集結
目指している地点から、空に光の柱が立ち上っていくのを見たゼノヴィオルは馬を駆けさせた。大河イグレシアが氾濫しているせいで、中州のイグレシア城までは大量の茶色の川の水が行く手を阻んでしまう。
だが、イグレシア城を基点にゼノヴィオルが見立てた通りの準備がされていた。
何本もの頑丈なロープが張り巡らされていたのだ。それは川幅が広くなることを想定した、長いロープだ。ロープを結んでいるのは大地にしっかりと根を張った木の幹。馬からその木の近くで降りると、ゼノヴィオルは失った左手を見てから、右手でロープを握った。
「ゼノヴィオル様っ、何をするんですかっ?」
追いついてきたカートが馬を飛び降りて慌てながら尋ねる。
「このロープを伝って対岸に渡る。あらかじめ、お兄ちゃんが用意させてたんだから」
「ですが、落ちればこの川の勢いですよっ!? 流されれば命が……!」
器用にゼノヴィオルはロープにぶら下がる。両足の膝裏をロープへ引っ掛けて、右手で上半身を支える。左腕の肘も使って、束ねられたロープを芋虫が這うようにしてじりじりと進み始める。背中は濁流にさらされている。渡り切れなければ濁流に飲み込まれてしまいかねない。
「カート、全軍を下流に!」
「何故ですっ!? あなたは!?」
「ユーグランドの別部隊がいるはずだから、そっちを叩いて!」
ロープを使って進みながらのゼノヴィオルの指示に、カートは後ろを振り返った。率いてきた兵は、そう多くはない。しかし、もうこれが全てである。さすがにこの人員に同じことをさせ、河越えに失敗するわけにはいかないのだろうとカートはくみ取った。
「で、ですが、あなたが1人で行ったところで……!」
「1人じゃない、お兄ちゃんがいる……!」
もうすでに引き返すことも、カートの側からゼノヴィオルを連れ戻すこともできないところまでゼノヴィオルは進んでしまっている。カートは乗っている馬の首を巡らせ、後方の軍に指示を出してこのまま川沿いに下流へ進むと告げた。
(どうしてセオフィラス様もゼノヴィオル様も、互いの行動にあれほど確信が持てるんだ……?)
手紙で少しのやりとりがあっただけのはずなのに、ゼノヴィオルの推測通りに大河を渡るための道が作られていた。しかも普通ならばムリだと思うような、か細い道である。つまりそれはセオフィラスの方もまた、ゼノヴィオルならば辿り着けると想定して準備をさせたということになってしまう。
感心するよりも、カートは恐ろしさが先行した。
ユーグランドがアドリオンへ向かってくる名目は、悪魔討伐と土地の浄化。――しかしそれはあるいは名目でも何でもないのではないかとカートを震わせた。
怖いもの知らずだと感じたからではない。
蛮勇というものだと思ったからではない。
ただ当然のように、互いができると判断していて、それが超人じみていることだからであった。
「ヤフヤー、ヤフヤー、どこにいるっ!? クソ、この混戦じゃ―—いた、ヤフヤー!」
セオフィラスが陣を張った森の中では両軍の衝突が始まっていた。大河イグレシアを船で遡上し、侵攻をしてきた敵の大軍勢である。まだ敵は多くの兵を残しており、ほんの一握りを森へ向かわせたに過ぎない。しかし、それだけの数でもセオフィラスの軍を上回る人数だった。
木が乱立する森の中では自然と敵もバラける。そこを各個撃破するという戦術ではあるが、数の不利は大きかった。
「クソったれが、死にやがれ!」
アルブス防衛隊や、ドーバントンの私兵はユーグランドの兵よりも個人の武力では勝っている。
しかし同時に5人や6人へ注意を払い、死角にも気を配りながら戦い続けるというのは困難を極める。ヤフヤーもまた、少なくない手傷を負っていたが10人目の敵の喉を掻き切って仕留めた。すかさずそこへ斧を振り上げてきた敵は、ヤフヤーを探していたヨエルの放った矢に射られて怯み倒れる。
「ヤフヤー!」
「どうしたっ!?」
「このままじゃどうにもならない! 消耗して死ぬだけだ!」
「だったら逃げろってか、できやしねえだろうが!」
「そうじゃない、何か手を打つべきだって言ってるんだ! 捕虜を使おう、すでにさっき指示を受けた通り、油まみれの服を着せてやってる! 火矢を放てば燃え上がって、何も知らない敵は怯む!」
「ついでにすでに森へ撒き散らかした油に引火して、全員仲良く焼け死ぬぞ!?」
「違う、外で余裕持って構えてるやつらに見せつける! 恐れ慄いて下がらせるなら時間を稼げる、突撃させてくればそれこそ、森に火を放てばいい! そうすればあの敵の大軍勢が、丸ごと焼け死ぬ。大金星だと思わないか?」
「それでこっちが何人死ぬと思ってる?」
「だから、できるだけ死なせないようにやるんなら早く伝えださないとならない」
