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公衆電話で囁いて

作者: 小鳩子鈴

 

「もしもし、私です……」


 受話器の向こうで和らぐ声が、この電話を待っていたと伝えてくれる。自然と緩む頬を抑えながら、目を閉じて彼の声に耳を澄ます。

 父の帰りの遅い今夜、母が風呂に入った隙に家を抜け出した。つっかけたサンダルで転びそうになりながら向かった横断歩道脇の公衆電話。街灯に照らされた緑色の受話器を取り上げると、走って荒くなった息のまま硬貨を入れていく……とっくに指が覚えた番号をなぞりながら、深呼吸をひとつする。


 私の他愛ない話に嬉しそうに打ってくれる相槌が嬉しくて。

 がちゃり、がちゃりと硬貨が重たげに落ちていく音が切なくて。


 細く光る三日月と一等星が瞬く空の下。まだ冷たさが残る早春の風にカーディガンの胸元を合わせながら、硬貨六枚分の時間を過ごした。





「ねえ、まだ続いてるの?」

智子ともこったら……もう、ほっといてよ」

「だってねえ、今時、遠距離恋愛なんて流行らないわよ」


 週末近い木曜日。久しぶりに残業もなかった私は、同じ会社で働く同期の友人に誘われて大通りのコーヒーショップにいた。智子お気に入りのこの店は、店主こだわりのカップコレクションが揃えられていて、その様々な器で供される。何度か私も来たが、どうもその人に合わせた器を店主が選んで使っているようだ。

 カウンターに座るサラリーマンの男性にはすっきりとモダンなモノトーンのカップ。観劇帰りらしい窓際の三人組の奥様にはノリタケの花柄、しかも着ている服の色と似合うカラーが置かれている。向かいに座る智子に来たのは古伊万里のような重厚で繊細な模様……よく見てるな、と思う。


 歯に衣着せない物言いの智子は、綺麗な長い黒髪を片耳にかけるといたずらっぽく笑ってこっちを見た。この強気な笑顔はずるい。美人にこんな顔されたら大概のことはまあいいか、となってしまう。


「吉田先輩のこと、断っちゃったんでしょう? 勿体無い。結構カッコよかったのに」

「ちょ、ちょっと? なんで知ってるの」

「あーんなに分かりやすくアタックされてて、気づかないのは真由美だけだってば」


 結構前から噂になってたよ、と呆れ半分に言われて閉口する。


「……そうだったの?」

「私も聞かれたんだよ、付き合ってる人はいるのかとか。真由美には東京に同い年の彼氏がいます、って言ったんだけどね」


 遠距離恋愛で相手は学生だから押せばいけると思ったんじゃないの、そんな智子の言葉が胸に刺さる。


「やっぱり離れてると続かないって思われるのかな……」

「まあねえ。次はいつ会えるの?」

「……わかんない」

「電話は?」


 きゅ、とカップを持つ指先に力が入る。目に浮かぶのは、街灯の下の公衆電話。


「多くて週に、二、三回くらいかな」

「あー……家の電話使えなかったらそんなもんか。よく続いてるね」

「っ、もう、それより智子の方はどうなの。今度のお見合いは県庁の人って聞いたよ」


 げ、とあからさまに嫌そうな顔をする。ようやく形勢逆転だ。


「そっちこそ、なんで知ってるのよ」

「この前、智子に電話した時におばさん出たでしょ。熱く語ってくださったわ」

「お母さんってば。ほんとにもう、釣書ばっかりどこから集めてくるんだか……」


 話題が智子に移ったことにこっそりほっとして、痛む想いを熱いコーヒーで流し込む。面倒臭いと言いながらも、今回はそこまで拒絶感が感じられない。面食いの智子もきっと気に入る、とおばさんが言い切っていたが、その通りになるのかもしれない。

 ……同僚ともこも結婚か……。


「まあ、ウチらももう二十二歳だしね。そろそろ考えなきゃっていうのは分かってるんだけど……あーあ、孝子叔母さんみたいに独身貴族がいいのに」

「一人娘が何言ってるの」

「分かってるよお。言ってみただけ」


 苦笑いしながら落ちてきた髪を耳にかける智子。美人は何をしても様になるなと、羨ましく思いながらぼんやり眺める。ふと、彼の隣に知らない誰かがいる映像が頭をよぎって、慌てて打ち消した。




