ロートスの反撃 ③
「……聞こえるのかしら。ねえ、ゼノヴィオルでも、ソニアでもいいわ。聞こえているなら少し教えてもらいことがありますの。答えてくださらないかしら」
バルコニーから敵軍が迫ってはいないかと大河の向こうを眺めながらベアトリスは木製の指輪へ話しかける。いつかエミリオが作り出した魔法の指輪である。遠く離れ離れになっていてもこの指輪を通じて会話ができる。海の上や植物のない場所では使えないということは聞いているが、イグレシアの壁には蔦が昇っているところもあるので使えるのではないかとベアトリスは考えていた。
「……やはり聞こえてはいませんの? ゼノヴィオル? ソニア?」
独り言を漏らしているのと変わらないかとベアトリスは諦めて指輪をしまうとしたが、その直後に返事が指輪から帰ってきた。
『何か、用?』
「ソニア? ソニアですの?」
『その通り』
「……今、わたくしはイグレシア城にいますわ。セオフィラスが怪我を負い、病に罹って寝込んでしまっていますの。地の一式でそれを治癒させることなどはできませんこと? できるのならばやってもらいたいのですわ」
用件を告げてベアトリスは手の中に持った指輪をじっと見つめる。
なかなか返事が来ずにやきもきしていると、また、ぽつりとソニアの声がした。
『できるけれど、ムリ』
「何故ですの?」
『第一に遠い。手で触れないとできない。
第二に症状によっては治癒もできない。
第三に今、わたしはとても力が弱まってしまっている』
「……待ちなさい、第三。力が弱まっているとはどういうことかしら?」
『最近、ゼノに力を奪われている。元はわたしとエミリオで繋がっていた力だったけれどエミリオはゼノに力を貸し与えた。それでも力の源泉はわたしと共有をしているから、借り受けているだけのゼノからいつでも力を引き剥がしてしまえるはずだった』
「それができなくなったというのかしら? 一体、どうしてですの?」
『ゼノが別の、巨大な力を手に入れてしまった。その強い力に、わたしの力が逆に引き込まれてしまっている。森の中に立て籠もってそれをどうにか緩和させているけれど、虚しい抵抗』
「そう、ですか。……あの子は、何をしていますの?」
『知らない。……ちょっとは戦のこととかも耳にしたけれど、アルブスの方がよっぽど危ないかも知れない』
「……分かりましたわ。そちらの状況はよく分かりませんけれど意外とあなたも大変そうで何だか心地良いですわ。苦労知らずのようにのほほんとした顔ばかり覚えていますから」
『やーい、若さが羨ましいか』
「っ……お話は以上でしてよっ」
指輪を今度こそしまいこんでからベアトリスは空を眺める。いつの間にやら厚い雲が出てきて月を隠してしまっていた。
「城内へ入ったら一班が向こうの跳ね橋を上げろ」
「おう」
「それ以外は蹂躙だ。存分に殺せ。ただし、戦士の誇りに賭けて武器を持たぬ女と子どもは殺すな。抵抗者は戦士として殺せ」
「おうっ!」
「我らはロートス。ボッシュリード王家のために、この身命を捧ぐのだ!」
「おおおおおっ!」
ロートスの戦士達が怒号を上げ、一斉にロープを結んだ槍を構えた。すでに闇夜に紛れて敵が迫っていたことを察知したイグレシア城の兵は弓を放っているが明かりも持たずにいるロートスに当てるのは困難だった。まして夜中の襲撃で夜の番をする兵は少なく、まだ城内の人を起こそうと奔走している最中である。
槍投げが始まったのを見て、ロートスの戦士達の後方に控えていた弓兵隊が用意していた矢に火を灯した。火矢を放って城内に火事を起こして敵をさらにかく乱するという策である。その鎮火のために人手を割かねばならず、ロープを伝っていくロートスへの矢の攻撃を少なくさせられる。
