ベアトリスの視察 ②
「気に入らないわ、あの男……」
アドリオンの屋敷でもっとも立派な客間でベアトリスが呟く。
準備が完了次第、出発ということになっており、彼女はすでにアドリオンの使用人を使って身支度を整えさせていた。あとはヤコブの準備を待つのみなのだが、その待たされているという苛立ちとともにアストの物言いがふつふつと彼女の中で怒りとなって沸き立てられている。
「単なる居候のクセして師弟? 今から取り入って陰から実権を握ろうとでも言うのかしら……? だとしたら目障りね。けれど、いきなり現れたわたくしより、あの男の言うことを聞くのが当然と言えば当然。……それなら、ゆくゆくのことを考えてもどうせなら今から……」
口元に笑みを広げてからベアトリスは椅子から腰を上げてドアを開いた。
掃除のために道具を持って歩いていたカタリナが丁度通りかかっており、それを呼び止める。
「あなた」
「……はい何ですかベアトリス様」
「どうしてそんなに嫌そうな顔をしているのよ?」
「いえ別にそのようなことはございませんが何かご用でしょうか?」
「……まあいいわ。セオフィラスだけれど、あの子も視察に連れて行きたいの」
「はい?」
「そういうことだから、支度をさせなさい」
「お言葉ですが――」
「あら? わたくしの心次第で、ここがどうなるかをご存知ないのかしら?」
「…………オルガ様にお話をして参ります」
「ええ。そうしてちょうだい」
カタリナがオルガの部屋に入ると、彼女はベッドの上で咳き込んで背を丸めていた。
「オルガ様っ……大丈夫ですか?」
「あら、カタリナ……。大丈夫よ、ありがとう」
背中をさすられながらオルガは弱々しく言う。
「どうかしたの、カタリナ? ここのお掃除かしら?」
「いえ……。その、ご相談と言うか」
「相談? 何のことかしら……?」
「……その、ベアトリス様が視察にセオフィラス坊ちゃんを連れて行きたいと」
「セオを?」
「はい。……ですが正直、ベアトリス様が何を企んでいらっしゃるかはかりかねますし、同伴するのは兄だけですし、セオ坊ちゃんに何かあっても……」
「そうね……」
オルガの部屋にはベビーベッドが置かれ、そこで赤ん坊のレクサが寝かされている。オルガが目を向けたのでカタリナもベビーベッドを見ると、タイミングをはかったかのようにぐずるように声を発した。
「あらあら……レクサったら。カタリナ、あやしてくれる?」
「ええ、もちろんです」
カタリナがレクサをベッドから抱き上げ、腕の中で揺すってあやす。
「レクサお嬢様、カタリナがいますからね。お母様もそばにいらっしゃいますよ」
「カタリナはあやすのが上手ね」
「そ、そうでしょうか……?」
「ええ、とっても。……セオのことだけれど」
「はい?」
「アトスさんにもついて行ってもらえれば安心だと思うの」
「……しかし、いくらミナス様が見込まれた方とは言え素性の知れない人です。大丈夫なのでしょうか……?」
「大丈夫よ。悪いことを考える方じゃないはずだわ」
「……では、アトスさんと一緒にセオ坊ちゃんも? 何かベアトリス様のご不況を買うようなことがあっても大変なことになるかと思いますが……」
「ええ。そこも問題はないと思うわ。彼女はきっと、セオを手込めにしたいだけなのよ」
「……手込め、ですか?」
「ええ、多分だけれど。でも大丈夫、あの子もしっかりしてるから」
「そう……だといいのですが」
「お願いよ、カタリナ。信じてちょうだい」
「……分かりました。ではセオ坊ちゃんとアトスさんにこのことをお伝えします。レクサお嬢様をお抱きになられますか?」
「ええ、ありがとう、カタリナ」
カタリナから娘を渡されてオルガが腕の中に抱く。
「……ねえ、カタリナ」
「はい?」
「視察にどれくらいかかるか覚えてるかしら?」
「……兄は一月か、二月かかかるとか言っていたような気がしましたけれど」
「そう……。あのね、カタリナ。お願いがあるのだけれど、いいかしら?」
「…………察しがつきますが、一応聞きます。何でしょう?」
「あなたも一緒に行ってくださる?」
「かしこまりました。兄の監督とセオ坊ちゃんのお世話はわたしの仕事ですので」
「ありがとう、カタリナ」
――アストラ歴438年。
セオフィラスは初めてアルブス村を出ることになった。
「……どうしてあなたも一緒なのかしら?」
いよいよ出発できると知らされたベアトリスは屋敷を出てくるなり、顔をしかめてアトスを睨む。
「ははは、あなたのように高貴な女性もいらっしゃることですし、たまには剣士としてアドリオンのお役に立とうかと」
「いーや、それは俺だけで充分だ」
「よく言うわ、ちょっとミナス様に手ほどきを受けただけなのに」
「ちょっとじゃない!」
「うるさいわ、お黙りなさい」
「っ……」
視察に行くメンバーはベアトリスとヤコブの他、セオフィラス、アトス、カタリナの5名だ。
それぞれ旅装に身を包み、馬と馬車も用意をされている。
「まったく……まあいいわ。それならヤコブとあなたは御者台にもお座りなさい」
「ええ、もちろん。では、同じ男同士ということでセオくんも御者台に行きましょうか?」
アトスがほほえみながらセオフィラスの肩をそっと自分の方へ寄せる。
「っ……お待ちなさい。子どもに御者台なんて風邪でもひかれたら支障が出るわ。あなたはこっちよ」
と、ベアトリスが今度はセオフィラスの手首を掴んで自分の方へ引っ張った。
間でセオフィラスは2人を交互に見上げる。
「いえいえ、男の子なんですから」
「男だろうが女だろうが、子どもは子どもよ。支障が出るというリスクは避けるべきなの。お分かり?」
「ははは、セオくんは風邪なんてひきませんとも。カタリナさん、セオくんが最後に寝込んだのはいつですか?」
「……3歳のころが最後かと。それきり、お風邪を召したことはございません」
「んなっ……」
「さあ、セオくん。ちょっと高くて景色がいいですよ。こちらへ」
大人しくセオフィラスがアトスに手を引かれて御者台の方へ回り込む。それにベアトリスはチイっと何も隠さぬ舌打ちをし、カタリナがヤコブにしか分からぬようにふんっとほくそ笑んだ。
「なあ、カタリナ……。俺、胃がキリキリしそうなんだ」
「だったら留守番したら? アトスさんがいれば事足りそうなものなんだから」
「意地でも行く」
「あらそう」
「かわいくねえ妹め……」
「はいはい。しっかり手綱握ってよ」
馬車に女性陣が乗り込み、男達は御者台へ座る。
屋敷の使用人とゼノヴィオルが見送りながら馬車はゆっくりと動き出した。
ごとごと揺れる田舎道でセオフィラスはいつもより高い視線でアルブス村を眺める。村を出ていく馬車を見た人々は農作業の手を止め、腰を伸ばして彼らを眺めた。セオフィラスが手を振ると彼らも軽く片手を挙げて応じ、ヤコブに迷惑をかけないようにしろなどと言いつけるのだった。