「それでね、今日行ったお店はみんなカップが違うの」

『へえ、面白いね』

「智子のは和風のでね、古伊万里みたいな模様で」

『ああ、唐草』

「そうそう、赤と濃い青と金彩で」


 本当に、他愛のない話。こんな話にもいちいち嬉しそうに頷いてくれることがすごく嬉しい。うれしい、けど。

 本当に聞きたいことはどうしても聞けなくて、いつも迷路の外をなぞるような会話ばかり。


 次はいつ会えるの

 本当はずっと一緒にいたい


 ……寂しい


 困らせるって分かっているから、全部飲み込んで、替わりに美味しいコーヒーの話をする。せめて物分かり良くいなければ、あっという間に恋人でいられなくなりそうで。


『真由美のカップはどんなのだった?』

「私? 私のは、ほら、あれ。イチゴの模様の、ウェッジウッドの」

『ああ、前に可愛いって言ってたやつか。よかったな、使えて』

「覚えててくれたの?」


 高校のクラスメイトだった彼と成人式で再会して、帰省してくるたびに会うようになった。恋人になって一年。東京の大学で学んでいる彼と、最初から離れ離れの私達。彼の卒論が忙しくて会うこともままならなくなって、この前の年末は帰省もしなかった。


 東京はここよりずっと都会だよね。綺麗な人も……たくさんいるよね

 もうすぐ卒業だよね


 どうして、卒業後のことは話してくれないの?


『……み、聞いてる、真由美?』

「え、あ、ごめんなさい、ちょっと遠かったみたい」

『そっか……あのさ、電話くれるのは嬉しいけど、外からなんだろ? 無理しなくていいから』


 その言葉に息を呑む。確かこの前も言われた。ガチャリとまた一枚、硬貨が落ちる。


「……迷惑、だった?」

『違うって。公衆電話、あの小児科の近くの交差点のところだろ?』

「うん、そう。家からも近いし、街灯もあるし大丈夫だよ」

『そうは思えないんだよ。そっちは田舎だから、真由美がのんびりしてるのはわかるけど……』


 最近やけに結婚の話ばかりしてくる両親に、遠距離で、しかも学生の恋人がいるなんて言えないでいる。だからこうやって抜け出しては声が聞きたくて電話をかける。いつ電話する、なんて約束はできないから時間だけ決めて……彼は夜の八時半からの三十分の間だけ、鳴るとも分からない私からの電話を待ってくれている。東京の下宿のアパートの廊下に一台だけある電話の前で。毎晩。


 コールが二回以上鳴る前にいつも取ってくれるから、彼以外の人が出たことはないから、彼もこの電話を心待ちにしてくれてると思ってた。でも、違った? せめて声が聞きたいと思うのは、私だけだった……?


 その後は何を話したのかは覚えていない。ただ、早く家に帰るように急かされて受話器を置いた。入れた硬貨が戻ってくることなんて、今迄なかったのに。

 パチンと閉めた小銭入れの留め具の上に、ぽとりと涙が落ちた。




 その日以来、彼との電話は短くなった。私は今まで通りに掛けるけど、何かと理由をつけてはすぐに切られてしまう。電話用に硬貨を残しておく癖がついた私の小銭入れは、重くなっていくばかり。減らないそれを見て溜息がまたひとつこぼれた。



 かちゃりと音を立てて置かれるティーセット。職場からほど近いホテルのラウンジで、ゆったりとしたソファーに腰掛ける目の前の人の顔が見られない。


「悪かったね、無理に誘って」

「あの……私この前、お断りを」

「まあ、ね。でもあんな立ち話じゃなくって、ちゃんと話したかったんだ」


 三年上の吉田先輩は営業部のやり手で社内の評価も高い。お嫁さんになりたいって言っている女子社員も何人もいる。選び放題のはずなのに、なんで私なんかが目に止まったんだろう。

 入社したての時は失敗ばかりで、そんな私に呆れながらも指導してくれた。面倒見のいい先輩だとは思っていたけれど、まさか交際を申し込まれるなんて。


「聞いたけど、遠距離で学生なんだって。同じ高校?」

「……はい」

「そっか。会えてるの?」

「卒論が忙しくなってからは、あんまり……」

「ああ、だろうね。俺も覚えがあるよ」


 ちょっと失礼、と胸ポケットから出したタバコは彼と同じ銘柄。その箱を持つ手に、彼の姿が重なる。フィルターの底をトントン、とテーブルで鳴らしおもむろに咥えてライターで火を……違う。咥える前にタバコを軽くキュッと捻るのが彼の癖。この人は彼じゃない。二人っきりでこうしてお茶を飲むのは、あの人じゃないとやっぱりいや。

