【競演】異世界雪模様
早稲田を卒業し、それなりに好待遇の企業に就職が半ば決まっていた飯塚智也が、事故死したのは不運そのものの理由だった。高速道路を走っていた時、逆走してくる車に衝突されたのだ。智也の車はほぼ大破。智也は即死同然だった。
普通に考えてというか、慣例にならえば智也は天国に招かれるはずだったが、余りに智也を憐れに思った神様が、彼を「異世界」に転生させることを思い付いた。
「異世界」。魔王を倒す使命を与えられるか、ハーレムを作ってまったりとした生活を送るか、逆に魔王の軍勢に加担して、世界を滅ぼし、世界を征服する道を選ぶか、選択肢は様々である。
だが神様は、智也に何の使命も、条件も役割も、仕事も任せなかった。彼、智也の思う通りにさせたのだ。彼がどのような生活振りを見せるかにも興味があったのだが、何よりも智也は、神様が「異世界転生」させた記念すべき100万人目の人物だったというのもある。
さて、ということで異世界での生活が始まった智也だが、神様の予想通り、彼は何をするわけでもない。ゴブリンや、オークのグランジロックバンドのライヴに出掛けては騒音に身を委ねたり、可愛いエルフ嬢が熟成させたワインを嗜んだり、好き放題に生きていく。
異世界で暮らすためのスキルと資金というか、いわゆるお金は神様から潤沢に与えられていたので、それらに智也が困ることはなかった。何か空白の時を過ごすかのように智也は疾走する毎日を送っていく。
そんなある日、智也は湖のほとりで水浴びをしている女性、七菜香に出逢う。七菜香は黒いロングヘアーが魅力ある女性で、瞳は切れ長、神秘性を持ち合わせた、それは美しい女性だった。
智也が七菜香に話し掛けると、七菜香は街の外れの酒場で仕事をする看板娘だという。七菜香と早速意気投合したと、個人的には、一方的には、思った智也はこの日から七菜香の酒場に通い詰めることになる。
七菜香の父親が営む酒場は、決して陽気な雰囲気とは言えなかった。錆びれて、うらぶれた印象のある酒場でもあり、粗暴な男達、冒険、旅の疲れを癒す無頼漢たちのたまり場でもあった。
酒場のムードに若干飲まれて、一瞬気おくれした智也だが、七菜香との恋を成就させるため、七菜香への想いを遂げるために酒場に通い詰める。
ある時には、智也を小僧扱いした冒険者と乱闘騒ぎになったこともあった。それでも雨の日も、風の日も、雷雨の日も智也は七菜香の酒場に通い詰めた。ある日、慣例のように酒場の客と一悶着起こした智也の傷の手当をしながら、七菜香は智也に訊く。
「ねぇ、智也。どうしてあなたは、私にこれほどまでに構ってくれるの?」
「どうしてって」。そう言って智也は言いよどむ。たしかに七菜香は美しい女性だが、天下一というわけでもない。智也の運命の女性という印象も格別するわけでもない。ただ、ただ。智也の胸の奥から突き抜ける衝動が彼にそうさせているだけだった。智也は仕方なしにこう告げる。
「君が単純に綺麗だからだよ。多分。他に理由なんてありはしないよ」
「そう」。思いのほか淡泊で味気ない智也の返答に、少しがっかりしながらも七菜香は、はにかんだ笑顔を見せる。智也は嬉しそうに七菜香の顔を指差す。
「アハッ。俺の前で笑ってくれたの初めてだね。前はストーカー紛いの困った男。トラブルメーカーとしてしか見てなかったのに」
「ここまで尽くされると、というか纏わりつかれるとそれは変わるわよ」
智也は七菜香のその言葉で少し救われたようだった。そんな日々が過ぎ行き、いつものように七菜香の酒場が開いているある日。智也は通い詰めていた酒場に来なかった。ただ静かに大海原を臨める崖の淵に立っていた。大海原を眺めながら智也はこう零す。
「こんな景色があったんだな。随分と狭い世界に住んでいもんだな。俺は。現実世界では」
一方365日、四六時中、酒場に入り浸ってくれていた智也が酒場に来てくれないことが、七菜香は心配でならない。七菜香は父親の了承を得て、店を飛び出していく。そして街の、村の、あちらこちらを探して歩く。気紛れな彼、智也のことだ。遊郭にでもいるのか、賭博場にでもいるのかと探し歩いたが、見つからない。
