訃報を受けて ②
「結局、ユーグランド卿は陣を張り、出した斥候も殺され戻らず終いな者も多い……か」
「問題はこの後にユーグランドがどう出るかだ。こちらが攻め込むには、それこそ先日と同じことをやり返されることも懸念される。しかし道は1本、互いにそこを監視できてしまう……。これでは睨み合いだが、和平などという手は取れん。そうだな、アドリオン卿?」
「……ええ」
ドーバントンに問われたセオフィラスは静かに答えたが、その返答はもう何度も繰り返されている。その様子にドーバントンは苦虫を噛んだような表情で舌打ちを漏らし、カウエルも眉を潜めざるをえなかった。
「で、次はどのようにいたしますの、セオフィラス? 答えなさい」
「……ええ」
ヤコブの死は、かつてないほどにセオフィラスへ多大な衝撃を与えた。
父や母が死んだ時はまだ幼かったこともあり、漠然とした悲しみや不安だけが少年の心を蝕んだものだが、14年の歳月をずっと遊び相手として、あるいは信頼をもって仕事を与える相手として傍に居続けたヤコブはそれだけに大きな喪失感をもたらしたのである。
「……情に流されては為政者として失格。
国を興そうとしている最中に、ただ家臣を失っただけでそれでは王になど到底なれませんわね」
「……ええ」
どんな言葉もどうやら耳から耳へ筒抜けになるらしいと確信を得て、ベアトリスは椅子を立ってセオフィラスに歩み寄った。天下のクラウゼンの令嬢でも教え子には甘い態度を取るのかとドーバントンがまた嘆息しかけた時、そのため息と同時にバシンと少年の頬が強く弾かれた音を発した。
クラウゼンに伝わりし淑女の嗜み――日和るなビンタ(クラウゼン家歴代男性陣命名)である。その一撃は男こそ派手だがダメージはさほど与えない。皮膚を打たれた痛み、そしてその音で相手の意識を自分に向けさせるという技術である。
「――っ、先生……」
そして、その日和るなビンタは見事に効果を発揮し、セオフィラスが我に返ったようにベアトリスを見る。自分を射抜く冷たい、見下げたとばかりのひとみも見た。
「答えなさい。あなたは負け戦を続けるのですか。それとも、まだ戦い別の結果を掴むのですか」
「戦います」
「どうやって? これから、何をするのですか。答えなさい、セオフィラス」
「……少し、この戦の終着点を変えます」
「何? 目的はユーグランドを捕えることだったろう。それをどう変えるのだ?」
「殺す」
「アドリオン卿……それでは王国との全面戦争になると、きみが言ったのだろう?」
「この降り続いている雨は、大河イグレシアの水嵩を増やします。ユーグランドがそれを見落とすはずがない」
「川の水量? それがどうした?」
「跳ね橋を下げられなくなるんです。下げても渡れなくなる。ユーグランドがその間に迫ってくれば籠城せざるをえない」
「川の水が増えて身動きが取れなくなったとて、また水が戻れば我々は後退できるだろう」
「その背後にも布陣されたら?」
「バカな! ありえんだろう、敵はまだこの大河を渡っていない!」
「大河の水量が増えれば、海路の軍が船で遡上してくれば我々の背後に布陣することができます」
「だから、そんな連携をどうやるという! 海と陸、分かれているのだぞ!? ヘクスブルグに敵軍が到着したのならば、それこそアドリオンへ向かうはずであろう!」
「普通ならそうでしょうけど、クラウゼンが海からの進軍を食い止めるとなれば別の港へ寄港する可能性も高い。そこから上陸するならばユーグランドが下流に伝令を出して合流を指示することもできる」
「いくらユーグランドとて、そこまで読むものか? 我々は、我々の内情を知っているからこそ、そう読み取ろうとすることはできる。だが……」
「第一撃でユーグランドを捕えられなかった時点で、こちらはかなり不利です。敵は増援を求めることもできます」
「それとユーグランドを殺すということに、どう関係があるのです?」
