フランセットという女
「ねえガラシモス、最近、カートって元気ないように見えるのは気のせい?」
「ええ……最近、若者らしからぬ深いため息をよく漏らしております。夜も遅くまで戻りません」
ガラシモスと一緒にアルブスを歩いていたセオフィラスは雑踏の中ですれ違ったカートを見つけた。カートの方は気がつかぬままに通り過ぎて歩いていく。その背中もやけに疲れて見えた。
「何かあったの?」
「どうもゼノ坊ちゃんに言いつけられることがカートには辛いようです……」
「ゼノの言いつけ? 具体的に聞いてる?」
「いえ、具体的なことは何も……」
「……そう」
小さくなっていくカートの背中をまた眺めてからセオフィラスは前を向く。
そしてまた歩き出してすぐ、やたら大きな怒鳴り声が一軒の店から響いてきてセオフィラスは足を止めた。都市化と同時期に建てられた酒場から漏れてきており、何となく覚えがある声だったので酒場の戸口に立って中を窺ってから踏み入る。
「上等じゃあねえか、ええ、ヒック――こんの俺の目ん玉が黒い内はなあ……てめえなんぞに、とやかく言われる筋合いはねえんだよぉ、このバッキャロウが、こん畜生めが!」
「ヤフヤー、何怒鳴ってるの、うるさいよ?」
「ああんっ? って、セオフィラスか……」
赤ら顔で酔っ払い、がなり立てていたのはアルブス防衛隊の不良隊長ヤフヤーであった。彼が胸倉を掴んでいる相手は同じく耳まで真っ赤にしている酔っ払いの――アルブス防衛隊の一員である、ペトルである。こちらもヤフヤー同様に不良と冠せられてしまっている。
「ペトルにくっついてどうしたの?」
「こいつが俺の女を――」
「てめえの女なわけあるかってんだよ、ヤフヤー!」
「ああんだとぉっ!?」
「うるさいって言ってるでしょ、2人とも……」
呆れながらセオフィラスがたしなめても、2人はまた取っ組み合いの喧嘩をする。囃し立てる酒場の人間にも呆れかけてセオフィラスが額を押さえると、近づいてくる人影に気がついて顔を向けた。
美しい人だと一目見て、セオフィラスは思う。
しかし彼女の服装は庶民のものとは違っていた。かと言って貴族の服でもない。娼婦らしい、彩りのある小綺麗な簡素なドレス姿だった。
「はじめまして……アドリオンの国王陛下。
わたくし、フランセットと申します」
ふっくらとほほ笑んで彼女はスカートの裾を軽くつまみ持ち上げる。
「もしかして……あのおじさん達の喧嘩の原因って」
「罪作りなんです、わたくし……。処罰されますか?」
「仲裁してくれたら裁かない」
「寛大なご慈悲に感謝いたします、陛下」
ヤフヤーの髭を引っ張るペトルと、ペトルの禿頭を手の平で叩きまくるヤフヤーの、子どもじみた喧嘩へフランセットは割って入っていく。
「ほらほら、2人とも喧嘩はそれくらいにしましょう?」
「引っ込んでろ、こいつにものの道理ってえやつを叩き込んでやらねえと気が済まねえ!」
「黙れこのヤギ髭野郎!」
「じゃあもう二度と口利いてあげないから好きにして」
ふいとフランセットがそっぽを向いた瞬間、まだ掴み合っていた2人が揃って顔を向けた。そして彼女は軽い足取りでセオフィラスの方へ歩み寄っていき、その腕へ手を絡めて頭を寄せる。
「陛下、街の様子を見ていられるのですか? わたくしもご一緒させてくれませんこと?」
「え、いや俺は新婚だから……」
「ふふっ、そういう意味ではありませんのよ。さあ参りましょう、陛下?」
ぐいぐいと引っ張られるままセオフィラスは酒場の戸口へ向かい、後ろを振り返る。ヤフヤーもペトルも愕然とした顔でフリーズしている。
「仲裁はできたようです、坊ちゃん……」
「みたいだね……」
「まだこの街へ来たばかりですの。陛下はここで生まれ育ったのでしょう? 案内してくださらないかしら?」
「……帰るとこだよ?」
「構いませんわ」
もともと、街の視察でもなく、ただセオフィラスが暇を持て余して散歩をしているだけだった。ガラシモスを連れたのは、それっぽさを演出させるためであって、決して暇潰しの散歩をしているわけではないとアピールをするためである。
その手前、行先もなくふらふらして怪しまれてはたまらないと保身に走ってセオフィラスは帰ると言ってしまった。その程度の胸中ならばガラシモスも汲み取れて、かわいい坊ちゃんのために黙っておいた。
「陛下の勇猛な戦いぶりを耳にしたんです。一目だけでもと思っていたのですが、まさかあんなところで出会えるだなんて思ってもいませんでしたわ」
「イグレシアの戦いか。……どう思ったの?」
「一見すれば無謀で、絶望的な戦力差で、今でも勝てる戦ではないと思いましたわ。
けれど陛下はそれをやってのけてしまった。いくら個人が強くとも、戦は数で決まるという通説を、あなたは策と、あなた自身の力でひっくり返した。いくつもの奇跡を起こして。
わたくしも、そんな奇跡に巡り合ってみたいものですわ」
「……奇跡だってさ、ガラシモス」
「坊ちゃんの鍛えた体で成したことですとも」
「なんだって」
「ご謙遜をなさらないでください。陛下は一国の王なのでしょう?」
