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アドリオンの黒狼王  作者: 田中一義
少年期10 変革の刻
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主従の信 ③


「痛っ……ああ、痛いな。これ、ほんとに効くのかな……」


 昨夜降った雨に濡らして傷口に貼りつけた薬草を剥がし、セオフィラスは新しいものと取り換える。バーレントにやられた傷は深く、まだ痛みが引いていない。それでも体力を少しでも戻そうと森の中を歩いて食べ物を採取し、ついでに見つけた薬草を半信半疑で使っていた。

 この薬草は大昔に、父に教えられたものだった。洗ってから傷口へ貼れば治りが早くなると教えられた覚えがある。しかしその効果のほどは、よく分からない。


 薬草を貼り換え終わってからセオフィラスは洞穴の寝床でまた横になる。

 イグレシア城がどうなっただろうかと冷静に考えた時、すでにもう敵の手に落ちただろうと予想をしていた。だが、まだアドリオンまであの数の軍を進められるはずはない。どころか、その途中のあらゆるものを略奪し、焼き上げながらアドリオンを目指すはずと読んでいた。だからこそ――急ぐ必要はそこまではない。時間をかけさせてやり、アドリオンの懐の深くまで呼び込んだ方が最後の勝算は高まる。


 しかしそれが効率的な手と分かっていても実行に移したくはない。

 独立をしたのも、同盟を組んだのも、ボッシュリードという弱者から全てを吸い上げるような仕組みから逃れ、抵抗をするためのもの。であれば略奪を許してはならない。許せばそれだけで、根本が揺らぐ。


 失わないために始めた戦で、次々と人が死んでしまう。

 それは自分が死なせてしまったも同然だとセオフィラスは考える。

 そう思うと、ただ平穏を望み、発展も願わずに現状維持を続けていた父は、領民を守れたとも言えたのかも知れない。無駄死にをさせられた無辜の人々はいたが――すでにして、セオフィラスはそれ以上の人間を戦へ駆り立てたし、その数に迫るほどに人を斬り殺しもしてしまった。

 恐らく――先祖も似たようなものだった。

 だとしたら自分がしているのは正しいことだろうか。

 このままボッシュリードに叩き潰されてしまったら、ただ大勢の人間を殺しただけの罪人と何も変わらない。


「迷うな、セオフィラス。

 迷うな、俺は間違って、ない……」


 頭を振ってセオフィラスは深く考えることをやめようとする。

 それでもじくじくと痛む傷口のように、嫌な想像はずっと頭の中を巡る。


「エクトル……」


 愛しい(ひと)の顔を思い出しながらセオフィラスは目をつむる。

 今ごろ無事だろうかと、彼女の旅路を考えた。きっと無事なはずと願った。

 彼女が帰る場所を守らなくてはならない。生き延びて、国を守って、待たなければならない。そのために結婚した。早く子どもも欲しかった。家族は多い方がいいだろうとも考えた。10人も産んでくれるだろうかなどとも考えた。


 だが、どれほど幸せな未来を想像してみても――ほの暗い、空々しい、虚しさにも似た嫌な想像が必ず紛れ込んできてしまった。











 また降ってしまった雨に濡れながら、カートは今度は農村までやって来た。

 魚油を作るべく、近隣の漁村から多くの魚が運び込まれている、半農半漁の村である。途中、口にしたのはあまりの空腹に気の迷いでもそもそと噛んだ雑草くらいのものだが、あまりにも苦くて、青臭くてすぐ吐き出したので、何も食べていないも同然である。どころか、飲まず食わずで一日以上だった。


 とっぷりと日は暮れ、降ってきた雨のせいで視界もままならずに、しかしどうにか辿り着けた。

 精油場は夜でも作業が行われているのか、明かりが見えた。村から少し離れたところへある、その建物を藪の中からうかがいながらカートは改めて、どうしようかと考える。

 こんな油を作るための場所を1つ、火事にしたところで戦に影響を与えるほどの痛手にはなりえない。補給線を叩いて戦を長引かせるのであれば、油を作らせるのをやめさせるより、その油を使った方がきっと効率が良い。――と、そこまでは整理ができている。


「……うーん」


 問題は、どこでどんな風に火をつけるか。

 きっと集められた物資を全て焼くような放火ができれば痛手にもなるだろう。

 しかしそのためには、それこそ敵の本隊の野営地にまで入り込まなければならない。あまりにも危険であるし、実行には時間がかかってしまう。


 だから、やはりカートは自分には大した働きなどできないと落胆した。

 せめてできるのは、油を盗むくらいのこと。さすがに夜通しで作業はしないだろうと考え、木陰で少し雨が防げる場所で空腹に苛まれながらただただ、長い夜に待ち続けた。

 うとうとしかけ、ハッと目を覚ましてから作業場をうかがうと明かりが消えていた。

 人の気配が感じられないのを確かめてからそっと作業場へと忍び込む。魚の身の欠片らしいものを見つけ、思わずカートは口に入れた。しかしカスも同然の、しかもそれをこねたようなものでおいしくはなかった。だが見つけてはつまんで口に放り込んで物色をした。


