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アドリオンの黒狼王  作者: 田中一義
幼少期2 ベアトリス・クラウゼン
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ベアトリスの視察 ④



「わあ、うみ? あれってうみ?」


 御者台では潮の香りが濃くなっていた。峠を越えた先に大きな大きな、青い海原が開けて見えるとセオフィラスが身を乗り出すようにして目を輝かせ、興味津々でアトスを振り返って尋ねる。


「ええ、海ですよ」

「広いもんでしょう、坊ちゃん? こいつには果てがないらしいですよ」

「はて?」

「終わりのことですね。水たまりなんかはセオくんでもジャンプすれば飛び越えられますが、海には果てがありませんからどこまで行ってもずっと、これが続いていくわけです」

「へえ〜……。なんでくさいの?」

「それは……あー、んー……と……」


 目を輝かせながらセオフィラスが今度はヤコブに尋ねる。が、若者はその答えを知らず、困りながら言葉に詰まってしまう。


「ふふ……この匂いは、沿岸が豊かだからこそ生じるものなんですよ」

「……?」


 アトスが代わりに答えたがセオフィラスはきょとんとした顔で小首を傾げる。ヤコブも渋面をしながらゆっくりと首を傾げていった。


「わたしの故郷の海はこのような匂いはしませんでした。海は透き通っていて、潜ってもとても綺麗でした。けれどこの辺りでは、もっと近くまで行けば分かるんですが海藻がたくさんあります」

「かいそう?」

「海に生えてる草のことですよ、坊ちゃん」

「くさがはえてるの?」

「そりゃもう」

「その海藻が匂いを発しているのですが、実はですね、海藻がない海は綺麗な代わりにあまりお魚や海藻といったものがいないんですよ」

「へえ……そうなのか」

「じゃあ、あそこのうみはいっぱい?」

「ええ、きっとたくさんですね」

「へえ〜……。ねえヤコブ、うみってどうやってあそぶの?」

「え? んー、あー……えーと……」


 アドリオン領のアルブス村育ちのヤコブは、海を見ることなどこれで3度目だ。前の2回は大急ぎでやって来て、すぐに去っていった。海の遊びなど山育ちの彼には知る由もない。


「泳いだり、砂浜にお山を作ったり、色々です。けれど山の中と同じで、触ってはいけない生きものもいますから注意が必要ですよ。もし時間があるようでしたら、海で一緒に遊びましょうか?」

「うんっ! あっ……はい!」


 すぐに言い直したセオフィラスにアトスはにこにことほほえみ、その傍らでヤコブは渋い顔をする。ヤコブはセオフィラスが産まれた時から知っていて、身分は全く違うが弟のような存在であるのだ。にも関わらずアトスばかりが尊敬をされているようであまり面白くはなかった。



 馬車が漁村まで降りてきて、停まる。

 半漁半農で暮らす村人達はいきなり乗り付けられた馬車と、その御者台にいたヤコブの姿を認めるとぷいと顔を逸らすようにした。この漁村でも去年、いきなり働き手を軒並み奪われてしまったという恨みは薄れていない。


 ヤコブが御者台から飛び降りると、すぐに馬車の戸を開けようと回り込んだ。しかし、彼が開けるまでもなく勝手に戸は力強く開け放たれて、丁度、手を出そうとしていたヤコブを撥ね除けた。


「痛って……!?」

「あら、何をしているのかしら? 鈍臭くて見ていられないわよ?」

「ああそうですか! ふぅぅーっ……ふぅーっ……痛ってて……」


 痛めた手に息を吹きかけながらヤコブは拗ねるようにそっぽを向く。ベアトリスは馬車を降り、不躾にじろじろと視線を向けてくる村民を眺める。


「見事に女か子どもか、背の曲がった老人しかいないのね……」


 やれやれとつけ足してベアトリスは軽く頭を振るった。

 それからカタリナが馬車を降り、グッと体を伸ばす。ずっと狭い馬車の中にいたので、彼女はとうに座り疲れていた。屋敷では朝から晩まで、適度にサボりつつも働く時はキビキビと動き回るのがカタリナというメイドである。



「確かこの漁村は半漁半農でしたわね。百姓仕事は後に回して、漁法から視察いたしましょう。ヤコブ、この村の1番偉い方のところへ案内しなさい」

「……へいへい。こっちですよ……」


 やる気なくヤコブが手をぷらぷら振りながら歩き出し、ベアトリスがそれに続く。――と、彼女は不意に足を止めてからぐるっと周囲を見渡した。


「セオフィラス」

「っ……はい」


 アトスと一緒に波打ち際の方を眺めて何か会話をしていたセオフィラスが、いきなり呼ばれて顔を向ける。


「あなたもわたくしとともに来なさい。そのためにあなたを連れて来ているのだから」

「……うん」

「セオくん」

「はあい」

「行くわよ」


 ヤコブを先頭に5人が歩き出す。きょろきょろとヤコブは村の中を見て、この漁村の長老がいないかと探している。



「いいこと、セオフィラス。あなたは将来、アドリオンの領主となるのですから領内の村のことは誰よりも詳しく知っていなければならないわ。それは収穫物だけではなく、地形や、その土地のまとめ役、土地が抱える問題点、強み……ありとあらゆることを全て、頭の中に記憶しなくてはならないのよ」