 名前を呼ばれて顔を上げれば、先輩は困ったように笑っていた。


「……ダメかあ」

「え」

「最近よく、笑ってても寂しそうにしてたから」


 会社でまでそんな顔していたなんて。思わず自分の頬を両手で押さえる。先輩はふうっと長く煙を吐くと私をまっすぐ見た。


「それでも仕事も頑張ってるしね。可愛いなって思ってたんだ……俺にすればいいのにって」

「先輩」

「余計に寂しそうな顔されちゃなあ。残念」


 ごめんなさい。先輩、ごめんなさい。私はやっぱり、彼がいい。ちっとも会えないけれど、もう飽きられたのかもしれないけど、私が好きなのは。



 走りながら腕時計を見る。八時五十五分。息も整わぬまま、受話器をあげて硬貨を入れて、左耳のイヤリングを乱暴に外してポケットに入れて。呼び出し音が鳴る。一回、二回、三回……とうとう出てもくれないの。このまま終わりなの。

 もう、名前も呼んでくれないの。あの声は、もう……


「真由美」


 後ろからかかる声に驚いて振り向いた。耳から離れた受話器からはコールの音が切れ、知らない誰かが応答する声がする。

 街灯の明かりの下に現れたのは、会いたくて仕方がなかった人……彼はそのまま近づくと、私の手から滑り落ちた受話器を取り上げ一言二言何か言うと、ガチャリと戻した。

 ちゃりん、ちゃりんと返却口に戻る硬貨の音が遠くに聞こえる。


「……どうして」

「迎えに来た」


 当然のようにそう言って嬉しそうにした笑顔はすぐに渋いものに変わる。


「ほら、心配した通りだ」

「え?」

「こんな薄着で、こんな暗い夜に。危ないったらない」


 自覚が足りないと怒られた。意味がわからない。そりゃ、足元はサンダルだけどストッキングは履いてるし、カーディガンだって羽織ってる。それに暗いって言ったって街灯もあるし、信号機の明かりもある。ああ、でも会えるって分かっていたら、こんな普段着でなくもっと綺麗な格好をしたのに。


「あのね、女の子の一人歩きは危険なの。真由美は危機感が薄いから……誰かに絡まれたり襲われたりしたら、って考えたことなかった?」


 ぶんぶんと首を横に振る。智子みたいな美人ならわかるけど、まさか私が。そんな私を見て彼は大きなため息をついた。


「……向こうで離れて心配するのも、もう限界。だから、ごめん。真由美に謝らなきゃいけないことがある」


 心臓が大きくドキリと波打った。ごめん? ごめんって何。嫌だ、そんな言葉、聞きたくない。

 見上げた顔が涙でぼやけるけれど、目を合わせてくれない彼はそんな私に気づかない。やっぱりもう、嫌われちゃったの、かな。

 私も彼を見るのが辛くて、視線を上に向ければ今夜は明るい小望月。そんなに経っていないはずなのに、あの三日月の夜がこんなに遠い。


「春になったらこっちに戻ってくるつもりだったけど、勤務先も東京のままなんだ。だから真由美。ここを出て俺について来てくれないか」

「……え?」

「結婚してくれ」


 なんて言ったの、けっこん……「結婚」? 「別れよう」じゃないの?


「真由美のお父さんが地元の奴でないと結婚は認めない、って言ってただろ。こっちの支店に勤務希望出してたんだけど、散々待たされた挙句、結局配属は東京(むこう)でさ」

「え、私そんなこと……?」

「言ってたよ。俺にじゃないけど、成人式の時に」


 なんの話。確かに、遠くに嫁にはやらないって小さい頃から言われてきた。式の後の同窓生のパーティーでクラスメイトの陽子ちゃんや悦っちゃんと結婚のことを話した気がするけど。


「だから地元に戻って就職してって思ってたんだけど」

「……どうして、何も言ってくれなかったの?」

「糠喜びさせたくなかった。ちゃんと決まってから話したかったんだ」


 駄目だったけどな、そう言った彼は初めて見る背広姿で、手にはボストンバッグと紙袋。


「今日はもう遅いから、送って行って玄関先で失礼するよ。改めて挨拶に行くから。お父さんさ、和菓子好きだって言ってたよね」

「……虎屋の羊羹」

「持ってきた」


 これで少しは気を許してくれるといいけど、と黒地に金の紙袋を揺らす。どうしよう。これって、これって。

 おもむろに目が合って、瞳の奥の揺れに気づく。彼も緊張していると分かって、急に現実に引き戻された。


「真由美、返事は?」


 少しだけ切羽詰まった声で問われたけど。返事なんて、そんなの決まってる。




 ……その翌月。急に高くなった家の電話代に驚いたお母さんによって、電話のすぐ脇に目立つ文字盤の時計が置かれた。彼の下宿先の廊下には「長電話禁止」の紙が貼られたという。

 苦笑いでそれらを見つつ受話器を握る、二人の間に電話が要らなくなるまでは、あと少し。






お読みいただきありがとうございます。

こぼれ話を本日付 活動報告に書いています。よろしければそちらも覗いてみてください。


2017.1.22 小鳩子鈴

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