「何でもいいけど……ちょっと近いから、離れて。変に思われたくないし……」
「偉い方はいつも女性を侍らせるものでしてよ?」
「それってボッシュリードの話じゃない? ほら、離れて」
ガードを固くしてセオフィラスはフランセットと少し距離を空けて歩く。だがフランセットは悪戯でもするように歩きながら少しずつ近づき、気がついたセオフィラスがまた一歩、横へ離れる。
そんなことを繰り返しながらフランセットはくすくすと笑い、ガラシモスもほほえましく眺めた。
屋敷へ着くとセオフィラスは暇潰しにフランセットにお茶を勧めて談話室に通す。
「フランセットはどうして、アルブスに来たの?」
「色々とございましたの。イグレシアの向こうの、山の奥の小さな村で生まれ育ちました。貧しい村でしたから口減らしに女はあちこちの都へ送られていって……。気がつけば娼館でお姉さん達のお世話ばかりの日々でした。女将さんにも叱られるし、お姉さん達にもいじめられて、娼館のお客さんにもからかわれたりしてね……」
「ふうん……」
「幸か不幸か、お客を取るようになる前にね、物好きなお貴族様に見初められて、そのお屋敷の下女になって……」
確かに綺麗な女だと思いながらセオフィラスは彼女を見ながらカップに口をつける。
「そんな折に……屋敷の主人が亡くなりましたの。財産もなくしてしまって、中身が空っぽのお屋敷になってしまったから、わたしもお屋敷を出ることになって。それで……身一つで、何もかもから解かれた心地になってしまってね、それで陛下のことを聞いて、一目だけでもお目にかかれればと思って。そうしたら本当にいらっしゃって、お茶までいただいてしまって……身に余る光栄ですわ」
「これからどうするの?」
「学もありませんし、奉公しかしたことのない身ですから……。どこか、良いところがあればと考えてはいますけれど」
「ふうん……。でもヤフヤーとか、ペトルとか、不良が多いし、よそがいいかもね。あんな喧嘩を毎日されたらたまらないし」
「ふふ、でも楽しい方達でよろしいじゃありませんか」
「楽しけりゃいいってものでもないんだけど……」
苦笑してセオフィラスがお茶をすすると、談話室のドアがノックされて開く。
「ああいた、坊ちゃんもガラシモスさんも。陳情ですよ」
「分かった。通して――と思ったけど、今はお客さんがいるから執務室に。ガラシモス、お茶」
「はい」
「いいんですよ、わたしなんて。こちらへ通してあげてくださいな」
「でも……」
「少し、お庭を見てきてもよろしいかしら」
軽やかにフランセットは談話室を出て行ってしまい、セオフィラスとガラシモスが目を見合わせる。
「じゃあこっち、通してあげて。お茶もね」
「はい、ただいま」
陳情に来たのは都に昔からいる鍛冶屋の親父だった。ゼノヴィオルに徒弟をたくさん取るようにと指示されたものの、その面倒を見ていたら自分の仕事がはかどらないし、要求される量が多すぎて休む暇がないから、それも仕事がはかどらなくなってしまう原因になるからどうにかしてくれという訴えだった。
話を聞いてどうにかすると約束をしてから帰し、セオフィラスは額を押さえる。
タイミングをはかったかのようにフランセットは談話室へと戻ってきた。
「大変そうですのね、陛下」
「今は別に、やってることは昔から変わらないよ……。大変じゃない。悪いけどやることができたから、これで」
「ええ。今日はお時間をいただいてどうもありがとうございました」
「うん……。ガラシモス、手紙書くから準備して」
「はい」
「失礼しますね、陛下」
「……あ、ねえ、フランセット」
出て行こうとしたフランセットをセオフィラスが呼び止める。
「何でしょう?」
「今夜、泊まるところあるの? またあの酒場に戻ったりする?」
「ええ、そのつもりですけれど」
「……ガラシモス、空いてる部屋あったよね? 仕事見つけて、どこかへ移れるようになるまで泊めてあげて」
「けれど陛下、そんなご迷惑……」
「1人や2人を泊めるのが迷惑なんてないから。まっとうなお仕事見つけてくれればいいよ」
「どうもありがとうございます。……けれど、ただお言葉に甘えるだけというのも心苦しいものですから、何かお手伝いでもできることはありませんでしょか?」
「そんなこと言っても……」
「坊ちゃん、丁度、ヘラが旦那が仕事で怪我をしたからお暇をいただきたいと、言っていたのですが……。あの旦那ももう60過ぎでしたし」
「……そうなの?」
「いかがでしょう?」
「ここ? まあ、別にダメっていうことはないけど……ちゃんと、色々と教えてあげてよ、ガラシモス。一番大事なこともね」
「ふふ、ええ分かりました」
「一番大事なこと……?」
「ええ、坊ちゃんを坊ちゃんとお呼びしていいのは、坊ちゃんが生まれた時から屋敷にいた者だけというルールです。破ると坊ちゃんが口を利いてくれなくなりますから、よくお守りになってください」
無言でセオフィラスは談話室を出ていく。フランセットはくすくすと笑い、ガラシモスも柔らかく微笑んだ。