「関係はありません。ですがユーグランドの策を、上回り、勝利を収める。そしてユーグランドを殺す。ユーグランド以上の将軍がいなければ、歯向かおうなんて考えなくなる。だから殺し、畏怖させるのです。手を出すのなら、こちらは牙を剥く。血を流したければ、いくらでも流すと警告をしなければ、ずっと争いは続いて人死には増え続ける一方です」
断固としたセオフィラスの発言に、議場の一同はそれぞれ黙ってしまう。
セオフィラスが心変わりをしたわけではない。その主張は一貫されているが、当初の予定ではユーグランドの命を奪えば国が丸ごと敵となる危険性を鑑みて生かす方針だった。
しかしそれを翻す発言をした。さらに苛烈な道へ踏み込もうとしている。セオフィラスだけがその決断で血を流すならば彼らはそれも自由と認める。死ぬも生きるも、一蓮托生となってしまっている今は容易に受け入れ難い心変わりである。
「可能なものか。自ら死の淵を覗き込もうとしているのだぞ、アドリオン卿」
「覗けるものなら覗きたいものです。……大切な人がいる」
「気狂いでもしたか! 付き合いきれん!」
「ユーグランドに寝返るのですか? 殺されますよ」
「っ!」
「ドーバントン卿、わたしは正気です。
情に流されることが為政者失格ならば、わたしは失格で構いません。
そもそも為政者なんて小さい器になるつもりはない、俺は王になる。
賢君だろうが、暴君だろうが構わない、為政者じゃない、支配者になってやる」
「救いがたい戯言だ! 頭を冷やせ、アドリオン卿――」
「王だ」
腕を振って憤ったドーバントンはいきなり顎の下に剣先を突き立てられて息を飲んだ。目に見えぬ速さでセオフィラスが剣を抜いていた。
「っ……!」
「やめなさい、アドリオン卿! 仲間内で争う場合ではないだろう!」
「カウエル卿も、訂正を。ちんけな領主でもないのに、卿なんておかしいでしょう」
「では王と、そう呼べというのか? いいか、それは思い上がりだ、自惚れだ! それは若さゆえの、根拠のない全能感からくる一過性のもの、大人になれ!」
「若さのせいで、仲間を殺したくもありません」
さらにセオフィラスは剣先を動かし、ドーバントンの皮膚をなぞる。切れ味の良い宝剣は僅かに彼の血を滴らせた。
「っ、とんだ子どもだ……。勝てねば貴様を呪い殺してやる」
「すでに呪いに侵された身らしいので、どうぞご自由になさってください」
ゆっくりセオフィラスが剣を引くと、ドーバントンは議場を足を踏み鳴らして出ていった。彼の側近もともに出ていく中、同行していたパウエルが細めた目でセオフィラスを見る。視線をセオフィラスが返すと彼は黙って主について出ていった。
カウエルも首を振りながら出ていき、ベアトリスが椅子に座り直す。
「頭を冷やしておきなさい、セオフィラス」
「冷えています」
「では心を落ち着けておきなさい」
「先生は平気なんですか? ヤコブくんのこと……」
「ヤコブはよく仕えました。全ての態度を褒められたわけではありませんが、主人をいただいた者としての心づもりはよくできていたことでしょう。惜しむらくは、その主の体たらくのみですわね」
「だってヤコブくんは、俺にとって――!」
「だったら何だと言うのです? あなたは先ほど王と呼べと仰りましたが、ならばこそ、心を乱している場合ではないでしょう? きっと、あなたが理想とする王は人ならざる超越者なのでしょうから。違いますか?」
「……薄情ですね、先生は」
「わたくしは王など興味がありませんので、為政者としての器でけっこう。
それより、手隙の人間がいればクラウゼンに送って状況の確認をしていただきたいのですができまして? 本当にあなたの考えの通りにユーグランドが海路の軍を動かすならば、兆候が出てもおかしくはありませんわよ?」
「……そうですね。人をやります」
「けっこう。……1つ、言っておきますわよ、セオフィラス」