イグレシア城は混乱に陥っていた。
敵の奇襲を知らせる大声と警鐘。そして降ってきた火矢が運悪く馬小屋の屋根へと刺さってたちまち燃え上がっていく。水を運んで鎮火しろと叫ぶ声が、敵が来たという声にかき消される。
そして誰かが、ロートスが来たと叫び声を上げた。セオフィラスでなければ太刀打ちができない敵の有力な兵士達。その恐ろしさはすでに彼らの心身に刻まれていた。すでに一度、彼らはイグレシア城へと乗り込んできていたのだから。
「落ち着け、落ち着かぬか!」
夜着のままに飛び出してきたドーバントンはナイトキャップを足元に叩きつけながら怒鳴り声を発したがすでに広まってしまった混乱では届かなかった。まして彼が出てきたのはバルコニーである。兵が芋を洗うかのようにごった返している城の地上階とは高さもあって届きにくいのだ。
「ええい、夜襲とは卑怯な連中め!」
「冷静に言う場ではありませんけれど、わたくし達には言えませんわね。朝駆けをしたのですから」
「ぬっ、い、いつの間に!?」
「今でしてよ」
ベアトリスもまた着の身着のまま――ではなく、クラウゼンに伝わりし淑女の嗜み・超早着替えで颯爽とドレスを着込んで駆けつけていた。超早着替えは、普段は侍女に着替えの全てをさせるのが淑女の嗜みではありつつも、緊急事態で人前へ出なければならない時などに1人で秒速で身支度を整えるというものである。クラウゼンの淑女に隙はない。
「ドーグと先ほどすれ違いましたので、指揮するようにと命じましたわ」
「よそ者ではないか! パウエルはどうしている!?」
「よそ者というのであれば、それはあなたも同じでしてよ?」
「ええい、今は悠長に言葉を交わしている場合ではないのだ!」
「ですがわたくしには、このような場でできることなど、足を引っ張らぬことだけでしてよ。武勇に知られるドーバントン王のおそばならば安全かと思ってわざわざ足を運びましたのに」
「ぐぬ、ぬぬぬ……」
バルコニーから下を覗き込みながらベアトリスはドーグが高いところへ立って、身振り手振りと声を発して指揮している様子を見た。負傷者、弓の扱えない者には消火をするようにと言いつけ、弓を使える者はすぐに迎撃しろと怒鳴っている。そして腕に自信がある者、ロートスというボッシュリード随一の戦士達を相手にして武勇の誉れを得たい者は武器を取れとも発していた。
バルコニーの端――西側には弓を持った兵が詰めかけようとしている。
槍投げで繋がれたロープをじりじりとロートスが伝って来ており、それを標的に弓を引き絞っている。しかし思うように当たらない様子だった。
「ベアトリス様っ、ここは危険です! 奴らが来ます! この、バルコニーへ!」
「どこへいても危険は同じことですわ。この城にいる全ての者は命を懸けているのです。あなたも自分のなすべきことをしなさい」
「しかし――は、はいっ!」
必死にバルコニーから矢を射る弓兵に避難を呼びかけられたのにベアトリスは逃げようとしない。ドーバントンはそんなベアトリスにどれほど肝が据わっているのかと胸中で感嘆した。
「逃げぬにしろ、奴らに捕まれば人質にでもされかねんぞ! 城内へ入っておくべきだろう」
「そうですわね。ではエスコートをお願いいたしますわ」
「ついて来い!」
「粗雑なエスコートですこと」
「場所を弁えろ!」
「あら、ここはお城でしてよ?」
「状況もだ!」
そんなやりとりを交わしながらもベアトリスは大人しくドーバントンについて城内へと入っていった。それから間もなくロートスの戦士が4人、バルコニーへと降り立った。居並んでいた弓兵は即座に駆逐され、続々とロートスが城内へと入ってくる。
ごうごうと火の手は盛り、煙を空高くへと上げていく。
イグレシア城は燃え上がってしまっていた。