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アドリオンの黒狼王  作者: 田中一義
幼少期2 ベアトリス・クラウゼン
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ベアトリス、襲来 ②



「はじめまして、オルガ・アドリオン領主代行。

 わたくしはベアトリス・クラウゼンと申します」

「こんなに早く、わざわざお越しいただけるなんて思ってもみませんでした。ありがとうございます」


 夕暮れ時である。手紙の返事ではなく、領主の娘が返事の代わりにやって来たとあってアドリオンの屋敷はにわかにざわついていた。突然の来客用の食事をどうするのかとか、大急ぎで上等な客室を用意しなければならないとか、今後のアドリオン領を左右するような人物を相手にどうもてなせばいいのかとか、とにかく使用人達はてんやわんやしていた。


「まずはこのアドリオン領の現状についての説明と、それに対するあなたの立て直しの計画についてご説明いただけるでしょうか?」


 手荷物をアドリオンの使用人に渡しながらいきなりベアトリスが言い放つ。

 それを受けてオルガは目を白黒させ、唾を飲み込んだ。


「……援助を求めておきながら、具体的なことは何も考えておられないのですか?」


 人の好さそうなふっくらとした笑顔で、しかし棘のある口調でベアトリスが尋ねる。

 しかしオルガは相手とはまた違う笑みを浮かべるのだった。その表情の変化にベアトリスはかすかに目を細める。


「もちろん、考えておりましたわ。ええ、それはもう……。

 あなたがそこまで真剣にアドリオンへの援助を考えてくださっていたことに、とてもほっとしてしまいました。……でも、申し訳ありません。わたしは少し……体が弱いものでして、座りながらゆっくりとお話をさせていただいてもよろしいでしょうか?」

「……ええ、もちろんですわ。ではお部屋に案内をしていただけるかしら」



 ベアトリスは道中に予見していた事態から外れて、少しだけ気を引き締めた。

 領主の仕事など何も分からぬ、ただ必死さばかりが目立つ手紙だったからオルガのことを舐めてかかっていたのだ。――で、あるにも関わらず、とても虚勢や時間稼ぎとは思えぬ言葉を返された。ガラシモスに応接間へ案内されながらベアトリスは釈然としないもやもやしたものを胸に抱える。


 そんな彼女を見送ってから、オルガはほっと胸を撫で下ろした。


『いかなることも後手に回る方が不利である……とわたしは考えています』


 主導権を与えぬために策を用意し、自分のペースへと巻き込んでいくこと。

 それがオルガがアトスと話をして考えたことだった。野心の強いクラウゼンがいきなり屋敷へ訪れ、救済をするふりをしながら全ての実権を手中に収めていく――というのはすでにして考えられることだった。だから対応をすることができた。


 もし、何も考えずにただ出迎えていたらしどろもどろになってしまうだろうとも思えた。


「焦らず、落ち着いてくださいね」

「っ……アトスさん、いつの間に……」

「おやおや、さっきからいましたとも。

 それよりも彼女――わたしには随分と強い人に見えます。

 正念場はここからですから、どうか油断なされずに、堂々とことを進めてください」

「ええ、ありがとう、アトスさん。……ふう、では行って参りますね」


 そうして静かにオルガの、アドリオン領の趨勢を決めかねない戦いは始められた。











「どうしたのよ、そんなにげっそりして? 体力だけが取り柄でしょ?」

「あのお嬢さん……人使いが荒すぎるんだ……。何もかも威張ってて……けども、機嫌を損なえばどうなっちまうかも分からない。ガラシモスのおっさんの苦労が少しは知れた……」


 日が暮れてからこっそりとアドリオンの屋敷へ戻ってきたヤコブはカタリナに見つかったので、そのまま炊事場まで引っ張って連れて行かれた。そこでやけにくたびれた()な兄を見兼ねてカタリナは夕餉の残りを一つの皿にまとめて出している。


「ところで……あのお嬢さんと、オルガ様、どうなった?」

「今もお話中よ」

「今もっ? もうとっくに日が暮れてるのにか? オルガ様の体がっ……」

「ガラシモスさんが何度も何度も、やんわりそう言ってるっぽいんだけど聞き入れないのよ」

「やっぱ、あのお嬢さん――」

「違う、奥方様が」

「へっ……?」


 狐につままれたような顔でヤコブは妹の顔を凝視した。


「よく分かんないけど、最初が肝心だから……今夜だけはムリをしてでもあのベアトリス様っていう人に見せつけなきゃいけないんだって」

「最初が肝心って、それで体調が悪化されたら……! ミナス様に続いてオルガ様まで、なんてことになっちまったらアドリオンは!」

「声がおっきい! バカ兄――って」

「バカ兄とは何だ、バカ兄とは!?」


 脊髄反射でヤコブが言い返したが、カタリナが一点を見たまま顔を引きつらせていた。不思議に思ってヤコブが肩越しに背後を振り返ってカタリナの視線を追うと、セオフィラスとゼノヴィオルが戸口に立っている。


