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アドリオンの黒狼王  作者: 田中一義
少年期5 独立戦争
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ゼノヴィオルの帰郷 ②


「…………あの、お久しぶりです、先生」


 ずっとよそよそしくされ、自分から声をかける勇気も出なかったゼノヴィオルだったが、夜中にふらりと屋敷の裏庭へ出たらそこにいた彼女を見ると今しかないという気がして口を開いた。


「まだ起きていましたの? 夜更かしが得意になりましたのね」

「先生ほど、要領よくやるのは難しくって、時間がかかっちゃいました……。何をされていたんですか?」


 ベアトリスは井戸の縁へ腰かけていた。

 ゼノヴィオルはサクサクと芝を踏みながら彼女に近づいていく。


「あなたは、ユーグランドが動かした軍勢の総数をいくつと想定していますの?」

「……4万」

「お母様の情報によれば、6万だそうですわよ」

「6万、ですか……」


 計算が合わなくなるなとすぐにゼノヴィオルは脳内に広げている戦争のための設計図に修正をかける。

 きっと兄の想定では、アドリオンの住民に武器を持たせるのはどうしようもなくなった時だけに限られている。だからこそ、東側貴族を当てにもしている。――だが、数字が膨らんでしまってはその計画も破綻だろうと冷静にゼノヴィオルは弾き出した。


「考えごとをしていたので、ここにいましたの」

「っ……」


 最初に自分から投げた問いの答えをいきなりベアトリスが発し、ゼノヴィオルは計算を中断する。

 明かりは夜空の大きな月と星影くらいのものだった。しかし、その月光に冷たく、美しくさらされるベアトリスを見ていると幼いころに先生として尊敬して憧れた女性そのもののイメージと重なった。


「どんな、考えごとですか?」

「……どうでも良い些事ですわ。構想中の領地がそれぞれに独立したとして、わたしやエクトルはともかく……サイモスのお嫁をどこからもらうべきかとか。仮にユーグランドの軍勢を今回退けたとして、その後にボッシュリードはどのようなことをするのかとか」

「もう、先のことを考えているんですね。僕は、目の前のことで頭がいっぱいです……。やっぱり先生は、すごいですね」

「ああ、まだありましたわ。考えていたこと」

「何ですか?」

「――ゼノヴィオル・アドリオンの変わりようについて、わたくしが負うべき咎はどのようなものとなってしまうのか」


 月を見上げたベアトリスの、その首筋から顎へかけての線にゼノヴィオルは思わず見とれた。

 はらりと揺れた金色の髪が月光をはらんでうっすらと輝いている。これほどに美しい人だったのかと脈絡もなくゼノヴィオルは感動さえしかけている。


「……為政者は感情を交えてはなりませんと教えましたわね」

「はい」

「ですから、わたくしも先を見据えてあなたを王都へ送り出しましたわ。

 これほど早くこの地へ戻ってくることも――いいえ、あなたがこうして、この地へ戻ることなんて想定はしていませんでしたわ。クーズブルグであなたは見知った全ての人間と今生の別れをすることになると考えていましたの。

 けれど戻ってきてしまった。最悪の状況を引き起こして」

「……はい」

「しかしそれも元を正せば――このわたくしの決断ですわ。

 もし、あなた達のお母様がご健在だったならば、お母様を王都へ送っていたでしょうね。けれど病に伏してしまわれて、レクサはあまりに幼すぎて、だからあなたしか生贄にはなれなかった……。生贄が、その役目を半分だけ果たして帰ってきてしまうなんて想定、普通はしませんでしょう? だからでしょうね、妙なもの思いに耽ってしまっていましたわ」


 たおやかな仕草でベアトリスは手招きをし、ゼノヴィオルは彼女の隣へ浅く腰かけた。


「人並みの情はありますわ、わたくしにも。

 それが普通の感性によるものかはともかく、己の行いが非情であったことも理解しています。そして最善であったとも」

「……」

「ですから、わたくしは考えているのです。途中であなたが帰ったことで、わたくしの決断は(いたずら)にあなたを傷つけただけで終わったのではないかと。ユーグランドのところで、筆舌に尽くしがたい凌辱も受けたことでしょう。いっそ、そのまま終わってしまっていた方が、あるいは丸く収まっていたかも知れないと考えているのです、この頭は。