「チッ……ドーバントンのオッサンに伝えろ。やるぞ。それから、火勢に敵を巻き込むまで、味方には伝えろ。火の手が上がったらすぐ、同じ方向へ逃げるんだ」
「どっちへ?」
「セオフィラスの方に決まってんだろ。行け!」
カートの肩を叩いてからヤフヤーは剣を構え直す。
敵が森へ攻め込んできた時、まっさきに迎え撃ったのがヤフヤーだ。次々と敵は押し寄せてくる、戦場の最前線。次々と味方は倒れていき、孤立していくのが目に見えている。
「しっかしこりゃ……今日、死ぬのかもなあ」
まだ全快していない、ヴィオラに受けた傷もずっと疼いて動きが鈍っているのを感じていた。
それでもヤフヤーは剣を握り直し、笑みを口の端に浮かべながら敵に向かって斬りかかっていく。戦場で死ぬことを恐れたことはない。――少なくとも、ヤフヤーが戦いに生きると決めてからはずっとそうだった。
「タルモ様……あちらへ、ついて行かずともよろしいのですか?」
ゼノヴィオルが軍を率いてアルブスを発つ時、タルモはたった3人にまで減ってしまった精教会の信徒とともに行列へ続いた。ヴラスタと袂を別つと発言したことで、7人いた彼女の部下にも等しい信徒は半分以上がタルモの下を去ったのだ。
「ヴラスタ殿の祈術によるものだったのだろう、あの雨は」
「は……?」
「恐れ入る、あれほどの祈術を数日間も維持してしまったのだからな。ヴラスタ殿は現在の精教会では、もっとも祈術に長けた御仁であるというのが頷けたものだ」
タルモはイグレシア城を中継して張られているロープを眺めている。
すでにゼノヴィオルはロープを伝ってイグレシア城にまで辿り着いていた。そして、また対岸へ続いているロープを伝っている。
「ならばこそ、次はこの聖名タルモこそがその座をもらおうではないか」
「い、一体どのようにするのです?」
「この大河を精霊の奇跡によって割るのだ」
白い装束の裾を翻すようにタルモは前へ一歩出て、濁流のすぐそばまで歩いていく。信徒達はどんな奇跡を起こすのかと固唾を飲んで彼女を見守った。
「領主セオフィラス・アドリオンは愚かにも、ボッシュリードから独立をするだのとのたまったらしいが、欲望にまみれきったあの少年ならば引き下がりはすまい。だからこそ、新たに精教会の教えを広めるのに都合が良い」
「あんな悪魔めいた子どものところで、ですか?」
「それゆえ、だ。戦は終わらぬよ。この戦に勝とうとも、仮に独立できたとて何度も繰り返されるだろう。その度に人死にが出る。不幸な運命に飲み込まれる者が多く出てきた時こそが、我らの出番となる。救いを求める者が増えるほどにな。この内乱が鎮圧されれば、それこそ難を逃れた民が大勢生まれるだろう。この東ボッシュリードに、広く信者を増やすことができるようになるのだから、どっちへ転ぼうとも変わりはせん。だから今は、せいぜいアドリオン卿に助力をしてやるのだ。いつまでも借りを残しておくわけにもいかぬからな――」
タルモが手を前へ出し、目を瞑った。
祈術とは精霊の力を地上へもたらす奇跡の御業である。到底、人の身では起こせぬ現象や、霊魂との干渉を可能とする。精教会が聖名を与える者はその全てが大なり小なりの祈術を使うことができる。
しかしどれほどの力を発揮することができるかは大きな開きがある。ヴラスタは現在の聖名では最大の術師と言われているが、タルモも若くしながら行使する術の強大さにおいては自信があった。若さと、まだ聖名に名を連ねてからの歳月が浅いという理由だけで、聖名の中では格下に置かれているのだと本人は考えている。
ゆえに、セオフィラスの起こした内乱を好機と捉えていた。
「清貧であるべきという精教会の教えを忘れ、悪魔をでっち上げた、残酷な時の悪戯で耄碌したかつての偉大なる先達には、ご隠居を願おう――」
大河へそのまま足を踏み入れようとしたタルモに信徒達が慌てて腕を伸ばした。
濁流に足を取られて飲み込まれるのではないかという彼らの杞憂は、直後に吹き飛ばされる。
彼女が足をつけた濁流する大河は、瞬時に清らかさを取り戻したように澄み切った青い水の色へと変わり流れがそこから波紋を広げるように穏やかになっていったのだ。さらにはタルモの体は大河の上を踏みながら沈むことなく、地続きの地面を歩いているかのように水面を移動しているのだ。
「どうした、お前達? ついてこい。
精霊の導きに感謝を込めてな――」
恐る恐る信徒が水面へ爪先を伸ばすと、そこに足がついた。
体重を乗せても沈み込むことはなく、足元は清らかな水が流れている。
「奇跡だ……」
「タルモ様っ、我が身は一生、あなたとともにありますッ!」
「わたしもです、タルモ様!」
「それでもわたしの弟子か、貴様らは。わたしではなく精霊のためにあれよ」
徒歩で彼らは対岸までを渡り切る。
濁流が氾濫していた大河イグレシアは元の美しい河の流れを取り戻していた。