「おにいさま……おしっこぉ……」

「セオ坊ちゃんに、ゼノ坊ちゃん? やべっ、今の聞こえ――」

「おかーさんも、おとーさんといっしょになっちゃうの……?」


 ゼノヴィオルの手を握ったまま、セオフィラスが不安そうな顔をして2人に言う。


「あ、い、いやっ、ち、違いますってば! や、やだなあ、セオ坊ちゃん、そんなことあるはずないでしょう? それより、あー……ゼノ坊ちゃんが、しっこ? ああ、ほらほら、俺が連れていってあげますから、セオ坊ちゃんも早く眠らないと」


 取り繕うように言いながらヤコブが兄弟に歩み寄って膝を折ってしゃがんだ。だがセオフィラスはまだ答えをもらっていないとばかりに、じっとヤコブを見つめて動こうとしない。


「……ヤコブっ」

「ないですって」

「……うそだよ」

「嘘なんかじゃないですってば」

「うそだよっ」


 言葉に詰まったようにヤコブが顎を引く。

 どうすれば良いものかと静かにヤコブが悩んでいると、不意にゼノヴィオルが小さな、今にも泣きそうな声を出した。


「ぁ……ぅ、ぅぅ……」

「ゼノ坊ちゃん?」

「ゼノっ?」

「……あらあら、やれやれまあまあ……」


 ゼノヴィオルの夜着のズボンが濡れ、足を伝って液体が床に広がっていく。セオフィラスとヤコブが慌てて離れる間にもおもらしは止まらず、ゼノヴィオルは少しぐずついたかと思うと泣き出してしまった。


「ああああっ……え、ええと、ええっと……ぜ、ゼノ坊ちゃん、あの、ほら、あんまり泣いてもまだお話中だってことだし……」

「邪魔、バカ兄」

「だからバカ兄とは何だ!?」

「ふええええええんっ!」

「ああああっ、ごめんごめん、ごめんなさいね、ゼノ坊ちゃん……!」

「ゼノ坊ちゃん、また体を洗って新しいものに着替えますよ。バカ兄、そこで床の掃除でもしといて」

「このっ……!」

「さあ、行きましょうね」


 カタリナが兄の文句を受けつけずにゼノヴィオルとともに行ってしまい、ヤコブは歯噛みする。


「ったく、何で俺がおもらしの後始末なんて……。そもそも拭くものはどこだっての……。セオ坊ちゃん、そういうの何か知りませ――あれ、セオ坊ちゃん?」


 気がつけばセオフィラスの姿が見えなくなっていて、ヤコブは顔を青くさせた。

 ヤコブは知っている。どうしてミナスが戦場に行かなければならなくなってしまったのかを。咎めることのできない、セオフィラスの気持ちが原因になってしまっていたということを。


「っ……ま、まさかっ、セオ坊ちゃん……!」



 その可能性に気がついてヤコブは慌てて屋敷の中を駆け出した。

 廊下の角を曲がり、大慌てで飛び込んだのは応接間だ。ドアノブを回しながら扉を押し破るかのように開け放つ。


「ぼ、坊ちゃん!」


 しかし、その部屋にセオフィラスはいなかった。

 向き合うようにオルガとベアトリスが座っており、彼女らの真ん中に置かれたテーブルには色々な資料が広げられている。傍らにはガラシモスも控え、いきなり飛び込んできたヤコブに目を大きくしていた。



「どうかしたの、ヤコブ?」

「あら、ヤコブではありませんこと。ここへ来てから姿を見ていなかったわね。――それで、レディーのお話の邪魔をするなんてどういうつもりなのかしら? 簡潔にお答えなさい?」

「え、あれ、えっ……?」


 戸惑うヤコブは冷や汗を垂らしてから、そそくさと後退して扉を閉める。


「……セーフ」


 静かに自分にそう言い聞かせたが、直後に扉が背後で開け放たれてヤコブが跳び上がる。


「うああっ!?」

「お答えなさいと、わたくしは言ったはずよ?」

「ご、ごめんなさい……早とちりで、何でもないっす……」

「…………あらそう」


 バタンっと乱暴にドアが閉ざされてヤコブは肩をすくめる。


「あれが女の開け閉めかっての――」


 ぼそりと呟くとすぐ、またドアがバンッと叩かれて音を鳴らしてヤコブは再び跳び上がるのだった。

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