 手に入れたのは壺2つ分の油と、日干しにされていた魚が数尾、それに小さな鉄鍋、ナイフ程度だった。

 それらを身につけ、あるいは腕に抱えながら泥棒そのものだと卑屈になった気分でカートはセオフィラスを残してきた森へとまた歩き出した。ずっと歩いて、その内に雨が重くなったような気がした。雨は(みぞれ)に変わってしまっていて、いつしか雪になってしまっていた。


 空腹に負けて何度も魚の干物を食べてしまおうかと考えた。

 4尾あるのだから、1尾だけ食べてしまってもいいのではないかと空腹に唆される。しかし、それをやったら際限なく全て食べてしまうのではないかと理性を固く保った。

 これはセオフィラスのために盗ってきたもので、盗み食いでもするかのように口へしてしまえばそれこそ盗人になってしまうのだと、そんな屁理屈を浮かべた。


 雪は降りやまず、空が白んでくるころには歯の音が合わなくなって、ガチガチと鳴らすほどだった。それでも必死に歩いて、森へとようやく戻ってきた。足は痛いし、末端が冷えて酷く痛む。耳や指先がもげてしまうのではないかとまで思えた。

 凍え死ぬのではないかと思うが、そう簡単に死ぬこともあるまいと言い聞かせて必死に森を歩いた。もうすぐセオフィラスのところへ帰れる。それが希望だった。一言くらいは褒めてくれるだろうか。魚を焼くか、許可さえもらえればたっぷりと油を使って素揚げにでもしてしまおうかとも考えた。きっとおいしい。とにかく、早く何か食べたかった。


 そんな思いで洞穴までやっとの思いでカートは辿り着く。


「セオフィラス様……ただいま、戻りました」


 洞穴は温度が一定に保たれていて、冷え込みはそう強くなかった。

 ほぼ丸一日、ずっと歩き通しての帰り。安堵した心地でカートは洞穴に入って声をかける。


「おかえり、カート」


 セオフィラスは変わらず、同じ場所で横になって待っていた。体を起こしてカートを見て、眉根を寄せる。


「肉は手に入らなかったんですけれど、魚の干物があったので……分けてもらいました。焼きますか? あ、油もあるんです。鍋も。だから、これで魚を素揚げでも」

「雪、まだ降りそう?」

「あ、はい……。すぐにはやまないかも知れません」

「じゃあ、出発しよう」

「えっ……」


 おもむろに腰を上げて、河に流されても手放さなかった剣を鞘ごと腰につけるセオフィラスにカートは呆気に取られる。


「雪が足跡を消してくれる。まずはイグレシアに戻る。多分、俺の死体を探してる敵兵はいるだろうから、この雪は利用しないと」

「で、でも……まだ、休んでないと」

「完治するまで休んでいたら、その間に終わる」

「せめて、これ、魚です。お腹減ってませんか? 料理はあんまり、したことはないですけれど、焦がさないように気をつけて焼くだけなら、僕だって」

「食べたいなら食べればいいよ。あとから来るか、ここから故郷にでも帰ればいい」

「……え、あの」


 頭の中で思い描いていた全てが静かに崩れていくようなものを感じてカートは、頭の中が白くなる。

 この丸一日の苦労を、何もセオフィラスは理解していない。何か、少しでも役に立ちたかった。一言でも労ってもらえれば報われるつもりだった。


「行くの、行かないの?」

「……ま、待ってください。だって、僕、寝ずに、ずっと、歩いてきて……」


 意図せずして喉が引きつってくるのを感じた。目が染みて、汚れきった袖でそれを拭う。変に不規則な動悸が激しくなっていく。


「……これまで、ありがとう。気をつけて、カート」


 セオフィラスはカートの肩を叩いてから、その横を何もなかったように歩いていく。

 振り返ったカートは呼び止めかけたが、声は出てこなかった。――見捨てられたのだと、背中を見てカートは思った。


 やっぱり自分は無能だった。

 役に立つなどできやしなかった。

 汚名を返上することなどできない。


 雪の降る森の中へセオフィラスの背が消えていく。膝をついてカートは盗んできたものを取りこぼしながら、這いつくばるように少年は声を上げて泣いた。

 悔しくてたまらなかった。

 何が悔しいかも分からなくて、ただただ胸が苦しかった。

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