 それなのにあなたは昔のようにわたくしを見て、先生などと呼んでくるものですから……意味が分かりませんわ。わたくしはあなたが憎しみを向けてしかるべき女ですのに」

「じゃあ、先生……。お願いを聞いてください」

「内容によりますわね。お人好しではありませんのよ?」

「はい、知ってます」


 はにかむようにゼノヴィオルが答え、ベアトリスは静かに少年を見る。


「……僕を、切り捨ててください。最適な、機会に」

「あなた――」

「お兄様は王様になる。

 今、そのための大きな犠牲を払う準備をしています。

 最後に必ず幸福が訪れるとしても、途上で人の心が荒んだら辿り着けません。

 だから僕は、その時にお兄様へ憎悪や、忌避が向けられないようにしたいんです」

「……だから先ほども、ヤフヤーを相手にあのような真似をしましたの?」

「はい」

「……あなたを一度、切り捨てたから。また次も切り捨てる役目を、わたくしに?」

「はい」

「それで、あなたがよろしいと思っていますの?」

「はい」

「……やっぱり変わりましたわね。昔のあなたなら、同じことを言うにしてももっと揺れ惑いながら答えたでしょうに。今は、それしか見えていませんもの。己の破滅を見据えながら、平静にできるなんて……あなたほどの年頃の子がすることではありませんのよ」

「それはちょっと、違うかも知れないです……」

「どう違うのかしら?」

「先生の前だから、強がりたい……んです」


 ベアトリスは黙り、それからまた月を眺め上げた。

 ゼノヴィオルが腰を上げて彼女の前へ立って両腕を広げた。


「先生」

「……何かしら」

「先生は悪くないです。

 僕が悪いんです。

 だから……その」


 口ごもり、それからゼノヴィオルは意を決して彼女に正面から近づく。

 膝と膝とが触れ合うほどの距離でゼノヴィオルは、自分を見る憧れの女性を見つめる。


「いつもみたいに、先生には毅然として、格好よくしてほしいです。

 きっと先生は格好いい人だから、僕を王都へ送ったことの悪役になろうとしていると思うけど……でも先生にはそんな汚点は、いらないんです。お兄ちゃんにも必要ないから。だから……僕がいます」

「どうしてそこまで己ばかりが苦しい目に遭おうとしますの?」

「僕はもう……殺されちゃったんだと思います。

 エミリオは、死んじゃった僕にまた魔法をかけて……一時的に生き返らせてくれただけで、もう僕、生きてちゃいけないんです」

「そう……」

「レクサくらいの年の子を、命令されて殺しました。

 泣きながら、痛い痛いって叫んでいるのに、僕は……酷いことをして殺したんです。自分に与えられる苦痛から逃げたいからって、そんな一時の感情で、妹と同じくらいの女の子を手にかけました。

 息が途絶えて、悲惨な肉の欠片になったその子を見て、ほっとした自分を覚えています。これで今日は、もう僕は痛い目に遭わないって。

 次の日の朝になって怖くなって、でも同じことをまた強要されて、だけど……抗えなかったんです。生きてちゃいけない人間の1人になったって、思いました。

 だからもう、僕は以前のようにはなれないんです。

 一度、雑巾にしてしまった布切れは、二度と、生まれたばかりの赤ちゃんを包めないのと同じです」

「セオフィラスには、言いましたの?」

「全部、話しました」

「それで、何と?」

「お兄ちゃんはやさしいから……バカなことを考えるなって言われちゃいました」

「わたくしも同じ意見ですわよ」

「だから、お願いするんです。……それに、その方が楽です。暗闇に目が慣れて、そうしたら……明るい光は目に毒だから。ずっと日陰にいるしかないけど、お年寄りになって死ぬまでは……ちょっと、気が滅入っちゃうから」


 当人に無自覚の悲愴がそこにはあった。

 そんな在り方になりたいと口に出すことがどう他人に感じさせるかという点に、あまりに理解が及んでいないような態度でさえ許しがたいことだった。


 本来のゼノヴィオルであったならば、例え、偽らざる本音だったとしても秘して胸に留めていただろうとベアトリスは考える。だが、口にする。それをお願いと言ってしまう。それほどにもう――ゼノヴィオルは壊れてしまっているのだとベアトリスは分かった。


「この季節でも、あんまり夜風に当たったら……体に毒ですよ。お部屋に戻りませんか?」

「ええ、そうですわね」


 促されてベアトリスは腰を上げる。

 目線が随分と近くなっていた。前は顎を上げるように自分を見上げていたはずなのに、今は顎を上げ下げせずに言葉を交わせるほど少年の背が伸びている。


「もう眠りなさい。睡眠不足で判断を誤っては、台無しになりますわよ」

「……はい」


 屋敷の廊下で別れてから、ベアトリスは自分の寝室に向かいながらゼノヴィオルが悲惨に過ぎると考える。しかし最早、救いさえも求めてはいない。下手な希望を与えるのは、また傷つけるだけである。


「…………決して、やさしさで言ったわけではありませんのよ」


 ひとりごちてから彼女は横になった。

 夜明け近くになって、ようやく彼女は眠り、それからすぐに起き出した。

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