ほとほと疲れ果てて、ふと見上げた崖の淵に、七菜香は智也の姿を見つける。
「智也」
そう言って智也に駆け寄る七菜香には、恋心にも似たものが芽生えていた。息をぜぇぜぇと切らしながら、智也に駆け寄る七菜香。七菜香は今にも泣きだしそうな勢いで、智也に声をかける。呼び掛ける。
「智也、智也!」
すると智也は不思議そうな、それでいて涼しげで、清々しい顔、表情を浮かべて七菜香の方を振り向く。
「ん? どうしたんだ。七菜香。そんなに慌てて。息を切らして」
「どうしたって。酒場に来ないし、あなたがいそうな場所にもいないし。探したのよ。必死に。あなたのことを」
「探した? 俺のことを?」そう口にして、しばらく智也は静かに微笑む。彼はどことなく、というか心底嬉しそうだ。
「『探してくれる人』か。現世にはそんな人はいなかったな。この異世界に転生して初めて出逢えたよ。俺を『探してくれる人』」
「えっ」
そう言って七菜香は言葉を無くした。それは智也が初めて見せた影のようなものだった。「探してくれる人」がいなかった。初めて異世界でその人物に出逢った。どういう意味なんだろう。七菜香は想いを馳せる。
すると智也が思いの丈を充分に話して聴かせる。
「レールの上に乗って、スイスイと順調に生きてきたからなぁ。何でも出来る器用な奴だと思われていたらしい。あいつは大丈夫。何やったって大丈夫、平気。そう思われてたんだよ」
「そう……」
寂しげで悲しげな瞳で七菜香は智也を見つめる。智也は尚も独白を続ける。
「でも、誰も構ってくれないっていうのは意外と寂しいもんだよ。誰も本当の自分を見てくれないっていうのは。どんなに人生を順調に歩んで来てもね」
七菜香は言葉に詰まって次の句が中々告げれなかった。思い切って、勇気を振り絞って、智也に七菜香は想いを告げる。
「私なら、本当のあなた、本当の智也を見てあげられる。私ならあなたがどういう人か知ってるし、無鉄砲で、一途な男性だって知ってる。だから……」
「だから?」
落ち着いた口調、口振りでそう問い掛ける智也に、七菜香は告げる。
「私ならあなたを受け入れられる」
「そうか。ありがとう」
智也はそれとなく、異世界での生活が終わりに近づいているのを、悟ったかのようだ。
神様が自分を憐れに思った理由、不憫に思った理由、それは順風満帆な人生が開けている矢先に事故死したからでも、余りに不運な死に方をしたからでもなく、ただひたすら、一重に智也を「探してくれる人物」が現世にいなかったのを憐れんでくれていたのだ。
「そうか。なるほどね」
そう智也は呟くと、季節外れの雪が舞い落ちるスノウシーンを見上げる。
「雪」
智也と七菜香は声を合わせる。春も間近のこんな季節に雪が降るなんて。二人は不思議な神秘性、情緒に身を委ねて、雪の粒を掌に受ける。そしてどちらからでもなく、こう呼び掛ける。
「さようなら。ありがとう」
そして二人は名前を呼び合い、指を絡ませ合った。
「七菜香」
「智也」
雪が深々と降り積もっていく最中、智也の体はひっそりと、静かに霞みがかり、消えていく。七菜香の手には智也の手の温もりの名残だけが残った。七菜香は最後にこう呟く。
「ありがとう。智也」
さて、一方、異世界での役目、目的を遂げて神様のもとに戻った智也だが、どうにもこうにも浮かない顔だ。神様に文句の一つでも言ってみる。
「あそこまでいいムードになって、好きあって、相思相愛になってキスの一つもさせないとは、神様、あなたはサドですか」
神様は苦笑いを浮かべて、天国へと智也を招聘していく。
「まぁ、いいではないか。智也。マテリアルなものより大切なものは『心』だよ。『心』」
「『心』ねぇ。まぁいっか」
そうして智也は天国へと無事招かれて、幸せな天使になったという。
一方、神様の方は「異世界転生100万人キャンペーン」が無事終わってしまい、次なる企画に頭を悩ませていたそうな。
「次は1000万? いや待つのが長すぎる。500万じゃ中途半端だし。それじゃあいっそのこと……」
神様にも人間にも悩みは尽きないものである。