為政者と情
「あら、ベアトリス。それにヤコブとカタリナまで。とっても良いところへ」
ロロット・クラウゼンに名前を覚えられていたことをヤコブとカタリナは地味に驚いた。そして、何度かは顔を合わせているが、これまでにない笑顔の彼女にも驚いていた。到着したころからヘクスブルグにあるクラウゼン邸はかなり慌ただしくもあったのだ。
「まさか、耳ざとく聞きつけて来たのですか? ふふ、まさかベアトリス、あなたがそういうことにまで耳を立てていただなんて驚きですわね」
「サイモスの婚約者ができたというお話ならば、わたくしは一切、興味がありませんのよ、お母様」
「あら。それじゃあ、一体どういう用事があるのかしら?」
笑顔で交わされる言葉に違和感を抱きつつ、兄妹はクラウゼン母娘の会話をただ眺める。
「用事だなんておとぼけになって、お母様はいつもお茶目でいらっしゃいますのね。いっそ尊敬しますわ」
「あらあら、本当に分からないのよ、ベアトリス? ――まさか、アドリオンがユーグランド卿にとうとう踏みにじられる件について、クラウゼン領主たるわたくしに何かを求めるだなんてはずもありませんものねえ?」
声色が瞬時に低く変わり、ヤコブだけでなくカタリナまでもが戦慄した。
本当に一瞬で切り替えられた雰囲気は、まるで見えない雷にでも打たれたかのような不思議な衝撃をもたらしたのである。
しかしベアトリスは微塵も動じず、作り物の淑女らしい笑顔も崩さず言い返す。
「まあ、そんな想像力が働くのに、まさしくその件でわざわざ訪問することを予見できていないなんて、まさかお母様、もうボケが始まってしまったのかしら? わたくしが後をお継ぎしますから、お母様はゆっくりとご隠居なさってはいかがらしら? おほほほ」
「おほほほ、ベアトリスったら冗談が好きなのね。それとも雪深いアドリオンからだと、こっちはもう暖かくなりすぎて頭の中が腐ってしまったのかしら?」
「腹芸なんて面倒だからもういいですわよ、お母様? アドリオン領主の後見人として、クラウゼン領主たるロロット・クラウゼンに提案しに参りましたの」
「どんな?」
「アドリオンはボッシュリードから独立をしますわ」
「は?」
「えっ……?」
彼女の独立の宣言に連れられてきていたヤコブとカタリナが揃って耳を疑った。
「まあ、それではエクトルとの婚約も破棄しなくってはなりませんわね……。あなたも早く、領主おままごとをやめてこの屋敷へお戻りになりなさい?」
「ボッシュリードから求められる税収さえなければ、さらにクラウゼンの財政は潤い、増えることは間違いなしですわよ?」
「一体どことの商売をするつもりなのかしら? これから消されてしまう、アドリオンと?」
「いいえ? デールゼン領、カウエル領、ドーバントン領もともに独立いたしますの。そこにクラウゼンも加えさせてあげる、と仰っていましてよ?」
「そんな話は聞いたことがありませんけれど?」
「ええ。だってこれは、内々に進んでいる話ですもの。セオフィラスがただ感情のまま突っ走って、ユーグランドとの戦を引き起こすほどの愚かな領主だとでも思っていますの? このわたくしが、手ずから教え育てた自慢の教え子の1人ですのよ?」
「……ユーグランド卿はすでに6万近い軍を2つに分けて動かし始めていますのよ? 陸路を往く3万は通りがかる町や村から食料と兵を補充しながら。先行して海路を往き始めた1万はじきにこのヘクスブルグへ到着をして、鎖された岩山の道を再び通れるようにして進軍する算段のようですわ。あとからさらに2万の軍勢も海路で来てしまいます。もし、クラウゼンがあなたのいう独立の動きに同調をしては、通りがてらに一切合切を略奪していって終わりでしてよ?」
「まさか。お母様ともあろうお方が、たかが合計3万程度の海からくる軍勢を足止めもできないほどの無能だなんて計算はしていませんのよ? 各々に独立後、5つの国に分かれて同盟を結びますの。平和的友好関係及び外圧への共同対処を目的として。デールゼン領は大陸を東西に分かつ大河と、それを展望するイグレシア城によって大地からの敵を察知できますわ。西側との交流が途絶えようとも、こちら側のみであればカウエル領の広大で生産性の高い小麦畑のおかげで食いつなげますし、仮に敵が攻めてきたとして、この問題を引き起こした張本人が出張らざるをえない上にドーバントン卿の軍事力が加われば易々とは負けませんわ。この同盟が成立しさえすれば、富も財力も全てをクラウゼンが吸い上げることもできましてよ?」
