セオフィラスとエクトルの約束
「まさか、本気でわたくしをイグレシアの統治者にするだなんて……。感心を通り越していっそ呆れてしまいますわね」
「先生にアドリオンを取られちゃうのは嫌だから、こうして差し出してみた」
イグレシア城のバルコニーから大河イグレシアを眺めていたベアトリスは、ぺろと舌を出しておどけたようなセオフィラスの発言で眉間にしわを寄せた。
当初――領主不在となったイグレシアをどうするかは、同盟にとっても大きな課題となっていた。だがそれをセオフィラスは会議の場でベアトリスに譲ってしまうことを提案し、それを通してしまった。あらかじめドーバントン卿とカウエル卿に根回しをしており、クラウゼン卿――つまりはベアトリスの家の言い分を聞きもせずに貫き通した形だった。
「わたくしを敵に回さず、味方として抱き込もうという魂胆かしら?」
「まさか。先生は敵になんて回りませんし、もしそうなったとしても味方だとか敵だとか、そういうもの以前の問題ですよ。エクトルをもらったんですから」
「あら。それならばセオフィラス、義弟としてわたくしの言いつけに従ってくれるのかしら」
「従いませんよ。あくまでも義理の関係ですし、エクトルだって先生の言いつけと、俺の意見なら、俺の意見を取ってくれます。もう結婚したんですから」
「……あらそう、好きになさい。あとからわたくしに泣きすがって教えを乞うても遅くってよ」
夕焼けに照らされた大河は見るものに雄大さを感じさせる。
太い、大きな大きな流れがそこにある。
しかしその大河の向こうは、今はもう敵地となっている。常に監視の目を光らせねばならない。ボッシュリード王国が攻め込んできて、同盟が被害を被った場合はまっさきにこの城が陥落するのだ。
だからこそイグレシア共立国というものになった。この国の主体は、ここに住む人間であるという意識を強く植えつけるためのものだった。土地を奪われたくなければ死に物狂いで戦わねばならない。飢えて死にたくなければ汗水たらして働かねばならない。
子孫の繁栄を願うのであれば困難に立ち向かっていかなければならない。
これまで領主という存在に投げてきた問題を、その土地に根差した者達の合議によって裁くという試みをしていかなければならなかった。しかし現実には全ての住民が話し合いをすることなどはできぬため、代表者という形で共立国の長を立てる。その代表者こそが執政官という立場であり、その最初の執政官こそがベアトリス・クラウゼンだ。
何もかもを手探りでやらなければならない、開拓者の苦労というものは全てベアトリスの双肩にのしかかってくる。貧乏クジであるか、あるいは今後のイグレシア共立国の歴史の礎となるかは全てが彼女次第。そんな大役に抜擢をしたセオフィラスに対して、ベアトリスは複雑極まる感情と思考を寄せていた。
「あなたはまだまだ、盟主としてアルブスには帰れないのでしたね、セオフィラス」
「次はカウエル王国ですね。……新婚旅行と思えば嫌じゃありません」
「……エクトルを不幸にすることは許しませんわよ」
「はい。何より俺が、それを許さないので安心してください」
すぐに惚気るセオフィラスにベアトリスはまた顔をしかめて大河を眺めた。
「風邪ひかないように――なんて、先生にはいりませんね。俺はこれで」
「ええ」
バルコニーを後にしてセオフィラスはその足で城内にある広間に入った。共立同盟の議場となるべく、そこは改装をされている最中だ。輪のような円状の机と椅子が配置されることになっている。同盟として議論するべく重大な話は、今後、この場所で話し合うこととされていた。
「……セオフィラス様」
「エクトル……。休んでなくていいの? もう遅いよ」
呼ばれてセオフィラスは広間に入ってきたエクトルを見る。
「何をされているのですか?」
「共立同盟について、どう思う? これからは、ここがその要になる」
「……ボッシュリードから独立をしたと宣言したとて、それをボッシュリードが認めるか否かという大きな問題があります。そして恐らくは大人しく認めはしないでしょう。すぐに大軍勢がこの地に訪れ、全てを蹂躙しようとするはずです。共立同盟はそれに備え、抵抗をするための軍事力を最大の目的として締結したものだとわたくし個人は考えています。……アドリオンだけでは守れないから」
「その通りだよ。……ずるいかな、俺は」
「けれどあなたにはそれしか、もう道はないのでしょう?」
歩み寄ってきたエクトルの体が冷えないようにとセオフィラスはそっと彼女の肩を抱いた。
「言い訳にすぎないよ、他に道がないだなんて。
俺は……復讐でユーグランドを殺したし、独立はアドリオンだけでもできた。
ただそれだと、未来がなかったから巻き込んだんだ。クラウゼンも、カウエル、ドーバントンも。イグレシアの人々もね。
最悪なのは巻き込むだけ巻き込んでおいて、勝ち目があまりにも薄いっていう点だよ。
今……俺が考えてる戦略は、同盟国には言えないようなものだ」
「攻め込んできたボッシュリードの軍勢をわざとアドリオンの方へ招き入れる――と?」
「……賢いね、エクトルは」
「あなたのそんな悲しい顔を見たら、すぐに思い浮かんでしまいますわ。
このイグレシア城はボッシュリードからすれば同盟への玄関。そしてアドリオンは最奥。わざと負け戦をしながら敵を深くに招き入れながら兵站を伸ばしきり、同時に兵を損耗させながら略奪での物資補給をさせないように焦土作戦を展開。
敗走した兵をまとめ上げながらゲリラ的に補給線へ攻撃を加えさせ、アドリオンで迎え撃って敵の将を討ち取ることができれば……ボッシュリードとの停戦、あるいは和解という道も出てくるかも知れない。あなたはそういう考えをなさっているのですか?」
全てを言い当てられてセオフィラスは頷いた。
しかしこの戦略さえも、うまくいく保証もなければ、犠牲者はあまりにも大きすぎる。だがそれ以外にアドリオンを守りきるための成功率が高い策がセオフィラスにはなかった。
「争いなんてない方がいいし、戦を起こしたい気持ちなんかない。
なのに、それを求めるために俺は戦争をしなくちゃいけない。
どうして……こんなことになっちゃうんだろう。
話し合えばいいだなんて現実味がないんだ。
その話が通じないって決めつけてるから、戦争が起きる。
きっとまた……ヤコブくんのように、大切な人が死んじゃうんだ。
カタリナかも知れないし、先生かも知れないし、ヨエルや、ヤフヤーが次の戦で命を落とすかも。
もしかしたら、エクトルかも知れないって思うと怖い……。
だけどそうしなくちゃ、皆を守れないんだって思うんだ。おかしいよね」
「……はい」
「だから、約束をするよ、エクトル。
俺はきっと、きみを最後まで守る。
俺の命か、アドリオンか、エクトルかを選ばなくちゃいけないなら、きみを選ぶ」
「いけませんよ、そんなこと言ったら。
あなたはもうアドリオンの偉大な王なのですから、全てを手に入れていいんです。
セオフィラス様自身の、アドリオン王国の、わたくしの、全ての幸せがあなたのためのものなのですから」
「……難しいこと言うなあ」
「ふふっ、弱気なセオフィラス様にはこれくらい言わないと、張り切ってもらえないかと思って」
「ありがとう、エクトル……。でも俺は、最後はエクトルを選ぶよ」
「では……分かりました。セオフィラス様。最後に、わたくしを選んでください。その約束さえあれば、政に追われたり、戦に身を投じていってもあなたを信じて待っていますわ」