「…………うん」

「セオくん」

「ハイ……」

「……わたくしは、あなたが小さいからと言って甘い態度は取りませんわ。けれど最初から全てを理解することは不可能だとも心得ていますから、教えられたことは全て覚えなさい。最初は許しますが、二度目以降は叱責を免れないとよく覚えておきなさい」


 最後尾を歩くカタリナはつまらなそうに、ヘッと鼻を鳴らした。彼女にとってもセオフィラスはかわいい弟のような存在だ。まだまだ子どもだとも思っている。だと言うのにベアトリスは小難しいことを言い聞かせようとしている。カタリナにはそれが滑稽に思えた。



「あそこの家ですよ。……確か」

「違っていたらあなたの食事は最低限にいたします」

「はあっ!?」


 ヤコブの驚きなど気にも留めず、ベアトリスは彼に案内された掘建て小屋のような家に近づいた。戸板は今は外されて一間しかない家の中が外からもよく見えた。



「ご機嫌よう。わたくしはベアトリス・クラウゼン。

 このアドリオンを再建するために、わざわざ足を運んだ者よ」


 いきなりベアトリスは敷居を跨ぎ、中にいた老夫婦へ高慢に聞こえる言葉を放つ。


「……知らん、帰れ」


 禿げかかっている白髪頭の老人が無愛想に言い、続いて老婆の方も視線を外した。


「…………」


 5人とも、老人のその剣呑とした態度に黙る。

 しかし気圧されただとか、居心地の悪さに尻尾を巻こうとしている――という意味合いで黙ったのはヤコブのみである。ベアトリスは涼しい顔で、聞こえていなかったかのようにまた口を開いた。



「あなたは思い違いをしていらっしゃるから、丁寧に説明してあげますわ。

 このわたくしの言葉を聞かないのはけっこうよ。けれどそれで後になって困るのはあなた達。いいえ、あなたがその態度で居続けることが、この村の今後を苦しめることと知りなさい?」

「何じゃと……?」


 壁に立てかけられていた、穂先の錆びかけた銛を手にしながら老人がギラリと年の割に鋭い眼光を放つ。ヤコブがサッと腰に佩いている剣へ手を伸ばした。


「どれほど嫌がろうとも今年の分の税を必ず徴収いたします。

 もし、納められるだけのものがないと言うのであれば、その時は若い娘を代わりにいただきます。それでも足りなければ幼い子どもをいただきます。尚も足りなければ、あなた達が生活をする上で必要な漁具や農具を全て、根こそぎいただいていきます。抵抗をしても無意味と知りなさい」

「お、おいっ、あんた何言ってるんだ……!?」


 ヤコブが聞いていられなくなって口を挟んだが、ベアトリスは鋭い一睨みだけで彼を黙らせた。


「そのような末路を迎えれば、この村はもう用済みね。老人だけになってどうしようもなくなります。あなた達がご先祖から受け継いできたものは全て、あなた達の代で唐突に終わります。年老いたあなた達に、そのような事態を打開する方策はありません。考えついても実行に移す体力も気力もないことでしょう」

「勝手なことを言いおって、貴族風情が! ここはわしらの村じゃ! 口を挟まれる筋合いなぞないわ!」

「いいえ、あります。この村はアドリオンの領地。従って、アドリオン家の庇護下にあるのです。

 だからこそ税を納めなければならない。それが嫌だと言うのであれば、アドリオン領はあなた達を異分子として排除するのです。そうなっていないのが、アドリオンの庇護下にあるという事実」

「何をしようが奪っていくだけじゃろう! 従う道理があるものか!」


 とうとう老人が両手で握った銛をベアトリスへ向けた。

 迷いながらヤコブがベアトリスの脇へ出て、すぐにでも剣を抜けるように身構える。



「ただ奪われるのが嫌ならば、わたくしの言葉に耳を傾けなさいと言っているのです。

 そうすれば税は減免いたしますし、来年には豊作・豊漁は揺らぎません。ひいては、あなた達の豊かさに繋がるのです。失われた人命は戻りませんが、暮らし向きは楽になるでしょう。豊かな村と知れれば移民がやって来て、また若者が増え、この村は存続してゆきます」

「今さらうまい話になど興味はないわ!」

「あら、それならば今すぐに全てを奪われてしまっても良いというの?」


 見下した口調でベアトリスが冷視すると老人は冷や汗をかきながら僅かに怯んだ。



「……簡単な話よ。奪われながら失意で死ぬか、豊かになる村を見ながら安らかに死ぬか、それを選びなさいと言っているだけ。

 前者が良いのなら、わたくし達は去りましょう。そしてすぐ、何もかもが消える。

 それが嫌ならば、わたくしと話をして、よく聞きなさい。それを実践しなさい。

 確かにこれまでのアドリオン領主はあなた達に大したものを寄越さなかったかも知れないわ。

 けれどそれは今日までの話。豊かになる方法を教えるから、その分だけ寄越しなさいと言っているの。もちろん、あなた達の取り分は以前に比べても増えるわ。どうかしら?」


 老人はぎゅっと銛を握り締めていたが、老婆に寄り添われ、しわくちゃの手で揉むように撫でさすられると鼻を鳴らしてから獲物を降ろした。



「よろしい。

 まずは何か飲み物を出しなさい。

 それから漁の得意な者、あと男子を集めなさい。

 このわたくしが自ら、効率的な漁法というものを教えてあげるわ」


 勝ち誇ったように満足そうな笑みを浮かべ、ベアトリスが言い切る。

 ヤコブはようやく腰の剣から手を放し、ほっとした。

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