半分ほどしかヤコブには意味が分からなかったが、当初、あれほどセオフィラスが王都へ行ってしまったことに腹を立てていたベアトリスが味方の立場になっているのだとは理解できた。そして表面上のベアトリスの言葉は理解できたカタリナは、かなり苦しいことを言っているのではないかと危惧している。ベアトリスをもってしても、今、置かれている状況でクラウゼンの協力を得て難局を乗り切るのは困難である――と。
「情に流されてしまうのは為政者として失格ですのよ、ベアトリス?」
「ええ、もちろん存じていますわよ」
「では、そのことを踏まえた上でお尋ねしますが、どうしてそこまで肩入れするのですか?」
「エクトルの婚約を破棄させるのが可哀そうなだけでしてよ? 姉として、妹の幸せを願っているだけですわ」
「あら。では、今日ようやくサイモスが婚約できましたのよ? 戦となれば結婚どころではなくなってしまいますのに、弟のことはどうとも思いませんの?」
「どうとも思いませんわね」
「言い切った……」
思わずヤコブが呟くが、意にも介さぬという様子でベアトリスは鼻を鳴らす。
と、ロロットの書斎のドアがノックされて返事も待たれずに開く。
「お母様、いつまで部屋にいるんです? そろそろ出てきてもらわないと――って、姉上? どうして、今ここに……?」
「サイモス、わたくしが責任を持ってあなたに相応しい伴侶は見つけて差し上げますわ。ですから10年ほどそのまま待ちなさい」
「はいっ!? ど、どういうことです、いきなり!?」
「そもそもサイモス、あなたが結婚相手を探していたなんて初めて知りましたわ。おやめなさい、これから動乱の時代です」
「はあっ!?」
まったく相手にされず一方的に言いつけられているサイモスに、思わずヤコブは同情して彼の肩をぽんと軽く叩いた。しかし当のサイモスは同情されることさえも軽いショックを受けざるをえない。扱いこそ雑にされているがサイモスとてクラウゼンという名家の貴族で、しかも長男であるのにヤコブのような下働き同様の身分の男にこうも慰められては納得しがたいものが出てくるものである。
「ベアトリス」
うろたえるサイモスをよそにロロットが静かに娘の名を呼んだ。
はい、と淑やかに返事をしながらベアトリスは母に向き直る。しかし交わされる冷えた視線はとても母娘のそれとは思えぬほどに鋭く光っている。
「サイモスとエクトルを連れてすぐ、アルブスへお帰りになりなさい。
しかしこれは今後の保険でしてよ」
「分かりましたわ」
「すぐっ!? 母上、僕の結婚――」
「それから」
「まだありますの?」
「だから僕の結婚が!」
「それは破談です」
「お黙りなさい、サイモス。わたくしがいずれ見つけると言ったでしょう。話は終わっていますのよ」
「っ……!?」
今度こそ絶句し、サイモスがうなだれた。
弟から母へとベアトリスは視線を戻す。
「全てを上手に収めなければ、エクトルとセオフィラスの婚約もなし。
それにあなたが最上の領地にして見せると豪語したアドリオンがなくなっては、もうあなたに帰る場所もなくなりますわよ。それでもよろしければ、すぐにアルブスへお帰りになりなさい」
「分かりましたわ。行きますわよ、サイモス」
「はい……どうせ、どうせ僕なんて……」
「サイモス様、お気を確かに」
「カタリナ……きみはけっこう、冷たく見えるけど本当はやさしいんだね……」
「これからあなたが行くのは戦場です」
「はいっ!? ちょ、どういうことさ!? 姉上っ、母上っ!? 一体、何がどういう話になってるって言うんです!?」
「お黙りなさい」
喚くサイモスを引っ張ってベアトリスは母の書斎を後にし、それにヤコブとカタリナもロロットへ一礼してから続いた。残ったロロットは机へ両肘をついたまま頭を垂れて小さく呟く。
「まあ……サイモスのお嫁にするには器量の足りぬ娘と、家柄でもなかったから惜しくはないですわね……」
そんなことをぼそりと口にしてから彼女は海を一望できる書斎の窓へ目を向けた。