちるのはまだ良いが、それ以外――各兵科の兵長や、将官からの信頼が失墜するのは手痛いものだ。彼らがウェスリーという未来の王を称えてくれればこそ、即位した際の威光がさらに強く輝きを増していくのだから。
ここからまた、ウェスリー王子ならば国も安泰だと思わせるためにはどれほどの時間をかける必要があるのか。また、どうすれば効率的にそれを実行できるか。
様々なプランを頭の中に用意し、選定し、黙々と考え込んだ。
「ギリス」
その思考を中断させたのは若い声だった。
全く気がつかぬまま、ハンスはギリスのすぐ目の前にいた。
「……すみませんが、今は1人にしておいていただけますか、ハンス殿」
「傷は痛い? 大丈夫?」
「ええ、平気ですよ。ロートスの皆さんの帰りを、皆さんと一緒にお待ちになっていてください」
「どうして王子様はギリスに剣を刺したの?」
「気になるのであれば、後でご説明をしますから、お戻りになってください」
「でも――」
「いいからどこかへ行っていてください! それどころじゃないんですよ、こっちは!」
怒鳴り声をあげたギリスにハンスはギョッとして、それから当の本人もハッと我に返る。
「……すみません、大きな声を」
「怒るんだね、ギリスも……」
「いえ、これは……自分へ対するものですよ。さあ」
「違うよ。王子様に怒ってるんだ、ギリスは。ギリスが間違うはずない」
「いいえ、過ちを犯しました」
「どうして自分が悪くないのに、受け入れちゃうの。ギリスは、正しい人間だ」
「正しいなど――そんなものはこの世にないんです」
「え?」
「人の本性など、一皮剥けば見るに堪えない醜悪なものです。
わたしなどその最たるものです。
性欲にすぐ振り回される猿のごとく女を求める殿下のために、女をさらわせる。はした金で純潔を買い上げ、挙句に死なせる。
しかしそれが殿下を制御するためであれば迷わずに実行します。
正しい人間であれば糾弾するでしょう。生まれながらにある地位や権力に胡坐をかき、賊と同じようなことをしてただ愉悦に浸るだけの畜生など、殺されたとて構うまいと切り捨てられてしかるべきでしょう。
けれどわたしは黙認する。容認する。さらなる犠牲者を求められてもそれに応じる。
一体わたしのどこが正しいと?
仰いなさい、本当にわたしが正しいと思うのであれば。
不貞で産まれた、こんなわたしなどが正しい存在などと誤解を続けるなら、全て否定してさしあげますとも!」
感情を剥き出しにし、ハンスの肩を掴みギリスが迫る。
「さあ、仰いなさい!」
「……正しい、ギリスは」
「どこが!?」
「振る舞いが正しいこと。
心を殺しても、信念は殺さないこと。
悪いことを自覚しても、目的にひたむきなこと」
「そんなもの……!」
「ロートスは力が全てだよ。
力っていうのは、結果なんだ。
ギリスは結果を出してきたから正しい。
だから僕は、ギリスは正しい人間だと思う」
純粋な光をたたえたハンスの瞳に映る己の顔を見て、ギリスは力なくハンスを放した。
「……王子様は悪いやつだ。
ギリス、ギリスの味方は絶対にいっぱいいるよ」
「それが何だと言うのです……。所詮、生まれが全てですとも」
「ギリスなら、変えられるよ。正しい形にすればいいんだよ」
「お帰りなさい……。今の発言は、聞かなかったことにします。
ですが……ありがとうございます。慰めの言葉としてだけ、受け取ります」
黙ってハンスは去っていった。
ギリスは急に疲労を感じた。うずくまって何度も何度も髪の毛をかき乱した。
つくづくロートスは誤算にすぎると彼は思った。
彼らの力、考え方、それらは純粋で、だからこそ鮮烈なのだ。
なるほど、確かに――こんな連中は隔離しておかねばならなかっただろうとも考えられた。
上手に首輪をはめて飼い殺しにしたボッシュリードの建国王には畏敬の念を抱かされる。
彼らの思想、力。それらは眩いほどの光に満ちている。目が眩まされる。篝火へ飛び込む羽虫のように人々は愚かになっていくだろう。しかしその愚かさの中にはボッシュリードという国の在り方へ疑念を抱く者が出てくる危険性もある。
愚かしい野心という火に焼かれ、混乱を撒き散らす不穏分子を生み出しかねない。
「……正しさなど」
そんなものはない。
存在するはずがない。
そう決めつけてきたギリスの頭が、じわり、じわりと反対へ回ろうとしていた。




