イグレシアの戦い ①
「期は、整った……。
大河イグレシアの水嵩こそ、我らが援軍の呼び水。
黒狼王などと名乗る子犬めの群れは中州に取り残された。
両岸からただ交代しながら見張るのみで、勝手に子犬は負け犬の遠吠えをする。
だがしかし、子犬であっても野良も同然である。油断はするな。噛みつこうと動き出せば、即座に打ち殺すのだ。
悪魔と、その邪悪な意思に動かされた民は、息の根を止めねばならん。
そして悪魔が根を張った我らが王国の地・アドリオンの浄化へ赴かねばならぬのだ。
大義は常に我らにあり、勝利は常にこのわたしを選ぶのだ。――出陣せよ」
ユーグランドの軍が雨降りの中で進軍を始めた。
7日も降り続けている雨のせいで地面はぬかるみ、人の足も、馬の足も自然と遅くなる。しかし急げとユーグランドが命じることはなかった。本隊の進軍に先駆けて、事前に罠などの有無の確認や、あった際の撤去を命じた兵も出していた。
「子犬の首を刎ねるには、仰々しいお言葉でしたな」
「バカどもに少しでも物事を理解させねばなりませぬからな。
それに子犬と侮らせる言葉を用いるのは、それこそが戦では有効であるがゆえ。あの小僧は武力という点においてのみ、我が軍を上回っているのです。その戦いぶりを目撃した兵は恐怖している。それを広げぬためにも、敵は単なる子犬とバカにし、恐れを拭い取ってやらねばならぬのですよ。単純な手ではあるが、単純なバカどもにはこういうやり方が良いのです」
「なるほど……。しかしあの、ヴィオラという女を向かわせれば、それこそ子犬を蹴るほど容易く全てが済むのでは?」
「あれは頭が沸いている。血に飢えた獣だ。下手に首輪を外せば何をするものか……。極上の道具であることは変わりないが、それゆえ、扱いは慎重にせざるをえないのですよ」
ゆっくりと動く馬車の中、ユーグランドとヴラスタは退屈凌ぎに言葉を交わす。
「3つ首を持ってこいと命じ、持ってきたのは1つだけでもあった……」
「その首は、何に使うのです?」
「……子犬へ餌のように放ってやるのみ。怒りは光を奪い、進むべく道を絞るもの。子犬の取る策を絞り、逆撃を加えるのに都合が良いのです」
「恐れ入るものですな。さすがは名将ユーグランド卿」
「今さらではあるが、精霊は人と人の争いを好まぬと聞きましたが、あなたはわたしと親しくしてよろしいものなのですかな?」
「あなたは我が友でありますからな。雨を降らせる程度しか、力になれてもいない」
「しかし奇跡の御業もまた、そう易々と行使して良いものではないのでしょう? すでにヴラスタ殿には雨に加え、海の軍への渡りまでつけていただいた」
「……折角、猛将ユーグランドの戦を見物させていただけるのです。まだその見物料を払い終えてはおりません。こうして我々が友情を育めたのも精霊の導きによるものなのですからな。
先ほどあなたは怒りが道を絞らせると仰った。ならば……良い術があります。お見せいたしましょう」
「子犬めは、その術でどうなるのですかな?」
「さて……狂喜乱舞するやも知れませぬし、あるいは激昂し、首を刎ねても動くかも知れませぬ。あるいはその両方か。さぞや、愉快な催しとなるはずでしょう」
「……ふむ。ではその申し出を、喜んでお受けいたしましょう。何か、必要なものはありますかな」
「首を、1つ。放り投げるよりも、よほど貴卿の望む結果が得られるものと」
「それは楽しみだ」
でっぷりとした腹の上で手を組みながらユーグランドがほくそ笑む。
ヴラスタも薄ら笑いを浮かべて、頷いて見せる。
馬車の車輪が泥水をはねて進む。
ガタガタと揺れる馬車の両側にも兵が列を成して歩いている。誰もその中に、兜で白い髪を隠す少年の姿が紛れ込んでいることに気がつかなかった。
「……ねえ、おばさん。近くにいるんだろう? ……きみはアトスの知り合いなのかい?」
少年がささやくような声でぬかるみを踏みしめながら問いかける。
身につけている鉄の武具は彼にとって、身につけるだけで力を弱めるものだった。
「重そうだし、辛そうだ。……何故だ? ただ弱っただけには思えない」
彼の耳だけに女の声が返ってくる。
ほくそ笑みながら少年はうんざりしたような口調で答える。
「ドルイドなんだよ。だから……鉄とは相性が悪い。木の根だって石は避けてしまう。それと同じだよ」
「ふうん。でもおばさんは訂正してほしい」
「毛の生えてる人間は等しくおじさんかおばさんで十分さ」
「歪んでるな……」
「きみの言えることかい?」
「確かに。言えたことではなかった」
「ねえ……おばさんはどうしてあんなデブに道具扱いされているの?」
「うまい飯をくれる。自分で考えるのが面倒になった」
「ふうん……。おばさんより強い人、知ってるよ?」
「……それは、子犬の師匠というやつか?」
「そうさ。教えたら、何かいいこと、してくれるかい?」
「嫌だ。でも教えろ」
「嫌だね」
「自分が死んでも?」
「殺されてあげてもいい。けれど僕はおばさんの刃が胸を貫くより前に、おばさんの魔術が僕の息の根を止めるより前に、自分でこの喉を掻き切る」
「手間が省ける。それに……ドルイドとかいう力ももらえる」
「それはできないよ。僕には力を共有する、大切な片割れがいる。僕が死ねば、全ての力は片割れに注ぎ込まれる」
「……だったら殺す意味はない……」
「そうさ。だからおばさん、教えてあげたら、何かいいこと、してくれるかい?」
雨の音、そして行進で鉄が擦れ合う音ばかりがする。
誰も少年と女の会話を耳で聞き取れるものはいなかった。
「アトスは、アルブスにいるよ。僕が創って、与えた魔剣を持っている」
「アルブスだな」
「この情報の見返りに、ちゃんと約束を守ってよ。おばさん。
ユーグランドの命令を破って、嘘をつくこと。ただそれだけなんだから」
「……でももう知りたいことは知った。約束を守る必要があると?」
「アルブスの場所、知ってるかい?」
「しまった」
バカな女と静かに思う一方で、しかし御しやすいとは少年は思えなかった。与しやすいともとても思えない。
しかしこの女をどうにかしなければ一方的に蹂躙されるだけだとも確信していた。