「何です?」
「あなたが王を名乗り、そう振る舞おうとてどうでも良く思っていますわ。
邪悪な暴君だろうが、誰もが理解しえぬ賢君だろうが、全てを支配する大王だろうが、ただ王を名乗るだけの小物であっても関係はありません。
しかしヤコブを悼みたい気持ちがあるのならば、報いなさい。彼がどんな主人に、どんな夢を見ていたのか。ヤコブはどれほど偉大な王に選ばれても喜んで仕えることはないでしょう。しかし一介の領主の息子のためには命を投げ出せた。それがどういう理屈か、分かりますわね?」
「……分かりませんよ。もう、ヤコブくんは死んだ」
「イグレシア城より、セオフィラス様から手紙が届けられました」
「お兄ちゃんから? ちょうだい」
「どうぞ」
カートが執務室に慌てて入ってきて、ゼノヴィオルは羽ペンを置いた。代わりに手紙を受け取り、封を切って中を改める。駿馬で届けられたその手紙にはごく簡素に状況が記されていた。
「手紙は何と?」
「……カタリナを。それから、彼女のご両親も呼んで」
「何故です?」
「ヤコブくんが、殺された」
その報せを告げられたカタリナは、その場で泣き崩れた。
長男を失った母も声を上げて嘆き悲しみ、父親は娘と妻の肩を抱きながら、しかし何も言葉を発せなかった。カタリナに屋敷の仕事をしばらく休むように言いつけてからゼノヴィオルは銀貨を与えて家へ帰した。
「カート」
「はい」
「戦の支度を」
「しかし、すでにイグレシア城に――」
「アルブスから出て迎撃しなくちゃいけない。老人と、職人はアルブスに残していく。それ以外、15歳以上の男は全員が出兵する。……いや、別にあと2人は残す。ガラシモスと師匠」
「し、しかしそれでは危険では? 都の守りをどう?」
「そのための準備は、もうできている。サイモス義兄さんはクラウゼンの人間だから連れてはいかないけど」
「……僕も、行くのですか?」
「腕が鳴る? ……お兄ちゃんに聞いたよ、本当は戦いで役に立ちたくて屋敷へ来たんだって」
「いえ……今は、そうは思っていません」
ゼノヴィオルが執務用の机へ座り、カートはその前に手を組みながら立った。
「僕よりも腕の立つ戦士は、それこそ防衛隊にたくさんいます。
遠くを見渡せばそれほど山のようにいるはずです。
今さら……僕に何かができるとは思えません。怖いのです……」
「関係ないよ。カート」
「……関係ないとは?」
「行くんだ、きみも。徴兵された全ての民が、恐怖を感じなかったとでも?」
「それは……しかし、ガラシモスさんは」
「ガラシモスはもう老人だし、屋敷にいないとお兄様が帰った時にくつろげない。師匠はそもそもアドリオンの人間じゃない」
「僕はまだ15になっていません……」
「そうだね。僕や、お兄ちゃんもそうだ。で?」
「……あなたは、セオフィラス様とは違うのですね」
「同じに見えていたのなら、連れていくのはやめるよ。目が悪くて味方に攻撃されても迷惑だから。
で、どうするの。臆病風に吹かれてここへ残って、洗濯物でも干して過ごす?」
ゼノヴィオルは、セオフィラスとは似て非なる。
あるいは真の主人より優秀な側面もあるかも知れないが、しかし非情だとカートは確かに感じ取った。だがこの非情さ、氷のように冷たい態度は決して不要でないとも感じられた。
「……1つ、教えていただけませんか」
「何を?」
「セオフィラス様のために僕ができることはありますか?」
「きみの覚悟と努力さえ伴えばいくらでも。力になりたいなら、道中で教えてあげるよ。
だけどその前に、分かるね?」
「はい。……支度をさせます」
カートが出ていき、ゼノヴィオルは座ったまま深く息を吐き出した。
セオフィラスからの手紙の、その文字には滲みがあった。涙をこぼしながらしたためられたものとゼノヴィオルは一目で分かった。――しかしゼノヴィオルは、ヤコブの訃報に感じるものが少なかった。涙は、一滴もこぼれてはいなかった。